第20話 嫉妬

 修学旅行から戻った、十月の終わり。受験のための勉強は、より厳しさを増していった。

 何しろ、真太郎は通知表の成績があまり良くなく、目標とする数字に達していなかった。この差を挽回するには、どうしても学力に頼るより他にない。

「そこまで。お疲れ様、十分休憩して」

「うげぇ…」

 わたし達は毎週のように、過去問を解いては復習を続けていた。わたしの部屋には、さながら塾のようなピリピリとした空気が満ちている。

「辛い、辛いよー…」

「うーん、ちょっと辛いかもね…」

「え?」

「この成績だと、まだ辛いかな。もうちょっと上げていこうか」

「嘘!まだ足りないの…」

 真太郎は決して頭が悪いわけじゃ無い。得意科目では結構良い点数を出すし、教えれば理解はしてくれる。だけど、不得意科目はどうしても伸びが悪かった。

「じゃ、お疲れ様」

「えぇ」

 彼が帰った後、わたしは一人部屋で頭を抱えた。

 机の上には二人で採点した答案が何枚も置かれている。そのほとんどは、五十点から六十点。悪いものだと三十点代のものもあった。わたしから見ても、確かにこれらの問題は難しいだろうし、そんな問題に対しても半分かそれ以上のものを取れているのは、十分ほめられるもののはずだ。

 だけど、わたしはひどい焦りを覚えていた。もっと高く、もっと確実に。何かに脅されているかのような感情が渦巻いた。拒食症にも似たその感情は、やがて理不尽な八つ当たりの形で現実化する事になってしまう。

 十月の終わり、中間テストが済んですぐの頃。

「お疲れ様、差し入れ…」

「…んぅ…」

 わたしは差し入れにと、小さいお菓子のセットをお茶と一緒に用意して、部屋に戻った。だけど、その時わたしが見たのは、ちゃぶ台に突っ伏して居眠りをする真太郎の姿だった。

「ちょっと、起きて。起きてよ」

「んぉ…あ、ごめん。寝ちゃってたかなぁ…」

 そう言って、彼は大きくあくびをした。

「もう、数学の問題まだ解き終わってないじゃない。後、ここの関数の問題間違ってる」

「うえぇ!…うぅ、きついぃ〜」

 わたしが気を遣わないでいい、と告げた時から彼は、素直に辛い事や嫌な事を私の前で口にする様になった。

 そして、彼が一番弱音を吐くのがこうした勉強の時だった。辛い、苦しい、もうやめたい。彼の一番正直な気持ちだろう。

 だけど、それを聞く度にわたしの心のどこかが熱を帯びる。そしてそれは、遠い昔に捨てたはずのあの暗い冷たさの双子の兄弟だった。

 辛いのはこちらもだ。いい加減にして欲しい。教えるのも大変なんだ。

 ひどく理不尽だと理解していながらも、暗い熱は膨らみ続けていた。求めたのはわたし、そして彼は応じてくれただけ。そのはずなのに。

 その次の週、真太郎はひどく疲れた様子でやってきた。眠そうに目を瞬かせて、身体にも力がなく覇気が全く感じられなかった。

「いらっしゃい。ところで、宿題はどのくらいやれたかな?」

「このくらい」

 彼が差し出した紙の束を手早くチェックする。数学と英語、わたしが時間の合間合間に作ったちょっとした問題集だ。

「全部終わらなかった?」

「ごめん。塾の課題も沢山あって…」

「そう。じゃあ、残りの分やろうか」

 彼の問題集への意欲は、確かに高いとは言えなかったけど、それも仕方がないだろう。実際彼はひどく眠そうにしているし、それが単なる夜更かしではなくて、ひたすら勉強しての事なのは見ればすぐに分かった。

「ん…ん…」

 案の定、彼は課題の最中に船を漕ぎ始める。

「起きて」

「んぁ!」

 起こせば、また問題を解き始める。だけど、程なくしてまた瞬きの間隔が短くなり、一回あたりの長さも長くなってくる。そして眠りに落ちる度にわたしが彼を起こした。

「いい、ここの文法はこの関係代名詞が…」

「……」

 まただ。わたしが話している時でさえも、そんな風に寝ちゃうんだ。

 わたしの中で、何かが弾けた。

「…いい加減にしてよ」

「へ?」

「いい加減にしてよ!」

 自分でも信じられない様な声が出た。ひどく甲高くて、思い出すだけでも不快感を催すひどい声。

「どうして君はわたしが教えてる間にそうやって寝てられるの?やる気がないんだったら帰ってよ!」

 ヒステリックに喚き散らす。身体の中の熱に任せて、わたしはひどい言葉を吐き続けた。

「…俺だって」

「何よ」

「俺だって、付いて行けもしない勉強を必死でやってるじゃないか!どうしてそんなに責められなくちゃいけないんだ!」

 激しく真太郎が反論してくる。今まで彼は、わたしの前で怒りを見せた事なんて一度も無かったのに。

「ふざけたこと言わないでよ!」

 それに対して、わたしはさらに激しい声で応じる。真太郎の怒りを見た衝撃も相まって、もう理性では感情を抑えきれなかった。

「………」

「………」

 お互い怒鳴り合った後の静かな瞬間。自分の中身を使い果たして、空っぽになった目線を互いに交換する。

 その時、彼が浮かべた表情は今でも忘れられない。あの驚きと、悲しみと、そして後悔の入り混じった顔。きっとわたしも同じ様な顔をしていたと思う。彼にあんな事を言わせてしまった、自分自身への思いが、きっとそうさせていたはずだ。

「ごめん」

「ごめんなさい」

 謝罪はほとんど同時だった。熱くなりすぎた感情が冷えていく。暗い熱が引いて、逆に今度は湿り気のある明るさが心を満たした。

「そもそも、わたしが言える立場じゃ無かった。君が頑張ってるのに、理不尽でひどい事を言っちゃってごめんなさい」

「…こっちこそ。君が教えてくれてるのに、ごめん」

 お互い頭を下げて、また姿勢を戻す。その日は一旦勉強を切り上げて、久々にゲームでもして、お互い少し休む事にした。

 これが、わたし達二人が経験した初めてのケンカだったと思う。よくよく思い出せば、わたしと慎太郎とでは、いつも彼が譲ってくれていた。出会ってからずっと、彼はわたしを気にかけてくれていたし、わたしが嫌な思いをしないように色々と考えていてくれた。

 その時のわたしはそれに甘え切って、その末がこのケンカだった。今でも思い出す度に、顔から火が出るほど恥ずかしくなる。

 この後、わたし達の間では、お互いの感情がより率直に出て来る様になった。真太郎は今まで抑えてきた事を正直に言う様になったし、わたしも嫌われないか心配して言わなかった事も言える様になった。

 お陰でわたし達の間には、ケンカとまでは行かなくても小さな争いが何度も起きる様になった。きっかけは本当に小さなもので、彼の方からのこともあれば、わたしの方からのこともあった。

 他の人と話す時は、ピクリとも動かない感情が、彼と話していると激しく揺さぶられて、ほんの少しのことでも敏感にわたしを反応させた。中にはそれこそ本当に八つ当たりとしか言えないものもある。例えば彼が加々美さんに勉強を教わっていたある日の帰り道。わたしは彼に八つ当たりをしてしまった。「もうじゃあ加々美さんに教わればいい」なんて…。

 ケンカの事もそうだけど、受験が近づいてくるにつれてひどく心が不安定になっている。ただ、決して悪い方向にばかりというわけではないけれど、それでも不安定な事には変わりはない。

 真太郎と一緒に受けた模試の結果で勝負とも言えない勝負をしたり、彼の成績が上がっていればわたしの事みたいに一緒に喜んだり…。あるいは、彼が成績不振で落ち込んでる時は、わたしまで重い気分になるし、彼が他の人に勉強を教わっているのを見ると、激しい嫉妬で身を焦がした。

 昔はあくまで「他の人のものだ」と気にしないでいられたものが、いつの間にか自分のそれと一体化してしまったみたいに、揺れ動き続けていた。

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