短編集
紫隈嘉威(Σ・Χ)
苦味なくなる勝利の味は甘く
カランとアイスコーヒーの氷が音を立てた。
あいつとの最初のデートもここだったか。
知り合いの経営するしがない喫茶店『カフェツツミ』、窓からは程遠い奥の席だった事も、あの時を思い出す要因なのだろうか。
そう言えば、あの時もアイスコーヒーだったっけ?
「おいしいか?」
「おいしー」
子供には大きなプリンアラモードを無心で頬張る娘に問いかけると、元気な返事を返してくれ、ほっと一息つけた。
『だってあなたは!』
俺はたぶん、舞い上がっていたのかもしれない。アイドルやグラドル、女優ですなんて言われてもおかしくない美女と結婚し娘までできた。
親バカの贔屓目なんて言われてもしょうがないが、小学二年生となった今、幸い俺に似なかったので、このまま可愛く、そして美人に育ってくれるだろう。
『ほとんど私に押し付けていたじゃない!』
大きな大きな溜息を付くと、スプーンを置いて娘はきょとんとして俺を見上げてきた。
「あの人のこと?」
首をかしげるこの子がどんなに可愛い事か、その所為で割とちやほやされているようなので、割と厳しめに接している。
その所為なのか、分かっているのか、母親を、実の母親をあの人呼ばわりなのだ。
「え・・・ああ」
嘘をつかないと言うのが娘との約束だ。それを自分が守れなくては示しがつかない。
突然席を立った娘は、とことこと歩いて隣に座ると、俺の頭をよしよしと撫でてくれた。俺はそんな健気な娘を抱きしめた。
暗い返事をしてしまったので心配したのだろう。
「ありがとな」
「ううん、大丈夫。パパのこと、大好きだからね!」
「うん、パパも
解放して頭を撫でてあげると、席には戻らず、食べていた物と飲み物を引き寄せて隣に居座ったのだった。
そして、小さな声で娘はぽつりぽつりと語りだした。
「あの人はキライ。嘘しか言わない」
あれだけの美貌を持っていた元妻の職業はモデル、結婚する前はそれなりの売れっ子で、結婚してからはそのそれなりが消えて、子供ができるとママモデルとして盛大に活躍していた。
そんな俺はと言うと、今はフリーのライターだ。
俺がフリーとなったのは結婚して子供ができ、元妻を応援する為だ。元いた会社との縁は未だに続いており、加えて複数のサイトを手掛け、いつでも娘が私立に行きたいと言い出してもいいようにしている。
「パパは、ちゃんと稼いでたもん。ちゃんと遊んでくれてたもん。朝ご飯も夕ご飯も、遠足のお弁当だってパパだったもん。お洗濯もお風呂も、パパがやってたじゃん。お小遣いくれるのパパじゃん」
泣きそう。
子供ってちゃんと見てるんだなって思える瞬間だった。
「来るとか言ってあの人は去年の運動会には来なかったじゃん」
「だから、キライ?」
「キライ」
ここまで子供に言わせてしまうのか、泣いてはいないが、その表情は暗い。
「しかも裏切った。パパを裏切った」
娘が言うように、あの人はもとい、元妻は俺を裏切った。しかも、相手は元いた会社の親会社で会長している人の息子、そしてとんでもない事実まで発覚する。
『この子はあなたの子じゃないわ』
親権が欲しかったのか勝ち誇ったように宣言されたのだが、法律と言うのは知っている人の味方であり、元妻は裁判で赤っ恥をさらして負けていた。
DNA検査を証拠として提出していたようだが、戸籍上は俺と元妻の子供であり、娘が保育園に通いだした三歳の頃からの行動は咎められる程で、育児放棄と見なされて獲得できなかったのである。
生物学上、確かに元妻と間男は親だ。科学がそういう以上は認めざるを得ない事実である。
しかし、裁判所は娘である美優希を名指しした上で、美優希が信頼しているのは、俺事、
世間に、法律のスペシャリストに認められたのである。これ以上の喜びがあるだろうか。
「でも、ママがいないと寂しいだろ?」
実は浮気が発覚したのは四年前で、娘の為を思って今まで我慢を重ねてきた。それが、つい半年前に気が変わったのだ。元妻が間男の子供を妊娠したことに依って。
更に、知り合いであるこの店のマスターと、こちらも知り合い、と言うより幼馴染のウエイターに心配されて奢られたからでもある。
「ママじゃない、あの人!あと、寂しくない。パパがいるもん!」
さすがにこの大声はまずい、と思ったのだが、店には誰もいなかった。
確認すると時間的に空いている時間じゃないか。良かった。危うくマスターとウエイターに迷惑をかけるところだった。
「ごめん、ありがと」
「えへへ」
頭を撫でるとそんな鳴き声を上げて機嫌を直した。
『付き合っている間から浮気され、結婚しても縁は切れず、果てには托卵?これが侮辱でなくて何のよ』
『お前さんが育児を頑張っているのは事実だ。その事実の裏切りってのはな、お前さんの子供に対する裏切りでもあるんだよ。理性ある人間のやることじゃねぇ』
そんなウエイターとマスターの言葉を思い出した。
「整理は付いたかしら?」
この店でウエイターをやっている幼馴染が声をかけてきた。
「一応な」
春香は昔からカフェで働きたいと言う夢があり、食品衛生科学を有する大学を経て海外でパティシエの修行を行い、日本に戻ってからはいくつかのケーキ屋を経て、春香の叔父が好きで持っていた膨大なコーヒーの知識を持って経営するこのカフェに落ち着いたと言うわけだ。
なので、ここは春香の叔父の持つコーヒーの知識と、春香のパティシエとしての腕が魅力の店であり、甘味とコーヒーが好きな俺にはうってつけの店である。
「美優希ちゃん、相席いいかな?」
「いいよー」
美優希もこの店が大好きで、誕生日ケーキはこの店のケーキでないと泣いてしまう程だ。そんな美優希が作ってくれている人を拒むわけがない。
春香は空いた対面に座った。
「結果はどうだったの?」
そう言えば話してなかったか。整理がつくまで話さなくていいからと言う言葉に甘えさせてもらったのだから仕方がない。
「慰謝料は合計で四桁万円、共有財産は全部俺、親権は俺、美優希が会いたいと言わない限り会わせない。会う時はこの店で」
「一生会いたくない!」
と美優希が突っ込んできた。
ちょくちょく思うのだが、どこからそんな言葉を覚えてくるのか、小学二年生とは思えない言葉を使う。
「はいはい、そうね、パパを裏切った人だもんねー」
「うん」
そう言われて満足したのが、少なくなったプリンアラモードに集中した。
しばらく春香と二人で美優希を眺め、プリンアラモードを食べ終わった美優希に対して声がかかった。
「美優希ちゃん、サイフォンでコーヒー淹れるんだが見ないかい?」
「見る!」
サイフォンで抽出されたコーヒーか、悪くないな。
サイフォンの器具が目の前にあるカウンター席に移動し、両肘をつき両手を頬に当てて眺める娘の姿は可愛い。
裁判にまでもつれ込み、心配してくれるのか、この店のマスターもウエイターの春香もほんとに良くしてくれる。
「はぁ?全然飲んでないじゃない!」
「え、ああ」
そんな気分じゃないんだから察してくれよ。
「あんたね、さすがに失礼よ?」
「すまない」
「もう、水の層までできてるじゃない。取り換えてあげるわ」
そう言ってコップを持ち上げてさっと水溜まりを消し去るとカウンターの奥に消え去ってしまった。
失礼、確かにそうか。
コーヒーの味で勝負していたこの店で、頼んで置いて飲まないと言うのはあんまりな話である。しかも、アイスコーヒー、氷で薄くなることを想定しているとは言え、ここまで溶けることはないので味を落としてしまっている。
「全く、ここだから許されるのよ。他の、味で勝負してるところに行ってみなさいな。何言われるか分からないのよ」
「そうだな」
目の前に置かれたアイスコーヒーを一口、嫌みのないすっきりとした苦味、焙煎された豆の香ばしい香りがその冷たさと共に、口と喉を潤す。
香ばしい香り、ああそうだ。俺はフリーのライターだった。まだ出てない結果があった。
カランコロン
音に気付いたマスターが客に声をかけ、客に気付いた美優希がこちらに逃げてくる。美優希は机の下を上手にすり抜けて俺と壁の間に隠れた。
「ちょっと、カズ、どういうことよ」
カズと言うのは元妻が俺に付けたあだ名だ。
「何のことでしょうか?あと、これからする会話は録音していますので予めご了承ください」
もう五日ばかり前から他人である。親しき中にも礼儀あり、である。
「ろくっ、いいわ、雑誌のモデル契約がことごとく切られたんだけど!」
「自業自得でしょう?」
「はぁ?私たちの仲の事は公表しない約束でしょう?」
「証拠はございますか?」
そう言うと元妻は狼狽えた。
そもそも話、契約書にも覚書にもそんな記載はなく、念書にも記載はしていない。口約束もしていない。
「慰謝料を安くする為にしなかった約束です」
親権も然りだが、慰謝料も吹っ掛けていたから裁判にまでもつれ込んだ。慰謝料は裁判所が口を挟む前に、半額にする代わりとして、モデルと会長息子の托卵浮気と言う事件を内密にする、相手側の言い分を取り下げさせたのだ。
「証拠も提示できずにそのように押しかけられても困るのですが?と言うか、この店の迷惑です。お帰り下さい」
「は?この店で会って話を」
「そんな約束はありません。美優希が貴女に会いたいと言った場合の場所でしかありません。早くお帰り下さい」
「ねぇ、美優希、わた」
「やだ!帰って!顔も見たくない!」
必死に左腕にしがみつく美優希が可愛そうに思える。見かねたのかマスターが援護してくれた。
「お客さん、美優希ちゃんがああいう以上は、残念だが帰っていただけませんか?うちも、美優希ちゃんが会いたいと言ったときに利用していい、と言う許可しか出してないんですよ」
「他人は」
「これ以上居座られると、警察を呼びますよ」
悉く自分の主張が弾かれ、不法侵入者として警察沙汰にするとまで言われ、流石に引き下がってくれた。
「弁護士を通さない限り話をしないと言う約束です。今回の契約違反は見逃しますが、次はありませんからね」
歯軋りをしながら元妻は出て行った。
「ふー、いなくなったよ」
大きく息をついて美優希を撫でる。
こうなると分かっていたから好きなコーヒーも喉を通らなかったのだ。法律は知っている人の味方だと知ってはいるが、専門家ではないので割とひやひやしていた。
「あんた、うちを上手いこと利用してくれたね?」
そんなことを言いながら、春香は俺のコップの傍にガムシロップとクリームを置いた。二つずつ置く当たり娘のことをよくわかってる。
「すまんな」
「あー、ライターを敵に回すとこんなに怖いのかぁ」
複数雑誌社、ネットニュースに対する匿名の情報のタレコミ、しかも、即記事にすることが可能な状態で行った。
その結果、元妻はその性格からSNSで派手に炎上、ファッション誌等の元妻がモデルとして出ていた雑誌社に苦情が殺到して契約解除となったのだ。そんなことが起こると他の雑誌の新規契約なんて取れない。つまり、無職。
「おいしい?」
「おいしー、これなら苦くないから飲めるよ」
クリームたっぷりの甘いカフェオレとなった俺のアイスコーヒーは、美優希によって飲み干されてしまった。
後日、春香と俺の関係が、娘のおかげで変わっていくのだが、それは別のお話。
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