最終章 アリスと世界の終わり(3)
「こんにちは! 神さまの啓示でここに来ました! 決して怪しい者ではありませんので、扉を開いてはくれませんか!」
「デジャヴ」
丘をのぼり、病院跡の前にたどり着いたアリスは、いつぞやどこかで言っていたような挨拶を、入り口に向けてしていた。ガラス張りの扉は大きく割れていて、それを塞ぐようにベニヤ板が張られている。内側からは返事がない。
前回たまたまうまくいっただけで、本来は神さまの啓示なんて言うだけ、苦い顔をされて入れてもらえないのが関の山だろう。そんなことを思っていたのだけれども。
「いま開けますね」
と声がして、入り口が開いた。
やけにあっさりと。子供の友達が遊びに来たぐらいの気楽さで開いた。警戒心すら感じられない。
病院に向けて大声で声をかけていたアリスも、まさかそんなすんなり開けてもらえると思っていなかったのか、ぽかーんと口を開けて、僕の方に振り向いた。
「病院は来る者を拒まないとか、そういう思想か?」
いや。今までの情報を纏めるのならば、『オアシス』は病院跡を住処にしている終末に対抗するための厄災研究組織であり、別段、医療チームとかではなかったはずだ。
「き、決まってます」
口をぽかんと開けていたアリスは、咳払いをして、僕の方を向く。僕はカメラを指さす。彼女はちょっと首を傾げてから、思いだしたように、カメラの方を向いた。カメラ目線。
「神さまのご威光はすごいのですよ。江渡木さんのように、信心深くない人ばかりだと思わない方がいいですよ」
べぇ。とアリスは小さく舌をだす。
両手を組んで、アリスは神さまに感謝を唱えだす。そんなもんなのかなあ。僕は眉をひそめる。
「その通りです」
入り口の扉を開いた人は、扉から全身を出すと、そんな風に肯定してきた。
彼女は青色の防護服に全身を包んでいた。歳は恐らく、僕らよりも歳上。歳を重ねているってほどではないが、若いってわけでもない。二十七とか、それぐらいか?
透明のビニルで外気から守られている顔を映す。ウェーブのかかったダークブラウンの髪を鬱陶しそうに後ろでまとめている。灰色の目。薄くクマがある。薄紅色の唇を歪める。
「神さまは素晴らしいお方。神さまの啓示でここに来たというのならば、受け入れるほかないでしょう」
「そういうキャラもう三人目だからキャラ被りもいいところなんだけど、大丈夫か?」
「それに、この私はあなた方がここに来ることを、知っていましたので」
「どうして?」
「そちらの方が言っていたでしょう」
青の防護服に身を包んだ女性は、アリスを指しつつ、自信満々に告げた。
「神さまによって告げられていたから」
この私も、神さまの声が聞こえるのですよ。
彼女は確かに、そう言い放った。アリスは目を見開いて、呆然としている。神さまの声が聞こえるという『特別』。その『特別』がまさか、他にもいるとは思っていなかったのだろう。
呆然とする僕らに、防護服を着た彼女は、ニヤリと笑いながら、自分の胸に手を添えた。
「この私の名前はアナ。『オアシス』のリーダーをしています。神さまの遣いを粗雑に扱うつもりはありません。来るべき終末、あるいは訪れた厄災に対抗するための研究組織、『オアシス』へようこそ。この私は、あなた方がここに来ることをを歓迎します」
防護服を着た彼女――アナは、芝居かかったセリフを吐いて、病院跡の中に入っていった。
ぽかーん。だ。ずっとぽかーん。のまま。
なんだ。神さまの声が聞こえるだって? どこまでもアリスとキャラを被せたいのかお前は。視聴者に怒られるぞ。
「入らないのですか?」
入り口の扉が少し開いて、アナが顔を出した。
「入らないのならば、鍵をかけますが」
「入ります入ります!」
アリスが慌てて病棟の中に入っていく。僕も続いて、病棟に入る。
入った途端に罠が起動して、アリスと僕は網で動けなくなってしまった――ということはなく、連射された銃弾により倒れてしまった――ということもなく、普通に入れた。
ガサガサガサガサガサ。
病棟の中は、散々としていた。廃墟をそのまま活用しているからだろう。あるいは、来客というものを想定していなかったのかもしれない。
入り口のすぐ近くに大きな箱が置かれていて、その上にはちんぷんかんぷんな言葉で埋め尽くされたカルテが置かれている。ちょっと目をズラせば、タプタプと液体が詰められた輸血パックが吊り下げられていて、乾燥したゾンビの腕や足が詰め込まれたダンボールが添えられていた。
散々としている。散らかっている。けれども――足の踏み場はある。
まるで迷路のように、病院跡の中は荷物が置かれ、しかし、なにも置かれていない床自体は綺麗そのもので、ゴミ一つ落ちていない。
整然とされた散らかりよう。そんな感じだ。
アナはすたすたと迷いなく荷物の隙間を縫うように移動する。アリスと僕はそれを後ろから追いかける。廊下を歩いていると、ガラス張りの部屋が見えてきた。その中では手術台に寝かせられたゾンビが、腹を掻っ捌かれて、中身の臓を回収されていた。
小腸。大腸。胃。肺。肝臓。腎臓。膵臓。
一個一個回収されても、ゾンビは苦しむわけでもなく、ぼうっと宙を眺めている。そこには輸血パックが吊されていて、ポタポタとゾンビの口に向けて血が垂れていた。多分人の血なのだろう。動いていない心臓も回収された。
そういえば、ゾンビ火力発電所のコミュニティでゾンビを回収していたっけ。
厄災に対抗するためには、ゾンビの生態を知る必要があるってことだろうか。
ゾンビの死体解剖。『ジェーンドウの解剖』ではないけれども、なんとも奇妙な気分になる光景だった。前を歩いていたアリスは一瞬足を止めて、お祈りをしてからアナの背中を追いかける。
アナはピタリと足を止めて、引き戸を開いた。病院ではよく見る光景である、診察室があった。
「お入りください」
アナは診察室に入ってから、僕らを招く。彼女は医者の椅子に座る。
アリスは患者の椅子に座る。僕は引き戸を閉じてから、患者の付添人が座る椅子に座る。
「便利なところなんですよ。病院は」
アナは医者がカルテを書く机を指で叩きながら言う。
「広いですし、たくさんの部屋があり、多少古びていますが、医療用具があり、研究をするための設備もあります。この防護服も、病院の中から発掘したものなんです」
「穴が空いてないといいな」
「問題はない。穴が空いていないことを、この私は知っていましたので」
「確認しろよ」
「お名前は?」
アナはアリスの顔を指さす。アリスは僕の方を振り向いてから、名乗る。
「私は、アリスです。こちらにいるのは、江渡木さん」
「なるほど。アリス。江渡木。ところで、二人は『運命』というものを信じてますか?」
「運命?」
「運命。うーんーめーい。ですてぃにー。世界を流れる理。なるようにしてなる」
「運命論者なのか。あんた」
「なにか問題でも?」
「いや。研究者とかそういうのって、運命とかそういうの、信じなさそうなイメージがあったから」
いや。神さまの声が聞こえているとかのたまう時点で、型にはめたイメージからは外れているんだけれども。
「この私は運命を信じています。この私たちは常に運命の赴くままに、運命の流れのなかを生きているのです。定められた必然のなかを生きている。神さまの言うとおりに、ね?」
神さまの言うとおりに。
神さまの思うがままに。
「運命とはつまり、神さまの思し召しであると?」アリスが尋ねる。
「その通り」アナは笑う。「あなた方がここに来たのも、運命であると言えるでしょう」
「そういうことでしたら、私も、運命を信じています。神さまの啓示、神さまの思し召しによって、私はここにいるわけですから」
「あなたは?」
アナは僕を広げた手のひらで指す。僕はどうだろうか。運命という言葉に関しては、特に信用はない。僕の映画がウケないのは、そういう運命だからだ。なんて言われたら泣きたくなるしな……。
ただ、この世界において――神さまが実在していて、神さまがつくった世界において、
アリスの言うように、「神さまに言われたから、この『オアシス』に来た」のだから。
「それは良いことです。話が進みやすいですからね」
アナは深々と頷いた。
「先も説明しましたが、『オアシス』は今は、この私がリーダーのコミュニティです。はるか昔、それこそ『死体』が動きだすよりも昔から、終末に備えて研究を重ねていました。まさか、過去の研究者たちも、備えていた終末が『死体が動きだす』だなんて、思いもしなかったでしょうが」
クスクスと彼女は笑う。
「この私は、不確定な終末に備えた研究ではなく、『死体が動きだす』という終末に対抗する研究を進めていました。来る日も、来る日も、来る日も来る日も来る日も来る日も来る日も来る日も来る日も。ある日のこと、神さまの声が聞こえました。この私の耳に!」
世界を救うなにかが、このコミュニティにやってくる。そう、聞こえたのだと、アナは頬を上気させながら言った。
「光栄でしたね。今までも『オアシス』のリーダーはいました。それでも、声が聞こえたのはこの私だけ。この私が、神さまに選ばれたのだと。神さまがこの私に声をかけた。その意味が分かりますか? 『この私が世界を救う運命にある』ということです。この私の人生は、世界を救う道の上にある」
「分かります!」
アリスが声を大きくあげながら、椅子から立ち上がった。
「私も、神さまのお声が聞こえたとき、啓示を聞いたとき、すごく光栄に思いました。神さまが私をお選びになったのです。神さまは、私に『世界を救うために旅に出よ』とおっしゃりました。神さまが旅に出よというのですから、旅に出ないわけにはいきません。神さまのおっしゃることは、正しいのですから」
「この私とあなたは、同じ思想のようですね」
そうだろうか? 疑問に思う。
アリスは「すごいお方が私を選んだ。頑張らなくては」であり、アナは「すごいお方が選んだ私はすごく偉い」のような気がする。犬と猫の違いみたいなやつか?
「本題に入りましょう」
アナはアリスを椅子に座らせ、その手を握る。
「あなたが持っているという『世界を救うなにか』とは、一体なんなのですか?」
「『なにか』が一体なんなのかを、神さまは教えてくれなかったのか?」
「全てを教えることは、人に怠惰を教えることです」
アナはニコリと笑った。
「これを見てください」
左手につけている白い手袋を外したアリスは、手の甲をアナに見せるように差しだす。
人間の噛み痕。ゾンビになってしまった、母親の噛み痕。
アナの目は一瞬、ぎょっと見開いたが、その噛み痕が古いものであることに気づいたようで、僕の顔を見た。頷いて肯定する。
「いつ頃、噛まれましたか?」
「七年ほど前です」
「誰に?」
「……母親です」
「噛まれたのはここだけ?」
「手のひらだけです」
「一噛みだけで済んだということは、抵抗したということでしょうか?」
「父が、私を襲っている母に気づき……倒しました」
「噛まれたあと、体に異変を感じましたか?」
「いいえ。異変がないこと自体に、異変を感じたぐらいです」
「素晴らしい」
アナはアリスの噛まれた痕を食い入るように、目に焼きつけるように見つめながら言う。
「素晴らしい。素晴らしい。素晴らしい! あなたは噛まれても平気な体なのですね! ああ。どうしてでしょう。あなたの体には『死体』化に対する抗体があるのでしょうか。抗体。抗体があるということは、つまり、『死体』の正体とは感染による病気。『死体』化とは、ウイルス感染だったということでしょうか。確かに、それならば、『死体』に噛まれて衰弱死する理由が分かります。噛まれることで、ウイルス感染していたのだと。ウイルス感染だというのなら、どうして『死体』に襲われたわけではなく、ただ死亡した際にも『死体』化するのでしょう……活性化。そう、活性化です。人はウイルスにそもそも感染していて、『死体』に噛まれることにより活性化するのかもしれません。あるいは、『死体』に噛まれて衰弱死することと、死んで『死体』化することは、また別の原因があるとか。彼女は、『噛まれて衰弱死しない』だけであり、『死んでも『死体』とならない』わけではないかもしれません。調べるには彼女に死んでもらうほかありませんが、仮にそれが正しかった場合、大事な検体を失うことになります。正しくなくても失ってしまうではないですか!! いいえ。いいえ。結論を急いてはなりません。結論を先に決めた上での調査は事実をねじ曲げかねません。ウイルス以外の可能性も考えなくてはなりません。彼女を検査する必要性があります!!!!」
アナは僕の方を向いた。
僕のことをアリスの保護者かなにかだと思っているのか?
アリスも僕の方を向いた。涙目で、助けを求めていた。
僕のことを保護者かなにかと思っているのか?
「彼女の身を、こちらで預かってもよろしいですか?」
「預けたくね〜〜〜〜〜〜」という本音はさすがに口には出さず。途中から明らかに独り言に変わっていたアナの長台詞に若干腰が引いているアリスの方を一瞥してから、答える。
「ところで、僕らには防護服って支給されるものなのか?」
***
支給された。
されちゃった!
ガサガサガサ。と思いのほかうるさい音を聞きながら、僕は防護服に着替えて、案内されるがままに、小さな部屋にやってきた。
受付裏の小さな部屋。多分、元はカルテとか置かれていた部屋だろう。端っこに布団が二つ積まれている。あれを敷いて寝ろということだろう。アリスはさっそく、積まれた布団の上に腰をおろしている。
「この格好、『アウトブレイク』を思いだしちゃうな」
不眠不休で必死に作業をしていたら防護服が破れて感染してしまうという、どれだけ急がなくてはいけなくても、ちゃんと睡眠を取らないといけないということを僕らに教えてくれる映画だ。
あの映画はウイルス感染した猿からワクチンをつくる話だったが、僕らの場合は猿ではなく、アリスからである。もっとも。この世界のゾンビが果たして、現在のグローバルスタンダードとなりつつある、ウイルス感染ゾンビであるかは謎ではあるが。
「ロメロのゾンビは、原因が不明で、その不明なところが良かったりするんだけど」
しかし、噛まれても平気なアリスがいるということは、そこになにか原因はあるはずだろう。
さて。
案内してくれた防護服の何者かが去ったところで、僕は防護服を物珍しそうに眺めているアリスに言う。
「僕はアナを信用できない。彼女は嘘をついていると思う」
アリスは、やれやれ。またこの人は信用できないとか言いだしたよ。すうぐ人のことを疑いだすんですから。まったく、息が出来ずに生きづらそうったらありゃしませんよ。と言いたげに呆れた顔で、ため息をついた。防護服の透明なビニル部分が、白く濁る。
「やれやれ。江渡木さんがまた信用できないとか言いだしましたよ。すうぐ人のことを疑いだすんですから。もう少し心を広くもって善性を信じてみてもいいのではないですか?」
「想像通りのセリフを吐くな」
予想しやすすぎるぞ、お前。
「江渡木さんはいつも、人を疑いすぎです」
「お前はいつも人を信じすぎだ」
「ああ。私は本当に嬉しいんです。私たちの旅が報われる日がこんなにも早く来るなんて! それもこれもすべて、神さまのおかげです」
ぼすん。と枕に顔を埋めてから、アリスはふにゃりと笑った。
――まあ、別にそれでも構わないんだけどさ。
自分の手柄もあるだろう。なんて言い張るつもりは更々ない。あの神さまが本当に手伝ってくれたりしたのかねえ? なんて嫌味は言うかもしれないけれども。
それでも、ちょっとだけ、寂しい気持ちもあった。
「どうして信用できないと思ったのですか?」
「神さまの声が聞こえるなんて言ってるやつは信用できない」
「私は⁉」
「胡散臭さでいえば、どっちもどっち?」
「びえーっ!」
「臭さで言うなら、アリスの方が上?」
「それは女の子にたいして一番言っちゃあならねえセリフですよ!」
「僕も臭いからどっちもどっちということにしよう」
廃墟とはいえ、一応は研究組織が住んでいる場所だ。シャワーなり水浴びができるところぐらいはあるだろうし、借りれるなら借りておきたい。防護服を着ていると、臭いが籠もってしまうし。
「アナさんが信用できない。というのは、それが理由なのですか?」
「終わりだからだよ」
「え?」
どんな物語にも終わりはある。人の生よりも、連載漫画よりも、どんな創作物よりも終わりがはっきりしているのが映画だ。なにせ短くて一時間。長くても七百二十時間で終わるからだ。はっきりとしている。映画は。僕は一時間半の映画が好きだ。
「僕らの旅の終わり。終着点。『オアシス』に向かえと言われて、僕らは『オアシス』にたどり着いた。『西遊記』なら天竺、『ゾンビランド』なら遊園地、『アイス・エイジ』ならハーフピーク。『ヤギと男と男と壁と』ならサイオペ基地。『宇宙人ポール』ならデビルスタワー、それかタラの家でもいい。とにかく、一時間半の映画ならば、残り三十分。辿り着きました。めでたしめでたし。となると思うか?」
「私は江渡木さんが持ってきた映画しか観たことありませんし、その映画がどんな内容なのかはほとんど分かりませんが」
アリスは悩むように、首を傾げる。
「めでたしめでたし。ではダメなのですか?」
僕は
「もうひと騒動、なにかが起きる」
辿り着きました。めでたしめでたし。じゃあ、あまりにも淡白だろう。
辿り着いたそこでなにかが起きて、それに立ち向かう。
ラストはだいたい、そういうもので。
さらに言えば。
ずっと求めていたその場所は、自分が思っていたような場所ではなかったのが、世の常、映画の常だ。
『ドーン・オブ・ザ・デッド』でようやく辿りついたゾンビのいない安全な島は、決してそんなことはなく、ゾンビに溢れていたように。
「リメイク版の『ドーン・オブ・ザ・デッド』、ゾンビがすごいアクロバティックかつスタイリッシュに走るから、あんまり良い評価は聞かないんだけど、僕は結構好きなんだよな。走るけど」
「ゾンビが走るのですか」
「全力疾走。腕を大きく振りながら」
「逃げようがないじゃないですか!」
「いちばんヤバいゾンビは個人的には『バタリアン』のゾンビだと思うな。あいつら頭を破壊しても普通に生きてるから」
「どうしようもないじゃあないですか」
「だから街をミサイルで破壊した」
「どうしようもないじゃあないですか」
まあ。とにかく。映画談義はここまでにして。
最終目的地にして、映画のラストを飾るだろうこの場所で、きっともうひと騒動起きるだろう。まさか、普通にワクチンができました。やったー! なんて、そんな終わり方ではあるまい。それはさすがにつまんない。僕の映画じゃあないんだから。
……自虐ギャグだったけど、普通に痛いや。
「この私に!」
自分で自分を傷つけて悲しくなっていると、どばーんと勢いよく扉が開いた。
勢いよく入ってきたのは、アナだった。興奮しているのか、透明なビニル部分が曇っている。
すわ、もうひと騒動がきたのか!
なんて身構えた僕だったが、アナは片足を前にぴーんと突きだした体勢で、両手いっぱいに、研究機材と思われるビーカーや注射器を抱えていた。
蹴ったのか? ドアを蹴って開けたのか?
「血液採取をさせてくれないか! サンプルがたくさん欲しいんだよ。唾液と毛髪と尿と皮膚片とエトセトラエトセトラエトセトラえとせとえとせとえとせと!」
「ひいっ!」
「怖がらなくてもいいよ。痛くないから痛くないように体の隅の隅まで採取するから。髪の毛に住んでいるであろうシラミまで、猿の毛繕いのごとく採取してあげるから。それでも怖いというのなら仕方ない。貴重な麻酔の一本や二本や三本に四本ぶちこんであげよう。眠っている間に全部終わっているよ」
「麻酔過多で死んじゃうだろそれ」
「江渡木さん助けてください!」
アリスはアナの圧に怯えて涙目で僕の後ろに隠れようとするので、僕は体を回して、アリスを前に押しだす。
「な、なぜ私を差し出すのですか!」
「いや。目標達成には、サンプル採取は必要だろう。世界のために怖くても注射をしなさい」
「本音は?」
「唾液の採取とか、結構フェチシズムな映像が撮れそうだなって思っている」
「江渡木さんは変態です!」
失礼な。変態なのはそういう映像を求めてくる視聴者である。
「ほらほら、そんな邪魔な防護服なんて脱いでさ、この私にサンプルをよこしなさい!」
「防護服を邪魔だと言っちゃった!」
「彼女は『『死体』に噛まれても平気なのだから、防護服を着る意味もないでしょう』」
「マトモな理由でしたね」
「確かに。みんながみんな防護服を着てると格好が似ているから判別がつきづらいし、アリスは元のシスター衣装にしてもらった方が、観に来てくれた人に優しいな。シスター衣装といえばアリス。アリスの本体はシスター衣装という説すらあるぐらいだ」
「適当な理由でしたね」
「ええい、抵抗するのですね。あなたが抵抗することを、この私は知っていました。なので手錠だって持ってきています」
「抵抗されるのが分かっているのならもう少し穏便にするべきでは!?」
お縄につきなさい。と迫り来るアナに、涙目で逃げようとするアリス。それは、アリスが注射に悲鳴をあげる元気が無くなるぐらいまで続いた。
「乙女として大事なものを喪った気がします……」
その日の夜。布団にくるまりながらアリスはしくしくと言った。さすがに寝る間は防護服を脱いでいる。『オアシス』の面々はもしかしたら防護服を着たまま寝ているのかもしれない。絵面は面白い。布団はくっつけるようにして並べてある。部屋に電気がないので、暗いのが苦手なアリスができるだけ近くに寄せようと提案してきたからだ。僕はクスクスと笑う。
「今更だよ」
「フォローになってませんが?」
アリスは布団から起き上がり、僕の方を睨む。
「………………」
「……江渡木さん。そこにいますよね?」
「………………」
「なぜ返事をしない」
「お前が暗いのが怖いことを思いだして、静かにしてたら面白いかなって」
「今日の江渡木さんは私にあたりが強い気がしますね」
「そうだろうか」
「あたりが強いというか、私をからかうことに全力を尽くしているといいますか」
「それはそうかもしれない」
「そこは否定してほしかったですね」
アリスにあんなことを言っておきながら、僕自身も、気が抜けてしまっているのかもしれない。
あるいは。
寂しくなっているのかもしれない。
映画の世界で、映画を撮ることが、神さまに課された僕の役目である。だから、僕の役目は終わることになる。撮り終わったら、僕はどうなるのだろうか。元の世界に戻るのだろうか、それとも、この世界に、留まるのだろうか。
まだ観ていない映画がたくさんあるから、正直、元の世界に戻りたいという気持ちもある。
でも、そうしたら、アリスと別れることになる。
それは、それで。
「寂しいなあ」
「なにがですか?」
僕は咄嗟に、口を手で隠した。声が漏れていたらしい。ごまかすように、口を動かす。
「映画が観れてなくて、寂しいなって。よくよく考えてみたら、この世界に来てから、持ってきた映画以外観れていないからさ」
「私は江渡木さんに観せていただいた映画しか知らないのですが」
アリスは言う。
「江渡木さんの世界には、もっとたくさんの映画があるのですか?」
「あるよ。それこそ毎日のようにつくられて、上映されている。映画が流れていない瞬間なんて、この世にないんじゃあないかってぐらい」
「それはすごいですね……。江渡木さんも、やっぱり帰りたいと思うときはあるんですね」
「まあ、そりゃあな」
「こちらの世界の都合で呼んでいるのですから、世界が救われた暁には、江渡木さんがちゃんと帰れることを願うばかりなのですが……」
アリスは控えめに笑う。
「それは、ちょっと、寂しいですね」
少しばかりの沈黙。アリスはだんだんと恥ずかしくなってきたのか、顔をかあっと紅潮させて、掛け布団を頭の上から羽織って、ダルマみたいになった。僕に背中を見せて、顔を見せようとしない。
「さ、寂しいというのはですね。今までずっと一緒に旅をしてきたわけですから、いなくなってしまったら、物足りないと言いますかなんと言いますか、少なくとも、特別な意味合いはなにひとつないと言いますか……」
「……アリス」
「は、はいっ!」
「照れてる顔を撮りたいから、カメラの方向いてくれるか?」
「そういうデリカシーのないところは、本当に治した方がいいですよ」
肩越しに、かけ布団の隙間から覗いてくるアリスの目は、呆れをまったく隠そうとしていなかった。
「まったく、一目惚れしたとかおっしゃってましたのに。まるで私がひとりで浮き足立ってるみたいじゃあないですか。本当に江渡木さんは、映画がお好きなんですね!」
ぷんすかぷん。と効果音が聞こえてきそうな声色だった。
その話を蒸し返されると、僕はとても弱い。あれは本当に、口からするりと出てきてしまった言葉だからだ。
「あー、なんだか映画が観たい気分になってきました! 映画のお話をしたので! 江渡木さんの話ではなく! 映画の話をしたので!」
「わ、分かった分かった」
アリスは頬を膨らませながら言う。僕は慌ててバッグの中にある映画のDVDを漁る。
『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』
『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』
『ゾンビ』
『ウォーム・ボディーズ』
『アルカディア』
『ティム・バートンのコープスブライド』
『オレの獲物はビンラディン』
『ミッドサマー』
『天気の子』
『ゾンビランド』
『リトルショップ・オブ・ホラーズ』
アリスも、もう何度も観たであろう映画たち。彼女にも、もっと色んな映画を観せてやりたい。でも、手元に持っていたのは、これだけだ。
「……いや、あれ」
そういえば。もうひとつあったような気がする。
バッグの中をさらに掘り進める。そして、見つけた。
『アナと世界の終わり』
ここではないどこかに行きたいという青春ものとゾンビものを混ぜ込んだ良作ミュージカル映画だ。アリスは暗い部屋の中で、それでもめざとくそれに気がついた。
「まだ観たことがない映画です」
「これとか、どうだ?」
アリスは破顔しながら受け取った。さっきまでのお怒りモードはどこへやらだ。分かる、分かるぞ。映画は楽しいもんな。観始めたばかりの頃なんて特に。今まで抱えていた感情なんてどっかに飛んでいって、「楽しい!」って感情だけが残る。
「江渡木さんの映画も、また観たいです」
ごろんと布団に寝っ転がって、足をパタパタと動かしながら、アリスはそんなことを言う。
「江渡木さんの映画、とても幸せな気持ちになりますから」
僕の映画を褒めてくれる唯一の子。
だから僕は、彼女に一目惚れをした。
だから僕は、彼女の旅を手伝い続けた。
「そういえば」
暗がりの中。アリスは映画に顔を照らされながら、僕の方を向いた。
「どうして江渡木さんは、映画を撮っているのですか?」
「そりゃあ、『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』を観たからだよ」
劇的な出会い。それをしてしまったからだ。
「でも」アリスは疑問を口にする。「私は、江渡木さんに色んな映画を観させてもらって、映画を好きになりました。でも、映画を撮ろうという気持ちにはなりませんでした」
どうして。映画を撮っているのですか?
再び、質問。
僕は、答えることができなかった。
その間も映画は流れる。登場人物たちは映画みたいなエンディングはありえないって歌っていた。
ハリウッドみたいなエンディングなんてない。ハリウッドみたいなエンディングなんてない。
そんな風に、歌っていた。
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