第2話 君からの手紙
「ただいま」
「おかえり。ご飯出来てるから、食べなさい」
家に帰ると、父さんがオムライスを作って待っていた。
「何も無かったかい?」
「うん、大丈夫」
答えながら、わたしはスプーンを口に運ぶ。だけど、実際わたしはご飯の味は二の次で、ついさっき出会った彼のことを考えていた。
親以外の人と言葉を交わすのは、随分と久しぶりだった。そのせいか、わたしの頭の中には彼の印象が焼きついて、しばらくの間離れてくれなかった。
特に私を捉えて離さなかったのは、彼が見せたあの温かい笑顔だった。親以外で、誰もわたしにくれなかったもので、それでいて、今は腹が立って仕方がないもの。それをためらいなく、初対面のわたしにくれた彼はどんな人なのだろう。
ポロシャツに刺繍されたイニシャルから、同じ中学に通っている人だという事は分かったけど、それより先を調べようとは思わなかった。
その時のわたしは、単に言葉を交わしたから、多少記憶に残っただけだと思って、そのまま記憶の奥へと彼をしまい込んでしまった。
夕食を終えた後、わたしはお風呂に入った。肌を気遣って、お湯の温度はとてもぬるく、冷たいとも温かいとも感じなかった。湯船に浸かりながらわたしは、ぼんやりと自分の手のひらを見つめた。
白い手のひらは、相変わらず白く、平たいままで何も答えてはくれなかった。
お風呂から出て、歯を磨いて。そうしてわたしはベッドに入った。
「今日は、久々に変わった日だったかな…」
目を閉じると、気持ち良い眠りがわたしの体を包んでいった…。
一週間後。新しい課題を受け取る日。
その日の朝は、どこかおかしかった気がする。わたしが目を覚ました時、時間はいつもより10分ほど遅かった。父さんと母さんも同じで、遅刻するほどじゃないけれど、寝坊してご飯が少し遅れた。
朝の八時四十分に二人が出発すると、またいつものようにわたしは一人になった。また机に向かって、課題は今日の午後にもらう予定だから、一日読書に費やそうかと考えていた。
薄ぼんやりと本を開いて眺める。その時にはもう、彼のことなんてわたしは、全く覚えていなかった。
その日読んだ本は、ずいぶん前に買ってもらった長編ものの小説で、久しぶりに読んだせいか、没頭してしまった。
「あれ…もう夕方か。結局お昼ご飯も食べてないから、お腹すいたな…」
わたしは空腹でにぶった頭を回しながら、ぼんやりと外出着に着替えた。
外はすでに日が暮れていたが、父さんも母さんも家に戻って来ない。
「今日は散歩に出られないかなあ…」
その時だった。
ピンポーン、という電子ベルの音が鳴ったかと思うと、インターホンが作動する。
「…お客さん?」
あり得ないことではなかった。父さんも母さんも、それなりに名前の通る仕事をしていたから、家に人が来ることは珍しいことじゃない。いつもの通り、親は留守だと伝えれば、大体の人は帰っていく。
「はい」
「あの…えっと、その…」
ひどく急いだ声が、呼吸音と共に切れ切れに吐き出された。
「……」
声の若さからして、大人とは思えなかった。声変わり途中の、高い感じと低い感じが入り混じった声。
「オレ、いえ。ぼくは巳波三中一年の津田真太郎といいます。津深アオイさんに、その…課題を届けに来ました」
かすかに引っかかった記憶が、形をとって目の前に帰ってきた。
ああそういえば、この前帽子を拾ってくれた男の人の声に、どこか似ているような…。
「…すこし、待っていて」
わたしはそう言ってインターホンを切ると、少し服の裾を整えて、玄関へ出た。二、三回深呼吸をして、扉を開ける。そこにいたのはー
「こ、こんにちは。初めまして…って、君は…」
「あなたは…」
くしゃくしゃの髪に、子供っぽさを濃く残した顔。暖かさを全身に纏った、ポロシャツの青年。あの日、帽子をわたしに差し出した彼がそこにいた。
「前に帽子を拾ったの、覚えてるかな?まさか同級生だとは思わなかった…」
「別に、偶然だっただけよ。それよりも、早く課題のファイルをちょうだい」
その時の私にとっては、そんな事はどうでもよかった。多少の思うところはあったけれど、一番に考えていたのは、『早く話を切り上げて、また一人になりたい』って事だったから。
「あ、はい。遅れてごめんね…これでも走ってきたんだ。委員長が休んだ急の代理だから、慣れてなくて…」
「ありがと」
そう言って私は、無感動にファイルを受け取った。
「…えっと、あのう…その…」
ファイルが手から離れた後、彼はやたら口を開いたり閉じたりしている。何か言いたいのだろうか?
「何?」
「あ、えっとね、ええと…」
「はぁ…用がないならもう閉めるよ。それから、次からはまた委員長が届けると思うけど、もし君が届けることがあるとしたら、一階裏手から回ってうちのポストに入れておいて。直接は来ないでいいから」
「う、うん。それで…その…」
「……」
「ファイルの中に…手紙が…入ってるから、見ておいて…」
「…わかった。それじゃあね」
そうしてわたしは扉を閉めた。結局、彼は何も特別な事は言っていなかった。やはり、その程度のことだったのだ。
そう思って後ろを向いた時、彼の渡してくれたファイルから一枚の小さい紙が落ちた。
「……」
拾って裏返す。そこには…
『君と友達になりたい 真太郎』
「…何これ」
わたしはほんの少し笑った…喜びの笑いではなく、取るに足らないものをバカにする、影の濃い笑いだった。
そのままわたしはファイルを持って部屋に入り、それを机の上に置く。
「所詮君だって、わたしの気持ちに寄り添おうなんて、初めから思ってないんでしょ」
わたしはそこにいない彼に向けて呟いた。彼からの小さなメッセージを、硬く握り締めながら。
「ただいま」
「おかえり」
父さんが帰ってきた。また日常が戻る。ほんの少しのほころびは、すぐに塞がれる。
わたしはそう思っていた。
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