第3話 君がくれた熱

 また一週間。同じ日々が過ぎた。わたしは誰にも会わなかったし、誰かが訪ねてくることもなかった。

 だけど、彼のメッセージはわたしの胸に、小さなささくれが突き立ったように、ごく薄いものだったけれど、記憶を残していた。

「君と友達になりたい…か…」

 部屋の天井に向けてわたしが呟いても、答える人も聞いている人も居ない。

 カーテンの隙間から覗く夕日のオレンジが、微かに壁に影を作る。外が怖い。できるだけ内にこもって生きていきたい。小さく丸まった体の影がそう言っていた。


 チャイムの音がした。途端にわたしの意識は現実へと引き戻された。

 誰だろうか。億劫ではあったけれど、わたしは体を引きずるようにしてインターホンの前へ出た。

「はい」

「…こんにちは。巳波三中の津田と申します。アオイさんに今週の課題を届けに来ました」

 声と名前を聞いた途端、わたしの意識はかっと熱を持った。

 それは怒りだった。彼に対する…言ってしまえば、一度行ったことを覚えられない馬鹿者に対する抑え難い怒りだった。

 ふざけるな。前に来るなと伝えたばかりなのに、あいつはそれさえ覚えていられないのか。多少の八つ当たりもあったのだろう。わたしの中で怒りは際限なく大きくなっていった。

 どうやって、抗議しよう。馬鹿?アホ?いや、子供っぽいし品がない。もうちょっときちんとした言葉遣いで…。

 後にして思えばその怒りは、わたしにとって久し振りの『新鮮な』感情だったかもしれない。部屋の中で、冷え淀み切った暗い感情じゃない、熱を持った明るい感情。その時のわたしは、それがどれだけ大切で、驚くべきことか分かっていなかったけれど。

 わたしは頭の中でシミュレートを続けながら、玄関の前に立った。言ってやる。そう決意して、扉の取っ手に触れた。

「君、ウチに何か用事かい?」

 低い男の声が、わたしの手を止めた。扉の向こうに現れたもう一人の人物…父さんの声だ。

「あ、はい。ええと…」

 彼はたどたどしく、父さんに来訪の目的を告げる。わたしは扉に寄りかかりながら、それを聞いていた。

「アオイさんに、今週の課題を届けに来たんです。委員長が、まだ学校へ来れていないので…」

「そうかい。それはありがとう、わざわざここまで来てくれてね…」

 少しして、父さんはまた口を開く。

「でもね、わざわざ直接来てくれなくても、ポストに入れてくれるので構わないんだよ?実際、普段来てくれてる子もそうしていたし…」

「あ、はい…」

 父さんに言われて、彼は後ろめたげに応じる。

「…でも、僕はですね…」

「ん?」

「僕は、アオイさんにもう一度会いたいと思って来たんです」

「えっ…」

 わたしの口から、つい無意識に声が漏れた。わたしは慌てて口を塞いで、扉に耳を当て続ける。

「…一度会って話したのかい?アオイと?」

「正確には、二回ほど。それで今日会えたとしたら三回目になります」

 彼はわたしに今までに会ったそれぞれの事について、ごく簡単に父さんに話した。

「…この前来た時に、同じことを彼女から言われました。『直接来なくていい』って」

「…それじゃ、どうしてわざわざ来たんだい?」

「……」

「大丈夫。誰も聞いていやしないから」

 わたしは一瞬ギョッとした。聞き耳を立てているのがバレたのかもしれないと、心の中に冷や汗をかいた。

「…実は、ですね」

 彼は緊張した様子でまた口を開く。同時にわたしも、神経を耳に集中させた。

「僕は、彼女と友達になりたくて来たんです。初めてここに来た時と一緒で」

「…友達に?」

 遂に言った。その言葉を聞いた時、わたしはどんな顔をしていただろうか。

 心臓がどくんと跳ねる。ついさっきまでの怒りの熱が、今度は逆に驚きと…なんとも言い難い不思議な気持ちの温かさに変わった。しかしその一方で、なお嘘つきを疑う、ひんやりとしたわだかまりが心の奥に残っている。

 もう少し話して欲しい。彼が本当のことを言っているのか知りたい。わたしの中で、そんな声が聞こえた気がした。


「失礼な話だけど、君はどうしてそう思ったのかな?」

「というと?」

「いやね、アオイは知っての通り入学以来一度も中学に行ったことがないんだ。クラス写真にも、まる囲いでさえ写さないようにってお願いもしてる。君はアオイに帽子を拾った時に初めて会ったと言ったね?」

「はい」

「その時はアオイと知らなかったわけだ。だから、君の言ってることはちょっと筋が通らないんじゃないかな?」

 言葉も声も優しい。しかし、その裏には嘘を見破って、本音を引き出そうとする鋭い針のような厳しさがある。

 父さんは疑っているんだ。わたしが苦しんでいるから、父さんも同じだけ苦しんでいる。わたしが人を疑うように、父さんも疑っているんだ。

 わたしは父さんの声で、幾分か冷静になった。いや、温かさが去ったと言うべきかもしれない。

 そうだ、彼もきっと嘘つきだ。わたしと友達になりたいなんて、そんな見え透いた嘘をついてる。そもそも、こんな不気味な姿の人間を好きになってくれる人なんて、いるわけがない。

 気がつけばわたしは、扉の下にうずくまっていた。もう彼の答えに対する興味は、消えつつあった…のだけど、

「実は、ですね…アオイさんってとても有名なんです。一度も来てないのに定期テストは満点で一位だったり、弁論文では優秀賞に選ばれたり…」

「それで?」

「その、彼女が書いた弁論文がすごく面白くてですね、直接会ってみたいなって思ったんです」

 弁論文?そう言えば、ちょっと前に何か書いた気がする。何を書いたのだったか、わたしは全く思い出せなかった。

「どんなことが書いてあったの?」

「ちょうど今コピー持ってます。先生が優秀なやつをまとめて、みんなに配ってたから」

 そう言って、彼はリュックを開けてガサゴソと中を探す。程なくして見つけたらしく、取り出す音がした。

「ほら、ここ。赤線を引いちゃったくらいなんですけどね…。『正しさについて』って書いてますよね?」

「ふむ」

「それで、本論のここのところ。『絶対的な正しさ、つまりいついかなる時、どんな場所、誰に対しても正しい事、と言うものは存在すると私は考えます。性格に言えば、そうであるかを知る方法、と言うべきでしょうか』、『…それは「自分の行動が、世界のあらゆる場所、人に対しても正しいか」という問いにイエスと答えられるかどうかです。…例えば困っている人に手を差し伸べる事、あるいは苦しんでいる人に寄り添う事、親が子供を愛し、守ること。これらの行動は、きっと先程の問いに、胸を張ってイエスと答えられるものでしょう。どんな人でも関係ない、日本人でも、アメリカ人でも、インド人でも同じ…。実は、私達が普段している、ある種当然とも言える行動のうちに、絶対的な正しさはあるのです。そして、自分自身の行動が、この問いに照らして是であるのなら、それはこの世界のどんな場所でも、どんな人に対しても悪とされる事のない、正しい事だと言えるでしょう』」

「……」

「そして最後に、『正しさとは、私達がより幼かった頃に教えてもらったものの様に、単純なものなのです。しかし、だからこそ、それらは決して変わらないものであり、そして、変わり続ける世界の中で…追い求めるべきものなのです』」

 彼は読み終わって軽く息をついた。

「…自分はとてもすれた、まあ中二病って言うのかもしれませんけど…。とにかく、『絶対的な正しさなんてある訳ない』ってずっと思い込んでいたので。…ある意味正面から殴られた様な感覚になったんですよね」

「随分な表現をするね」

「ただ、それ以上に凄いなって思ったのは、『正しさ』をひたむきに求めるアオイさんの姿勢なんです。文章全体から『本当の正しさ』をとことん追求しようとする強さが出ていて…」

「なるほど。それで実際に会ってみたくなったと」

「はい」

 もうやめて。裏で聞いていた私は、まさに顔から火が出そうだった。

 あんな適当に書いた弁論文を褒められて、私の中ではうれしいよりも恥ずかしいの方がよほど大きかった。元はと言えば、有名な学者が唱えた説を持ってきたもので、わかる人が見ればわかってしまう。自分自身の考えを組み立てきれなかった、未完成品なのだ。

 しかも、ついさっきからわたしが聞いているのにも関わらず、弁論文を音読されるという屈辱。気付かれてもよかったなら、わたしはきっと叫び出していた。

「で、実際に会ってみた感想はどうだったかな?」

「ええと…その…」

 途切れがちな彼の言葉、声。その反応から全てが察せられる。

「とても…綺麗な人で…びっくりしました…」

「なるほど…君もやっぱり男の子だねぇ」

 くっくっ、と父さんは喉の奥で笑った。彼もまた、恥ずかしげに小さく笑う。

 少しして、父さんが声のトーンを多少改めて言った。

「…その、よかったら弁論文のコピーをくれないかな?実は私達も読んだことがなくてね…」

「ああ、どうぞどうぞ。差し上げますよ」

 なんて事だ。課題ファイルの中に入っていたのを見つけた瞬間捨てたのに。こんな形で親の目に触れることになるなんて。

 わたしの心はぐちゃぐちゃだった。友達になりたいとかいう来訪者、目の前での音読、しかもそれが親に渡る。興味と恥ずかしさと…それから、綺麗と褒められた小さな喜びがない混ぜになって、最初の怒りや悲しみはとうに消え失せた。

「最後に、その…よかったらでいいんですけど。アオイさんに伝えてもらえませんか?」

「何をだい?」

「…前にアオイさん宛にメッセージカードを入れておいたんですけど、提出の時に返事を聞かせて欲しいなと…」

「……伝えておくよ。今日はありがとう」

「はい。では、失礼します」

 二人が別れる前に、わたしは急いで立ち上がった。そしていそいそと部屋に戻り、さも気がつかなかった風を装う。しかし、それはやはり無駄な努力で、真っ赤になった顔と乱れた動悸は誤魔化しようがなかった。

「ただいま、アオイ」

「お、おかえりなさい。父さん」

「はい、今週の。…そういえば、ついさっき変わった子に会ったよ」

「そ、そうなんだ」

 声が震えている。もしかしたら、体も震えたかも知れない。そして、その様子を見抜けない父さんではなかった。

「アオイ、扉の裏で聞いてたんじゃないかな?」

「…!!」

 見抜かれた。父さんが薄く笑うと同時に、わたしの脳みそはまた過熱して、思考は強い感情に溺れて見えなくなった。

「えと、いや、その、それは…」

「学校で弁論文を褒められたそうじゃないか。どうしてその手紙を見せてくれなかった?私達も読んでみたかったのに」

「…ごめんなさい」

「まあいいよ。彼がくれたから、今夜母さんと一緒にじっくり読ませてもらうさ」

「そ、そんな…!あんな、有名な人の切り貼りなんて…」

 父さんはリビングの方へ歩いて行く。その時振り返って、思い出した様に呟いた。

「…それから、彼への返事。必ず書いておくんだよ」

 嬉しさの滲んだ、温かい声だった。

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