第14話
「姉ちゃん、遅いね。今日はせっかく揚げ物じゃなくてハンバーグにしたのに」
千佳の家では夕食の準備の最中だった。弟の龍彦はそわそわしながらテーブルに載った皿を見ながら、文句を言うと、
「ねぇ、ちょっとだけ、先に食べちゃダメ?」
とおねだりをしている。
「千佳ももうすぐ帰ってくるでしょう。お待ちなさい」
母親がそう答えた時、電話が鳴った。
「あら、千佳かしら?あなた、取って」
テーブルで夕刊を読んでいた父親は、なんだ、まだあいつは帰らないつもりかと呟くと面倒くさそうに立ち上がり、受話器を上げて
「はい、芹沢ですが」
と答えた。
「え?ええ、ええ・・・・。本当ですか?」
声を裏返して答えている夫の只ならない様子に母親が台所から顔を出した。
「ちょっと待ってください。ペン・・・、あった。で、どちらの病院ですか?」
病院と聞いた母親の顔色が変わった。
「分かりました。どうもありがとうございます」
「千佳に何かあったんですか?まさか、交通事故じゃ・・・」
「いや・・・」
父親は、それが交通事故よりマシなのかそうでないのか、判断がつかないような顔をして答えた。
「監禁されたそうだ」
「監禁?誰に?千佳は大丈夫なんですか?」
立て続けに聞いてくる妻に答えに窮したかのように、
「とにかく病院に行く。父さんも一緒だそうだ」
と言うと、車の鍵を取った夫に、
「お父さんも?私も行きます」
と母親はエプロンを急いで脱ぐと椅子の
「どこの病院ですか?」
「市民病院だそうだ」
「え、あ・・・」
寸前で夕食が中止になりそうだと悟って、
「僕も・・・僕も行く」
と立ち上がった。とは言いつつ・・・親指をハンバーグのソースに浸して
個室をあてがわれた千佳は、病院の天井を見ながら、
「何でもないのに・・・どうしてベッドに寝てなきゃならないんだろ?・・・。お腹すいちゃったなぁ」
と呟いていた。実際の所、千佳が負った傷と言えば、転がされた時にできた擦り傷くらいのもので、家に帰りたいと申し出たくらいだったが、傷は身体だけに限らないと、警察にも病院にも止められた。
でも千佳は自分の事より・・・修介の事が心配だった。
警察に連れて行かれちゃったんだ。私を守るために。ピストルに立ち向かって。そう考えると胸が熱くなった。もし、あの時私が乱暴されたら私は一生尼寺で過ごす決心をしたに違いない。立ち向かった修介がピストルで撃たれ死んでしまっても、やっぱり一生尼寺で過ごす決心をしただろう。でも、尼寺ってどこにあるんだろう?ネットで調べなきゃ・・・・。
いや、結局どっちでもなかったんだから尼寺はどうでもいいか。それより相手に非があるとはいえ、修介はあいつらに怪我をさせてしまった。あの悲鳴は尋常なものじゃなかった。相当な怪我だったんだろう。現実に立ち戻れば、その事を内申書に書かれて修介の受験が不利になっちゃうんじゃないか、と考え始めると気が気ではなかった。
その時、廊下を走る音が近づいてきた。
「ん?」
寝ていた体を僅かに千佳が起こした時、扉が開いた。
「千佳っ」
「千佳・・・」
「姉ちゃん」
大きな声が病室に響いた。駆け込むように入って来た家族の後ろを通った女性の看護士さんが驚いたように振り向き、顔を
「病院の中よ、静かにして」
いきなり千佳に叱られて、家族は一同揃って、しゅんとした顔になった。
「でも・・・、来てくれてありがとう」
千佳に最初に駆け寄ったのは母親だった。
「大丈夫?」
そう言って掻き抱いた母の腕に顔を千佳は埋めた。
「う・・・ん」
急に涙が溢れてきた。怖かった、あの時。もう少しで修介の目の前で犯されるところだったんだ。もし、あの時修介が助けてくれなかったら、私は永遠にその傷を負って人生を送るしかなかったんだろう。
涙は止めようとしてもいくらでも溢れてきた。
「ほんとうに・・・大丈夫だったのか?」
いつの間にか近づいていた父親が心配そうに尋ねた。
「うん」
今、大切なものを奪われかけたなどと言ったらどんなことをするか分からない。
「おじいちゃんと修介が助けてくれたの。おじいちゃんに聞いたら分かるから」
「そうか・・・」
「あ、おじいちゃんは?」
千佳の問いに、
「今、鎮痛剤で眠っているそうだ。すぐに検査するらしい」
「検査って」
「内臓が傷んでいないか検査するそうよ」
母親が溜息をつくように言った。
「あの人たち、ひどい。無抵抗のおじいちゃんを思いっきり蹴ったの」
そう言ったらまた涙が溢れてきた。
「姉ちゃん・・・」
龍彦がおそるおそるといったように近づいてきた。
「たっちゃん・・・。来てくれたの?心配かけてごめんね。夕食時なのにね」
「姉ちゃんが泣いているの、初めて見た」
そう言うと、龍彦はぐすんと鼻を鳴らした。
「僕、姉ちゃんのことハンバーグより大切だから」
「ん?」
千佳は首を傾げて弟を見詰めたが、弟の表情は真剣そのものだった。
「とんかつよりコロッケより、唐揚げより大切だから」
「あ、うん・・・ありがとうね」
そう言うと、千佳は弟を抱き寄せた。
千佳はその日一日だけの入院で済んだが、祖父は五日ほどの入院が必要だと診断された。退院するにあたって母親と一緒に病院の医師と面談した時に、今後二・三日の間は学校を休み静養することと、PTSDに注意するようにと言われた。
夏休みが終わったばかりなのに・・・。翌日の朝、もう十時だというのに寝巻のまま、千佳は二階の部屋から外を眺めていた。昨日あんなに可愛いと思った弟は、姉が休むと知ると、
「姉ちゃん、いいなぁ」
と羨ましがり、
「おかげでハンバーグ、食べ損ねたし」
と言い始め、修介が警察に連れて行かれたと聞くと、挙句の果てには
「修介兄ちゃん、どうしてくれるんだよ」
などと言い始めた。うーん、弟って・・・と思いつつ、それは千佳にとっても心配の種だった。修介は事件のあった日に事情聴取を受けただけでその日のうちに帰されたが、学校から期限のない謹慎を言い渡されたらしい。
その話は香奈が禁止されているスマートフォンを使って教えてくれた。
警察からの連絡を受けた学校は概ね修介に好意的であったようだが、場合によっては過剰防衛にあたるかもしれないと言われ、さらに事情聴取をするという警察の意向に応じられるようにとの措置・・・だってよ。と香奈は言って来た。それを知って千佳は何度か修介にメールやラインを送ったが返事は来なかった。
「それに・・・あれ、どうなったんだろ?」
幼稚園児たちが保母に連れられて仲良くお散歩しているのを眺めながら千佳は独り
「あれ」とは井戸から見つかった古書である。修介はあの時「あれ」を持ってきたのだろうか?
男たちが祖父の家を襲った時、実は「あれ」は祖父の家の蔵の中にあった筈なのだ。祖父が男たちに襲われた時に、修介が持ち帰ったと言ったのは嘘である。その時は、祖父が時間稼ぎをしたのだと千佳は思った。もしもあの時、渡していたら事態は違う進展になっていたかもしれない。古書が奪われ、場合によっては祖父も千佳も殺されたのかもしれないし、たいして変わらない状況になったのかもしれない。
恐らくは後者だったのだろう。男たちの企みの肝は古書はなかったことにして、開発計画は変えず、古書があろうとなかろうと、三人の口を封じる手段として千佳を乱暴する動画を撮影することだったように思える。
あの場に修介は「あれ」を持ってきていないんじゃないだろうか。
「千佳、寝ていなくても大丈夫なの?」
母親がスープをお盆に載せて部屋に入って来た。
「うん、ほんとに何でもないから」
千佳は外の景色を見ながら答えた。幼稚園児たちは角を曲がって視界から消えていった。
「でもあのほら・・・ポスト ウマシカなんとかっていう・・・」
「ウマシカ?」
千佳は母を振り向いた。
「なんだったけ、お医者さんがいっていたじゃない、ショックの後に来る・・・」
「Post Trauma Syndrome Diseasesのこと?」
「あ、それ・・・だと思う」
「トラウマだし、ウマシカじゃない。それに・・・ウマとシカじゃ、馬鹿じゃない」
「あら・・・」
英語が苦手な母は英語の略語が苦手で、絶対に覚えられない。おおかたポストに動物二匹と覚えた肝心の動物の名前まで間違えたのだろう。
「十二支の動物だわね、馬も虎も、どっちとも」
鹿はどこへ行ったのだろう?
「うーん、そういう問題なのかなぁ」
自分が深刻になれないし、神経質でもないのはきっとこの母の血を引いたからだ。
「修介君、大丈夫かしら」
言い間違えなど無かったかのようにスープをベッドの横のテーブルに置くと母は呟いた。
「うん、心配。でも私、一生修介の傍にいるから」
「あら・・・そんなこと言ってもあちらのご意向と言うのもあるしねぇ」
しれっと母親は千佳をディスった。
「いや・・・そう言う意味じゃなくってさ。まあ、そう言う意味でも構わないんだけど」
言ってしまってから思わず千佳は照れた。それにしても・・・親だというのにどうも話が噛み合わないときがある。
「おじいちゃんは・・・どうなの?」
しょうがなしに千佳は話の穂先を変えた。
「あ、今日からお見舞いオーケーだって。あなたも病院に行かなきゃならないんだから、一緒にお見舞いに行きましょう。それと・・・」
「うん?」
母親はエプロンのポケットからメモを取り出した。
「おじいちゃんからあなたにメッセージがあるの。できれば病院にい来る前に蔵に寄って写真を取ってきてほしいって。意味わかる?」
「あ、分かる」
やっぱりおじいちゃんも修介が「あれ」を持ってこなかったと思っているんだ。もしかして知っていたのかもしれない。
「じゃあ、午後の診察時間が始まるちょっと前にお見舞いに行くとして・・・。そうね、十二時半にうちをでましょうか?」
「了解」
答えると千佳はスープを飲み干した。母手製のブロッコリーのスープは体の芯まで温めて、なんだか元気が出たような気がした。寝巻を脱ぎ、ジャージに着替えると千佳は階下に降りて行った。
「じゃあ、ちょっと待っていて」
千佳が車を降りると、
「ほんとうに大丈夫なの。一緒に行ってあげようか?」
母が心配そうに声を掛けた。
「その、なんだっけ、PTAが・・・」
「PTSD・・・ね」
間違ってはいるけど・・・でも襲われた場所に行くことで体の変調が起こらないか、心配してくれる母親の気持ちは分かった。
「でも大丈夫だと思う。あんまり長い間出てこなかったら、その時見に来て」
そうは言ったものの・・・普段両親が祖父から預かっているいる鍵を扉に差し込んだ時はちょっと心が震えた。もしかしたら、フラッシュバックがあるかもしれない。昔から慣れ親しんだこの場所で、もしフラッシュバックが起きたらどうしよう?
扉を開けた。何も起こらなかった。襲われた作業場の戸を開けた。気持ちは落ち着いたままだった。ほっとした。もしこの場所でフラッシュバックが起きたら、当面おじいちゃんの家に来れないかもしれない。それは嫌だった。祖父との思い出の場所、そこに修介との思い出が重なり始めているこの場所・・・。
作業場にある秘密の鍵の隠し場所から蔵の鍵を取り出すと千佳は昨日置いたばかりの古書を納めた棚を開けた。やはり、「あれ」はそこにそのまま置かれていた。
一冊ごとに表紙の写真をスマホのメモリに納め、それから最初の冊だけ開いて一ページ目の写真を撮った。
写真を撮り終わったその時、後ろでガタンという音がした。一瞬、千佳は背筋を冷たいもので撫でられた気がして、悲鳴を上げかけた。
「千佳・・・大丈夫なの」
母の声がした。口を掌で抑えながら、振り返った千佳の眼には涙が溢れた。
「お母さん・・・脅かさないでよ」
そう言うのが精いっぱいだった。
「ほんとにごめんね。あんたがあんまり長い間出てこないもんだから」
母が運転しながら千佳を盗み見た。危うく自分のせいで千佳の病状を悪化させてしまう所だったのだ。
「うん・・・もういいよ。それより運転に集中して」
自分に視線を送ったせいで、センターラインからはみ出掛けかかった母の運転を千佳は注意した。
「あ、はいはい」
母はそう言ながら僅かにハンドルを切って車線に車を戻した。病院まではもうすぐだった。
祖父はベッドに横たわっていた。途中で買った切り花と雑誌をお見舞いに、それと病院から連絡のあった下着やパジャマなどもあったので、千佳と母の手に持った荷物はそこそこ多かった。
「すまんな。手間をかけて」
「気にしないでくださいな。千佳を守ってくださったんですから」
母はそう言うと、
「じゃあ、私は花瓶を借りて来るからね」
といって病室を後にした。
「おじいちゃん、頼まれていたもの。はいこれ」
そう言いながらスマートフォンを差し出すと、
「おお、持ってきてくれたか」
祖父は顔を
「修介、やっぱしあれを持ってこなかったんだね」
「もし私の家に寄っていたらあんなに早く来れなかっただろう」
祖父は答えた。
「そうか、そうだね」
「私があの時貸したこの地の由来を書いた江戸時代の本をそのまま持ってきたんだろうよ。幸いなことに相手は気付かなかったようだ。古本とか言っていたな」
「ああ」
千佳は頷いた。
「ところでそれをメールとやらで送ることはできるかな?」
祖父の問いに
「うん。もちろん」
と千佳は答えた。
「じゃあな、私のズボンのポケットに手帳があるからな、そこに相島教授という人のメールアドレスがある筈だ。そこに私の名前でメールを送ってほしい」
「うん、分かった」
「コピーに修介君も入れておいてくれ」
「はい」
「文面はだな・・・」
母が花瓶を携えて戻って来た時、千佳は祖父の言葉を熱心にスマートフォンに打ち込んでいた。
「・・・もし、ご興味があるようでしたらこちらで原本をご覧になってください」
祖父がそう言って語り終えると、
「これで送信で良いの?」
と千佳が尋ねた。
「うむ」
「じゃ、送るね」
そう言うと千佳は送信ボタンを押した。祖父はほっとしたように花瓶に生けられた花を見て、
「きれいだな」
と微笑んだ。
「ありがとう、色々と迷惑をかけるね」
「そんなこと・・・。それよりもお体はいかがですか?」
「うん、もう大丈夫だ。三時には警察が事情聴取に来る、と言っておるらしい」
「そうなんだ、私もここで聴取を受けるの。病院がわざわざ部屋を用意してくれたんだって。おじいちゃんの後でかな?」
「多分そうだろう。ところで修介君は釈放されたのだろう?」
「うん、でも学校では謹慎なんだって。過剰防衛かもしれないって」
千佳は眉を顰めた。
「そうか心配だな」
「おじいちゃんもそう思う?」
「いや・・・しかし、あの時の修介君には誰か別の人間が乗り移ったかのようだった」
「そうね・・・。刑事さんにも聞かれたけど、修介が剣道をやっていなかったかって」
「私が見た限りでも、あれはまさしく古武道の剣捌きだった」
「古武道?」
「うむ・・・。昔の剣だ。ピストルを持っていたのにも拘わらず相手は気合に気圧されておったように思う」
「たしかに・・・。私もびっくりしたもん。でもピストルが相手でしょう。過剰防衛なんて言われても・・・。油断すれば撃たれちゃうんだから」
そう言うと、なんだか眼の奥から涙が滲み出てきそうになった。
「そうだな、その通りだ」
祖父は優しく答えた。
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