第五章 Walking Meat(2)
「江渡木さん、お腹が空きました」
「ゾンビの肉ならあるぞ」
咳みたいなエンジン音が響く車内。ぐるぐると野犬みたいに呻くアリスに、僕は助手席に置いていたゾンビの腕を差しだした。先ほどレコニング号で轢いたゾンビの腕である。
「食べる?」
「絶対に食べません!」
すごい剣幕で返されたので、僕は「そっか」と言ってから、ゾンビの腕を、窓の外に投げ捨てた。
すると、アリスはまた怒った。
「そんな粗雑に扱ってはいけません!」
僕にとってはゾンビという『モンスター』に過ぎないそれも、『ゾンビ映画』という概念が存在しないこの世界の住人であるアリスにとって、それは『死体』であり、今まで生きていたものであり、それを放り捨てるというのは、看過できるものではないらしい。
たまに忘れる、感覚の違い。これに関しては僕が悪いので、素直に謝ることにする。
「私にではありません」
僕がバックミラー越しに頭を下げると、アリスは頭を振ってから、デッド・レコニング号の天井を指さした。天井というか、天上を。天上に座す方を、指さした。
「神さまに、懺悔するのです」
そうだった。アリスはそういう子だったのだ。
僕は天上ではなく、むしろ軒下に潜んでいそうなあの黒猫の顔を思い浮かべながら懺悔する。もう二度とゾンビの腕を捨てません。もっとも。あの神さまのことだから、むしろ「いいぞ、もっとすてろ。そざつにあつかえ」なんて言いそうなものだが。
とかく。懺悔に満足したのか、アリスは大仰に何度も頷いたところで言う。
「お腹が空きました。ご飯はありますか」
「一週間前から同じ回答になるが、そんなものはない」
びゃーっ。とアリスは悲鳴をあげて、掛け布団に倒れ込んだ。モールで回収し、光灯る街で分けてもらっていた食料も、ついに尽きてしまったのは一週間ほど前のことである。
いつものように缶詰を一つ食べ終えたアリスに、それが最後の食料だと告げたときの、呆然と空き缶を眺める表情が面白かったが、笑う余裕があったのも昨日までのことだ。
明日食べるご飯がない。
それがどれだけ人を追い詰めるか、僕はあまり理解できていなかったのだ。
「江渡木さん」
「なんだ」
「木の幹って美味しいと聞いたことがあるのですが」
「食べたことはあるけど、普通に不味かったぞ」
「食べたことがあることに驚きです」
飢饉の時には幹を噛んで飢えをしのいだという話を聞いて、「クリエイターならば体験せねばなるまい!」と思って公園の木の幹を削いで煮て食べたことがある。飢えをしのぐもの。であり、決して食物として流通したわけではない味がしっかりとして、それ以降、口にしたことはない。
「幹は固くて食べられないんですね……」
アリスは窓に額を擦りつけるようにしながら、外を見やる。
窓の外は、草木生い茂る森になっていて、さわさわと凪いでいる草をじっと見つめている。
「草なら柔らかくて食べられますよね」
「野草食べるヒロインはあんまりウケないと思うからやめてくれ……」
野草眺めながら涎垂らしている時点で手遅れかもしれないが。
毎日少なくとも一度は食事を取ることができる贅沢を味わえば、ひもじい思いもより格別ということかもしれない。あとはまあ、アリスはかなり食欲旺盛ということもあるけれども。
シスターなのに、欲に忠実なのである。
僕は頭を抱えながら、燃料ゲージを確認する。まだ走れはするが、そろそろ無くなりそうだ。
食料だけではない。燃料も底をつきつつあった。
元よりたくさんあったわけでもなく、さらに、花嫁にチャペルを燃やすために燃料を盗まれたのも、今となっては痛い話だ。
食料と燃料。
目下の問題は、この二つになる。
「このままずっと食べないでいると、スレンダーな美人になってしまいます……」
「良いことだろう」
「江渡木さんはスレンダーな人が好きですか?」
「肉付きが良い方が好きだな」
「素直に答えられても困るんですけど……」
「髪の毛が汚かったり、口から涎を垂らしたりしてる女の子が好きだな」
僕はアリスの口元を指さす。野草を眺めているときからずっと涎が垂れていた。
彼女は恥ずかしそうに、手の甲で涎を拭う。
「うう……これはきっと、神さまからの試練に違いありません。神さまは私たちを試しているのです……」
「試練なんてしてないで、天から食料なり燃料を降らしてほしい限りだよ。アリス、燃料あとどれぐらい残ってる? 足下にあると思うんだけど」
「どこですか?」
「そこだよ」
僕は振り向いてアリスの足下を指さす。前方不注意。車の運転中にすべきではない行動ではあるが、ゾンビ以外の人を見かける方が非常に珍しい世界観である。だから、油断したと言うべきか。
ガツン。
と音がして、レコニング号が大きく揺れた。
なにかにぶつかったのだと気づいた僕は、ブレーキを踏む。
すわゾンビを轢いたか。はたまたまさかとは思うが人間を轢いてしまったかと思ったが――轢いたのは、鹿だった。
「鹿か」「鹿ですね」
血溜まりの上でピクピクと動く角の生えた獣を僕は見下ろす。
アリスは膝をつき、鹿の前でお祈りを捧げた。
「時にアリス」
「はい。懺悔ですか?」
「動物を轢くこと自体は罰則はないよ。動物も、ゾンビになったりするのか?」
「いいえ。映画では、ゾンビになるのですか?」
「『新感染』ではゾンビ化現象の説明のために鹿が轢かれてたよ。こんな風に」
「その映画は面白いのですか?」
「面白いよ。走るゾンビをマ・ドンソクが殴り飛ばすんだ」
「マ・ドンソク?」
「あ、ああああああああぁぁぁっ!!」
と。アリスが首を傾げると、突然男の叫び声が聞こえてきた。
僕の声ではない。当然、アリスの声でもない。
鹿を見ていた顔を持ち上げると、男が立っていた。
一週間ほど伸ばし続けたような髭と、ぼうぼうに伸びた、アフロのような黒い癖毛。
手には猟銃を持っていて、その銃口は、アリスと僕に向いていた。
僕は咄嗟に、アリスの前に腕を伸ばして、彼女と男の間に立つようにする。
男は震えながら、僕らに銃口を向けたまま、鹿へと近づく。
右手で銃を構えたまま、左手で鹿の首元を掴もうとする。盗ろうとしているのだ。鹿を。
「ま、待ってください!」
アリスが声をあげる。男はアリスの方に銃口を向ける。
「うご……くなっ!」
「その鹿を、どうするつもりでしょうか……?」
「お、お、お前らには悪いが、これはいただく!」
「どうしてですか?」
「食べるためだ。これは肉で、これは食える。分かるだろう」
男は消衰した目でアリスを睨む。男の頬は痩けていた。数日食事を取っていないのだろう。
そうか、そう言えばこれも肉か。
「お腹が空いているのですか?」
アリスは尋ねる。男は訝しむような目を向けながら、頷いた。
「でしたらどうぞ。持って行ってください」
「え?」
僕と男は、同時に素っ頓狂な声をあげて、アリスの方を見た。アリスは小首を傾げる。
「一人で持ち運ぶのが大変でしたら、一緒に運びましょうか?」
「そ、そう言って運ぶ途中に俺を殺すつもりだろう」
「そんなことしません」アリスは頭を振る。「困っている方を見捨てて得た食事は決して美味しくないでしょうし、それに、神さまもきっと、お赦しになりません。あなたを助けることが、正しいことで、この命の行く末なのでしょう」
アリスは祈る仕草をしながら言う。くぅ。と腹の音がなって、恥ずかしそうにはにかんだ。
男はといえば、向けていた猟銃の銃口を真下におろした。苦々しいを浮かべて、鹿を指さす。
「……すまない、こちらにも事情があるんだ。どうしても、食料が必要なんだ」
男はレコニング号をちらりと見る。
「あんたらの分も残す。だから、その車で運ぶのを手伝ってくれないか?」
アリスと僕は顔を見合わせる。アリスが嬉しそうに頷いたので、僕も合わせて頷いた。
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