薬剤師あいるの優雅な休日

澄田こころ(伊勢村朱音)

あいる、はしれ!

 京都へ引っ越したマンションにほど近いスーパーで、買いものをした帰り道。西日へ向かって、今出川通りを歩いていた。


 大阪から京都の薬局に転職したわたし、あいる。新しい職場になれた四月の半ば。桜はおわり、新緑の季節に移行する古都。

 わたしの小さい頃からのあこがれの町。


 傾いた日の光に照らされたぬるんだ空気が、ちょうどいい。右肩に下げたさくらんぼ柄のエコバックを左手でなでなですると、心は家路をせく。早く、一人暮らしのマンションに帰って食べたいな。


 夕飯の買い出しにずいぶん出費したことは、とりあえず心の隅においやる。気持ちはほっこり大変満足しているんだけど、お財布事情がきゅうきゅう状況のわたし。


 思いのほか、引っ越し費用がかかったのだ。敷金礼金、おまけについつい新居に合う家具を新調してしまった。だってパイン材のチェストが、かわいかったんだもん。


 だから貯金が底をつき、贅沢できない。できないんだけど。今日、スーパーでとってもおいしいおぼろ豆腐を見つけてしまった。京都のお豆腐が有名なのは、全国的に周知のとおり。


 一丁四百円する地元有名店のおぼろ豆腐が、普通のスーパーに並んでいるのが目のはしっこに飛び込んできた。これって、運命? わたし、お豆腐大好き。運命のお豆腐の隣に、激安四十円のお豆腐がならんでたけど、その上を素通りして四百円を手にとったわけ。


 こんなおいしそうなお豆腐は、大豆の味がダイレクトにわかる冷ややっこにするのが一番。冷ややっこは薬味が肝心。ショウガのチューブと小葱をかごに入れて、今日のお買い物はおしまい。

 夕飯は、冷凍してあるご飯と冷ややっこでがまんしよう。一丁まるまる食べたらお腹ふくれるし。明日の朝ごはんは、まだ食パンが残ってた。


 よし、無駄なものは買ってない、それにとってもヘルシーだし。そう思って油断していたら、うっかりデザート売り場の前を通りかかる。


 ここだけは、このスーパーで足を踏み入れたことのない場所だったのに!

 冷蔵ショーケースにずらりとならぶ、色とりどりの甘い誘惑が目の端にちらつく。なんてきれいでかわいい、ちん列なの。思わず、視線は前をむいたまま足がネズミ捕りにひっかかったようにピタリととまる。

 だめ、横をむいてはダメ。絶対甘い誘惑には勝てない。それなのに、匂いなんてしてるわけないんだけど、甘いにおいの幻臭につらわれ、首は九十度左方へ勝手にくるりとむく。


 ああ、目が合っちゃった。宇治の老舗お茶屋さんプロデュースの抹茶をふんだんにつかった、生茶ゼリーと。チラリと値札をみると、ひとつ四百五十円なり。

 透明のカップの中で宝石のごとく光り輝く、暗緑色のプルプルゼリー。宝石が食べられる、たったの四百五十円で。安い、お得、買わずにおれようか……。


 レジで千円札と数枚の小銭をだし、お会計は終了。おかしいな、夕飯だけの買い物で千円以上つかっちゃうなんて。


 ゆれるエコバックに手を添えて、そんな事を考えていたら、足元を黒い何かが走りぬけていった。


「いやーー誰か、その子捕まえてくださーい!」


 後方から聞こえる、女性の悲鳴に近い懇願の声。前方に目をこらすと、一匹の黒い猫が、脱兎のごとく走っていた。猫だけど。


 エコバックを肩からおろし、取手を短く持ち直す。すぐさま、わたしは猫を追いかけ走り出した。今出川通りは交通量が多い。もし車道に飛び出したらとんでもないことになる。早く捕まえないと。


 足には自信がある。動作はとろいわたしだけど、小さい頃から足が速かった。

 まっすぐ走ってくれればすぐ捕まえられたのに、猫は途中で左へまがった。京都風にいうなら、今出川通りを下がったのだ。


 通りの名前なんてわからないけど、とにかく猫を追いかけ南下する。そうしたら、猫は一軒の町家の中へするりと入っていった。


 わたしも後に続く。格子戸が少しだけあいていたのだ。

 奥にのびる土間の真ん中で、猫は行き先を見失い立ち止まっていた。


 わたしはかがみこみ、猫に手を伸ばす。

「こわないで、びっくりしただけやな。さあ、おいで」


 黄色い瞳をじっと見ながら言うと、猫はこちらにやってきてわたしの手のひらをペロペロとなめだした。

 そうっと背中をさすってやり、抱きかかえる。


 その時、頭上から声がふってきた。


「もう閉店時間やけど、えらい珍客が飛び込んで来たわ」


 閉店時間? 猫を抱えて立ち上がり、声がした土間左手の和室に目をやった。


 わたし、町家にはいったつもりなのに、いったいここどこ?

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