綾はあの後(安藤 悟)

 俺は陽介が連行された後、卵をぐちゃぐちゃに掴んでいた綾を抱きしめた。

みんなが無惨に割れて飛び散らかったガラスの片づけをしてくれていた。


 ああ これでやっと綾と一緒になれる。長かった10年に近い日々。

綾はまだ俺の胸にもたれたまま小さく震えていた。


 綾は強がりだ。きっと周りからは気丈に見られるだろうけど、優しいから脆い部分があるのは俺にはわかるんだ。

大丈夫とは言ったが、相当な衝撃を受けたに違いない。あいつ........何度、綾を苦しめるんだ。


 俺たちの後ろで警察の事情聴取は少し時間をおいてもらおうと基樹さんが話していた。


「悟、綾が落ち着いたら3階に来い」

「わかった」


「綾、本当に大丈夫?もう大丈夫だよ。俺はここにいるよ」


 顔を上げた綾が俺を見て少し微笑んだ。

でも少しひきつったようで、無邪気とも思えるその笑顔が俺には不自然に映った......。


「誰ですか?」


―――――俺は言葉を失った。



+++



 綾を病院へ連れていき、検査入院となった。

MRIや脳波、問診をし、下された病名は 『解離性健忘』

トラウマやストレスによって引き起こされる記憶喪失だ。その期間には個人差があり何十年の記憶が無くなる人から数日の人まで。

突然始まり突然治る場合もあると。


 ごめんね 綾 君を一人にすべきじゃなかった。俺はあいつを絶対に許さないよ。


 綾の離婚は成立した。が本人には全くその記憶がない。あんなに愛しているはずのカイもわからない......。

基樹さんや両親のことはわかっている。

おそらくは、陽介と出会った頃からの記憶がない。


 当然彼女は俺のことも知らないんだ..........。


「悟.......大丈夫か?」

「うん、なんとか。」

「綾はさ、今実家にいるけど......。悟、綾を引き取れ」

「え」

「綾とお前の家で暮らせ。まさしさんも言ってただろ。ストレスのない環境にいれば自然と改善する可能性が高いって。催眠療法はトラウマや突発的な恐怖だけ呼び戻してしまったら怖いって。」


「そうだね。やってみるよ。カイは?元気かな」

「ああ、同時に父親も母親もこんなんで辛いけどな。大丈夫だしばらくは基樹おじさんとジジババで子守するわ」


「ありがとう。」


この日から俺のマンションで、綾との生活が始まった。


俺は俺を知らない綾を見つめて言う


「綾......大好きだよ」


「私は記憶を失ってるけど、悟さんは私の旦那さんなの?兄はそんなようなことを言っていたけど。」


「うん。もうすぐ結婚しようと思ってる。ずっと待ってたんだ綾のこと。ずっと大好きだった。」


「待ってた?」


「うん。なかなか俺の方に振り向いてくれなくてね。しばらくは何も考えないで、ただここでしたいように暮らそう。」


「うん」


 綾は子供みたいな目で俺を見つめる、観察する。何かを探すように。美しい透き通った茶色い目、きれいな二重。

いつも、多くはないけど長いのって言ってたまつ毛。背中まで伸びたくせ毛でカールした毛先。

30を過ぎても変わらない可愛さ、柔らかいほっぺ。

全部が愛おしい。


 でも綾は俺を知らない目をしてる.......。


「綾が思い出すまで待つから。無理に思い出そうとしなくていいよ」


「悟さん......悟さんは今悲しい?」


「いや。綾がいるだけで俺は幸せだよ」


 にこりと笑った綾。

もしかして、綾が陽介と出会わなければ、綾はこんな風に俺に笑いかけてくれたんだろうか。


 でも友人の結婚式に出た頃こっそり花壇でキスしたこと、スナックの帰りに怖い目にあった綾をおんぶした夜のこと、そう俺の背中で泣いてたね......、

スナック最後の日に傘をさして歩いたこと、判決の日初めて綾を抱いた日のこと.......。

 俺が綾をいつも涙が出そうなくらい愛した日々を忘れてほしくはなかった。一番にはなれなかった俺のこと。やっとなれたのに.......。


「綾.......抱きしめてもいい?」

「うん」


俺は優しくそっと抱きしめた。すると綾が泣きだした。


「どうした?綾.......」

「わからない。わからないんだけど、おかしいくらい涙が出てくるの」


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