「お前に任せるんじゃなかった」

前花しずく

「お前に任せるんじゃなかった」

「お前に……子守を任せておくんじゃなかった……」

 旦那はそうして泣き崩れている。なんで、なんでそんなこと言うの。私の言葉にも耳を貸さず、ただ部屋の隅の方で小さくなってすすり泣いている。私は何かやってしまったんだろうか。とてつもない不安に駆られ、抱っこしている我が子の顔を覗き込む。我が子はいつにないほど穏やかな顔ですやすやと眠っている。私のせいでこの子が大変なことになってしまったとか、そういうことではないらしい。

 ねえ、なんで、どうして泣いているの。何があったの。いくら声を掛けても旦那は振り向きもしない。理由は分からないが、どうやら愛想を尽かされているらしい。あんなに優しい人だったのに。優しい旦那でさえ我慢できないほどとんでもないことをしてしまったのか、旦那が思いがけず酷い人間だったのかは分からない。さっきから必死に何があったのか思い出そうとしているが頭に電気が走ったようになってまるで今までのことが思い出せない。記憶喪失? そんな馬鹿な話があるわけがない。自分の名前も我が子の名前も、今日が何曜日かも全部覚えている。でも何をしていたか、そこだけ記憶がすっぽりと抜け落ちてしまっている。

 何も覚えていないの。ねえ、何があったのか教えて。旦那はやはり反応しない。そうか、そんなに私と話したくないのか。これ以上この空間にいても息が詰まる思いをするだけなので、私は涙をぐっとこらえながら家を出た。私にはもう、あなたしかいないみたい。すやすやと眠る我が子にそんな言葉をかけながらアテもなくフラフラと歩いた。住宅街は妙に人通りが多くて知り合いに声を掛けられるんじゃないかとドキドキしていたが、誰にも話しかけられることもなく大通りへと抜けられた。ここからしばらく道沿いに歩いて信号を渡ればいつも買い物をしに行くスーパーがある。ポッケを確認したら財布はちゃんと入っていた。どうせここまで来たのだから買い物をして帰ろう。

 大通りの広い歩道を歩いていると、この道にも何やら大きい車が何台も停まっている。住宅街にしてもここにしてもなぜここまで混んでいるんだろう。何かこの辺りでイベントでもあっただろうか。不思議に思いながらも進んでいくと、いわゆる中継車というのだろうか、アンテナを上に載せたトラックが停まっていて、近くではレポーターらしき人がカメラに向かって喋っていた。そうか、さっきからたくさんいるこの人たちはマスコミの人たちなのか。この付近で何か事件でもあったのかもしれない。物騒だな、と思いながらもだからと言って私に何ができるわけでもないので、マスコミの皆さんを横目にせかせかといつもの信号を目指した。

 もう少しで信号に辿り着くというところで道の脇にすごい数のカメラと報道の人が並んでいた。その目線の先を見てみると、反対側のガードレールがぐちゃぐちゃになっていて、カラーコーンで代替されていた。さらにその奥の民家の壁も崩れてしまっている。もしかしたらあそこに車が突っ込んだのかもしれない。最近は高齢者の踏み間違い事故とかも多いし、怖いなあと思う。でも怖いなあと思っても、ただ怖いなあと思うだけなのだった。

 それも通過して、ようやく渡る信号に辿り着いた。流石に無数にいるマスコミにも慣れてきて、カメラを向けられている中で横断歩道を渡り始めた。もちろんカメラは私のことを撮っているわけじゃないだろうし。気にするだけ無駄よね。スーパーで何を買おうかしら。この子の粉ミルクが切れていたから買っておこうかな。そうやって呑気に考えている時だった。近付いてくる走行音。右を向くとその時には止まる気配のない乗用車が目の前まで迫っていた。


 線香の匂い。お坊さんがお経を読む声。私の頭は全てを思い出して霧が晴れたようになった。そうだった、私は……。

「お前に……子守を任せておくんじゃなかった……俺があの子を見てさえいれば……」

 私の遺影の前で旦那はまた泣き崩れた。

 あの日、旦那の仕事が忙しいと言うので仕方なく私がこの子を抱っこして買い物に行った。別に旦那が私に押し付けたとかそういうんじゃなく、私は軽い気持ちで引き受けたのだ。そしてあの交差点で、私と私の腕の中にいた子供はご老人の車に轢かれて死んだ。これは仕方のないことだった。

 ねえ、そんなに泣かないでよ。見て、この子こんなに穏やかな顔して寝てるのよ。あなたには見えないかもしれないけれど、私たちはあなたのことを責めてはいないのよ。

 旦那はずっと瞼を真っ赤にはらしながらぐちゃぐちゃになった私たちの顔を眺めている。私は彼の頭を我が子のもとへそっと抱き寄せた。

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「お前に任せるんじゃなかった」 前花しずく @shizuku_maehana

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