第五章 Walking Meat(5)

 フランシスコの目が、真っ白に澱んでいた。ゾンビのように、澱んでいた。


「……あ」


 口元を黄色い液が垂れている口を、ふるふると震わせながら、フランシスコは僕らの方をぼうっと見る。アリスの手が止まり、僕は彼女の首根っこを掴んで、フランシスコから距離を取らせる。


「どう、したんだ。急に、気分が」


 彼は不思議そうに呟く。その声に力はこもっていない。

 僕はカメラで彼を撮影しながら、側面についているモニターをフランシスコの方に回して、映している映像を、彼にも見えるようにする。

 フランシスコはモニターに映っている自分の顔をじっくりと見つめる。そして、まるでゾンビのように目が白く澱んでいることに気がつくと、眼球の周りをなぞるように、指を動かした。


「なん、だこれは……」


 フランシスコは言う。ぐむ、と頬を膨らませて、吐瀉をこぼす。


「『死体』になってる」


 僕は思わず呟く。

 やはりそうだ。この世界のゾンビは、噛んでも、食べても、ダメなんだ。

 フランシスコは僕の顔を見上げる。きゅぅと腹が締めつけられているような音がした。生きている人間ぼくを見て、空腹を覚えたのだ。フランシスコは思わず口を手で塞ぎ込んだ。手のひらの奥から、ぐぐぐ。ぐぐぐ。と声が漏れる。ゾンビの呻き声が漏れる。


「奇妙な話を、させてくれ」


 フランシスコは口を両手で押さえ込んだまま、くぐもった声で言う。くぐもって、なんだか水っぽい音のする声で言う。その目は、我慢するように、涙がこもっていた。


「これが、変な話であることは、重々承知している。なにを言っているんだと、忌避た目で見られるだろう、ということも分かってる。ただ……」


 フランシスコは両手を口から離す。

 同時に、大量の唾液が、粘った津波のようにどばーっと、溢れた。


「二人が美味しそうに、見えて、仕方ないんだ」


 僕はアリスの手首を掴んで、丸太小屋の外に飛びだした。外は地獄の体に満ちていた。

 自分の体の異変に気づき、ぐつぐつと沸きたつ気持ち悪さに嗚咽を漏らしているもの。

 完全にゾンビと化し、鼻をひくひくと動かしながら人を探しているもの。

 既に首根っこを噛み千切られてこと切れているもの。

 脇腹を食い破られ、はらわたをぼろんと溢しながらさまようもの。

 人がいる。ゾンビがいる。ゾンビに近づく人がいる。ゾンビに食い殺されている人がいる。

 彼らの顔には見覚えがあった。

 昨日、ゾンビ肉を配った彼ら。このコミュニティの住人たち。全員が、ゾンビとなっていた。


「な、んてことだ……なんで、こん、な……」


 よろよろと丸太小屋から出てきたフランシスコは、つまずき、アゴをうつ。

 地べたを這うようにして、彼はコミュニティの惨状を見つめる。見つめているはずだ。目が白く澱んで、どこを見ているのか、さっぱり分からなくなっているけれども。


「お、れの!」


 フランシスコは唾を吐き飛ばす。


「れの、せいなのか。れの、せいなのか!」


 フランシスコはダンゴムシみたいに腹の内側に頭を埋めて、癇癪を起こす。啜り泣きながら、がなりたてる。体を痙攣させていたフランシスコは、ふと、なにかを思いだしたように、動きを止め、埋めていた顔をもたげ、僕らの方を向いた。

 感情は分からない。澱んだ目は、表情すら濁らせる。


「シスターさん」

「……はい」

「肉を、くれないか?」

「え?」


 アリスは瞬きを繰り返す。構わず、フランシスコは続ける。


「『死体』を食べれば、『死体』になるのだろう。だったら、


 ムチャクチャを言っている。そんなことに、なにも整合性は存在しない。けれども、フランシスコはそれが正しいと思っている。そうじゃあないと、自分が、コミュニティの全員が、死んでしまうから。藁にもすがるどころではない、すがる藁を妄想している。


「なあ、シスターさん。助けてくれよ……」


 僕はアリスの手首を強く握り直した。

 彼女の体が震えてながら、フランシスコの方に向かっていることに気づいたからだ。


「アリス」

「江渡木さん」


 アリスは、頭だけを動かして、僕の方に、振り向いた。


「私は、どうしたらいいのでしょう」


 彼女の目は、泣いていた。


「これはきっと、罰なのでしょう。神さまは、悪いことをすれば、それに罰をお与えになります。だから、これはきっと罰なのです。彼らへの――そして、私への」

「どうして」

「私は、彼らが『死体』を食べることを、悪いことなのか分からないと言ってしまいました。罰を与えられるべきなのか、迷ってしまいました」


 ――だから、分からないのです。

 ――悪いことかどうか、分からないのです。


「悪いことは悪いことで、それを赦すのが大切なのです。悪いことは悪いことで、それを赦すことが、神さまの御心で、それを繋ぐのが、私に課せられた使命なんです」


 これは、それを怠った私への罰でもあるのです。

 私は、彼らに

 アリスは左腕の袖をまくり、一歩前に進もうとする。僕は掴んでいる手首を引っ張る。彼女の体はつんのめる。


「そんなことしたって、治らないことは、知ってるだろう」


 ゾンビ火力発電所の街で、それは既に否定しただろう。

 アリスは、小さな声で言う。


「治らなくても、救いにはなるはずです」


 喉の奥まで燃えている人に、水を施すように。アリスの目は真剣そのもので、彼女は本気で、そう考えていた。彼女の目を、僕はじっと見返す。周りの阿鼻の声が耳に入る。泣き声。泣き声。泣き声。呻き声。ゾンビの数は増えている。早く逃げるべきだ。逃げるべきなんだ。


 …………。


 人間的に言えば。そんな世迷い言を言っている彼女に喝を入れて、この場から逃げるのが正しいのだろう。そんなこと言ってる場合ではないのだと。

 でも、彼女はこういう性質やつで、こういう性格やつで。

 きっと、ここで逃げたら、ずっとこのことを引きずり続けてしまう。


「もしも、本当に彼らを救うことができたら、どうなったのでしょう」


 そんなことを言う彼女の姿が、容易に想像できた。

 罰を受けた。罪を赦した。彼らを救おうとした。

 分かってる。僕は、その免罪符を彼女に与えようとしているだけなのだ。


「……危ないと思ったら、すぐ引き離すからな」

「ありがとうございます」


 アリスはフランシスコの前にひざまずくと、左腕の袖をまくって、彼の前に差しだした。彼女の腕は震えている。


「どうぞ」


 フランシスコはアリスの顔を、澱んだ目でじっと見つめた。暫くしてから、彼女の白い腕に、ぞぶ。と噛みつく。


「むーむー」


 フランシスコは肌に歯を食い込ませながら、鼻から息を吐く。アリスの腕から、血が垂れる。


「もういいだろう」「ダメです」

「むふーむふー」


 フランシスコの目が血走る。みちみち、と肉が悲鳴をあげる音が聞こえる。アリスの顔がひきつる。


「アリス」「ダメです!」

「ふふ、ふふ、ふふ、ふふふふふふふ」


 フランシスコの力がさらに強まる。アリスの顔がぎゅうううっと締まる。

 食い千切られる!

 限界を感じた僕は、アリスの腕を引っ張る。彼女の体は、なんの抵抗もなく、むしろすっぽ抜けたみたいに、僕の方に飛んできた。

 それは、彼女の腕が噛み千切られてしまったから――ではない。

 フランシスコが、噛むのをやめて、アリスの体を押したのだ。

 勢いあまって、僕はアリスに押し倒されるような形で、倒れ込む。


「あ、りがとう。シスターさん」


 フランシスコの弱々しい声が聞こえる。僕は首をもたげて、声のした方を向く。彼の周りに、ゾンビが集まっていた。


「俺を助けようと、してくれ、て。ありがとう」


 フランシスコは呟く。途切れ途切れに。ゾンビは彼の体に群がる。

 フランシスコの足に、ゾンビが噛みついた。倒れ込んだまま、動こうとしない彼に、ゾンビたちは群がり、食らいつく。

 めち、めち。みり、みり。

 食われる。食われていく。彼の体は削れていく。

 僕は呆然とするアリスを立ちあがらせて、留まろうとする彼女の足を引き摺るように、コミュニティを後にした。後ろから、フランシスコの声が聞こえてきた。


「ごめんなぁ、ごめんなぁ。俺のせいでなぁ」


***


 アリスと僕はレコニング号に戻り、コミュニティを後にした。

 ゾンビに噛まれたら、死んで、ゾンビになる。

 ゾンビを噛んでも、死んで、ゾンビになる。

 この世界のゾンビがロメロ・ゾンビであることは知っていたけれども、まさかそこまで忠実だとは、思いもしなかった。


 ――ようやく、たべてくれたからな。


 神さまの言葉を思いだす。

 あれは、つまり、そういうことだったのだろう。

 神さまは、誰かがゾンビの肉を食べるのを、待っていたのだろう。

 ゾンビを食べて、ゾンビになってしまう人を、待っていたのだろう。


「……やっぱり、あの神さま。性格が悪いよ」

「神さまの悪口は、赦しません」


 僕がぽつりと呟くと、アリスはほとんど反射のように言い返してきた。


「フランシスコさんは最後に、懺悔をしてました。彼らは赦されているはずです。だから、きっと、神さまは彼らを苦しみから救ってくれているはずです」


 アリスは胸に手を当てながら、本気でそう思っているように囁いた。

 僕はあの人間のように笑う猫の顔を思い浮かべながら、そんなことするだろうか。と首を傾げた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る