第42話 現在 4/4
目覚ましがその役目を果たす前。明け方過ぎに俺は跳ね起きた。
その勢いで、隣で寝ていた妻も目も覚ます。
「んん、武志さん……どうしたの?」
「い、いや……なんでもないよ」
カーテンの隙間から差し込む光が、部屋を柔らかに照らしていた。
「でも涙、出てるわよ。……何か悲しい夢でも見たの?」
妻に言われて頬に手を添える。自分が泣いている事に気がついた。
「いや……本当になんでもないんだ」
「悲しい夢って、たまに見るよね。でも起きたら大概内容は覚えてないけど」
妻はそう言うと、再び布団に潜り込む。
俺は掌を見つめると、濡れたその手を握りしめた。
———忘れるわけないだろう、絵未。
「武志さん、本当に大丈夫?」
「うん。一日休めば良くなると思う。心配かけてゴメン」
「ならよかった。何か欲しいものがあったらLINEちょうだいね。帰りに買ってくるから」
「ありがとう。仕事、頑張って」
会社に欠勤の連絡を入れ、玄関で妻を見送った後、俺は書庫兼物置にしている部屋へと入る。
3LDKのマンションは妻と二人で暮らすには、少々広すぎる。一室はタンスや本棚などの物置部屋にしていた。
ウォーキングクローゼットを開け中に入る。引っ越し時、実家から持ってきた荷物の数々が並んでいた。
記憶を頼りに段ボールを開けていく。小学校の文集や卒業アルバム、紙焼きの写真の束等々。
「———あ、多分……これだ」
家探しする事一時間。目当ての段ボールを見つけた俺は、ガムテープを剥がすと、中身の物をゆっくりと取り出していく。
底の方に小さな木箱を見つけ出した。絵未からバレンタインで貰ったチョコの空き箱だ。
蓋を開けると中には、小さなメモ書きや手紙で溢れかえっていた。
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今週は一日しか会えないから、ガラムを買って武志くんを思い出すね。
夢に出てきてね。
えみ
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タバコを吸わない絵未は、部屋でガラムに火をつけて、その匂いで俺を思い出すと言ってたっけ。
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明日は8:30だよ。
遅れないでね。忘れ物はない?
えみ
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どこかに出掛ける前日に、残した伝言だろう。だけど、どこに行ったかは思い出せない。
『お仕事頑張って』
『待ってるね』
『寂しいなぁ』
『好きだよ』
そして———『夢に出てきてね』
貰ったメモ書きは、絵未の小さな分身の様で。
それらを捨てられなかった俺は、全てをこの箱にしまっていた。
———それを絵未に話したら「恥ずかしいから捨てて!」なんて言ってたっけ。
しばらくメモを読み漁っていると、小さな言葉の欠片の隙間から、一枚の写真が顔を出した。
夜の遊園地での写真。
二人で手を繋ぎ、全身を写した最初で最後の写真だ。
若い頃の恋なんて、形の違う心を押し付け合う様なものだ。
互いの形を確かめながら、時に激しく、時に優しく。
どう頑張っても心の形が合わない事だってある。
そうして大人になるにつれ、心の角も擦り取れて、重ねやすくなっていくのだろう。
だけど、俺と絵未はそうではなかった。
ジグゾーパズルみたいに、互いの心の凹凸がキレイに合わさった。
毎日一つずつパーツを探しては、丁寧に組み上げていく楽しい日々。
あと一歩。あとほんの数ピースで完成するその時に、俺の不注意でパズルをバラバラにしてしまった。
散らばったパーツは一つも欠けてはいなかった。絵未はもう一度、パズルを組もうと言ってくれた。なのに勇気がなかった俺は、それを拒んでしまった。
人には運命の出会いが、必ずある。
それが添い遂げられない結末でも、恋愛に関係しなくても、自分に決定的なきっかけを与えてくれる出会いがある。
俺にはそれが、絵未だった。
絵未と出会わなければ、人の痛みや温かさを分からない、一人よがりでつまらない人生を送っていたに違いない。
きっともう、あの特別な夢を見る事はないのだろう。
そして俺の中の絵未も、この先ゆっくりと時間を掛けて消えていく。
未熟だった淡い恋の思い出が詰まったこの木箱は、この先開ける事はないと思う。
だから今のうちに、しっかりと胸に焼き付けておこう。
今まで生きてきた中で一番に情熱を注いだ、写真に写る絵未の姿を。
〜完〜
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