第2話
「姉ちゃん、待ってぇ、待ってったら」
坂の下から弟の龍彦が叫ぶ声が聞こえた。芹沢千佳は微かに溜息を吐くと、自転車を漕ぐ脚を僅かに緩めた。あっという間に自転車のスピードは落ち、片脚をとんとんと二回地面につけると千佳は後ろを振り返った。
「ほら、頑張れ」
声をかけると千佳は弟を見守った。あと、一・二年もすれば年の離れたこの弟もきっと楽々とこの坂を自転車で漕ぎきることができるようになるに違いない。そして私を追い越しがてら、同じ口で、
「姉ちゃん、早く、早く・・・」
って言うようになるんだろうな、なんて思う。
だってあいつも、小学五年生の頃は、そうだったんだから。
そんなことを千佳が思っているうちに弟はよろよろしながらも足を地面につけることなく姉の横までたどり着いた。
「姉ちゃん、おいてかないでくれよっ」
むくれた顔をして龍彦は姉を見上げた。はぁはぁと息が切れている。
「タツが遅すぎるんだよ。グズグズしているから」
「ひどいなぁ」
「でも・・・そのうち、タツの方が早く登れるようになるよ、男の子だもん」
「そうかなぁ」
心もとなげに口を尖らせた龍彦に、
「その時は姉ちゃんを待つんだよ。今だってこうして待っていてあげたんだから」
千佳がそう言い聞かせるように言葉を掛けると、
「わかったぁ」
と龍彦は素直に頷いたが、あっと声をあげ視線を逸らすと、
「新幹線だ」
と、声を上げた。見ると坂の下、地平の遥か遠くに模型のような大きさの新幹線があっという間に横切っていくのが見えた。
「東京へ行くやつだね」
龍彦はきらきらした目で姉を見た。
「お前、いまさら新幹線が珍しいか?」
乱暴な姉の言葉に、
「珍しくないけど・・・格好いいじゃん」
弟の答えに小さくため息を吐くと千佳は自転車を押し出した。坂の途中からでは自転車を漕ぎ続けるのはしんどい。龍彦には無理だろう。
「龍彦も東京に行くの?大きくなったら」
「え?」
地面を見ながら後ろで自転車を押していた弟は姉を見上げた。
「だって、新幹線見て東京に行くやつだって、嬉しそうだったじゃん」
姉の後ろで自転車を押していた龍彦は首を傾げると、
「どうかなぁ」
と答えた。
「でも仕事もこっちの方では少ないし、市役所とか学校の先生とか、あとは農協とか信用金庫・・・」
「ここで仕事を作ればいいじゃん」
弟がそう答えたので千佳は驚いて後ろを振り向いた。
「え?」
「修介兄ちゃんがそう言っていた」
得意げに龍彦はそう言った。
「仕事がないって嘆くんじゃなくて、仕事なんて作ればいいって、そう言っていたよ」
「あのバカ」
千佳は小さく毒づいた。小さな子にいい加減な事を言うんじゃないわよ。
千佳の父親は市役所で働いている。農繁期には、母がやっているそれほど広くない田や畑を手伝う半分農家みたいな生活だ。近所の家も大体同じような暮らしをしている。もう少し年を取ると専業農家にならざるを得ない。なかなか現金が回らない農業という仕事を続けるためにはそれなりの生活資金が必要で、確実に年金を貰える公務員はその意味で最適の仕事だ。
こんな暮らしのどこで「仕事」を作ることができるんだろう?そんなことができるならみんなとっくの昔にやっている。
「そのうち、お前にも現実が見えて来るわよ」
千佳の言葉に、
「えー?姉ちゃんより修介兄ちゃんの方が賢いもん。僕は修介兄ちゃんを信じるよ」
と悪口を言った弟を睨み付けるとそのまま置き去りにして、すたすたと千佳は自転車を引きながら坂を上っていった。
修介の方が千佳より成績が良いのは事実だ。千佳も決して頭の悪い方ではないが、修介は通っている高校で常に一二番を争っている。というか殆ど一番だ。千佳も時折一桁の順番になるけど、修介より順位が上になったことはこれまで一度もない。多分今後もないだろう。悔しいけど反論はできない。
千佳は黙ったまま、目的地に向かって自転車を押していった。
坂の先には祖父が館長をしている郷土資料館がある。千佳が祖父のところにやってきたのは春休みの一日に郷土資料館の整理を手伝うためだった。龍彦は祖父に懐いているので今日は姉のお供である。もちろん整理の助けになんかならない。邪魔にならねばマシくらいだけど。でも、もう足引っ張っているじゃん。一人きりなら坂を登りきれたのに違いない。お陰で約束の時間ギリギリだ。その上、姉をバカにしたような事まで言って、ムカつく。
ふくれっ面のまま、坂を登りきると、どうやら姉を怒らせたことに気付いたらしい弟も黙ったまま神妙に後をついてくる気配がした。
「あ・・・」
資料館の前に留めてある自転車に見覚えがあった。思わず立ち竦んでいると、郷土資料館の戸がガラガラと音を立てて開いた。現れたのは見覚えのある顔・・・。さっき弟が言っていた、千佳の同級生の佐地修介だった。
「あ、修介兄ちゃん」
「よっ・・・」
千佳を見た時は目を細めただけで表情を変えなかった修介の顔が、後ろから現れた弟の姿を見て
なんだかとっても気に食わない。
「佐地くん、こんなところで何しているの?」
素っ気ない口調で尋ねた千佳に、それを上回る素っ気ない口調で答えが返ってきた。
「館長さんに用事があったんだ。今さっき終わったところ。じゃ」
そう言って自転車を跨いだ修介に、なんだかむやみに腹が立って千佳は
「どうでもいいけど、弟に変なこと言わないで」
と言い返した。
「変な事?」
自転車に跨ったまま修介が尋ねた。
「ここでも仕事を自分で作れるとか、言ったでしょ」
「ああ」
修介は頷いた。
「そんなことできるはずがないでしょ。やってみてから言ってよ」
自分で言っていてもなんだか言いがかりみたいだなぁ、と思いつつ、その気持ちを押し殺して千佳は言い募った。
「おれ・・・」
修介はまた、目を細めると冷たい表情になった。
「おれ、本気でそう思っているから。いつでも本気だから」
言い捨てると、修介は千佳から眼を逸らして自転車を漕ぎだした。その後姿に内心、べーっと舌を出して、
「ほら行くよ」
と弟を促した千佳に、
「おれ、いつでも本気だから」
と、修介の真似をして龍彦が言った。
「カッケー」
「バカなこと言っているんじゃないわよ」
自転車のスタンドを立てると、弟を残したまま、千佳はすたすたと資料館の中へと入っていった。
「よく来たなぁ」
祖父は二人を迎え入れると目を細めた。もう七十五になるのに祖父は矍鑠としていた。銀色の髪はふさふさとしていて、足腰もしっかりとしている。千佳も背の低い方ではなかったが祖父は180センチはあるだろう。前に立つと今でもなんだか、圧倒されるような気がする。
「じいちゃん」
弟は千佳を差し置いて祖父に甘えるように抱き着いた。その頭をポンポンと叩くと、
「さあ、こっちだ」
と祖父は千佳に向かって奥を指した。
案の定、龍彦は最初のうちはともかく、三十分ほどすると飽きたらしく、いたずらばかりするようになった。
祖父の出してくれたジュースを倒したのを見て、
「もういいから、外で遊んできていいよ」
雑巾で零れたジュースを拭きながら千佳が言うと、龍彦は、うん、と頷いて外へ向かって駆けだした。
「だから連れてきたくなかったんだよなぁ」
ぶつぶつ文句を言った千佳に祖父は静かに笑った。
「ところでおじいちゃん」
千佳は台所で雑巾を洗い終えると、祖父に尋ねた。
「あいつ、何しに来たの?」
「あいつ?」
祖父は、あいつ、という孫の乱暴な言葉遣いに顔を少し顰めた。
「玄関であったよ。佐地・・クン」
「ああ、修介君の事か」
みんなが下の名前で彼の事を呼ぶ。昔は私がシュウスケって呼び捨てにしていたのに、今は私だけが「佐地くん」って呼んでいる。
「お前と同じで手伝ってくれているのだよ」
「え、そうなの?」
顔を上げて祖父を見ると、
「向こうにある標本箱は彼が整理してくれたものだ」
祖父の指さした方を見遣ると、整然と並んだ木枠のケースが積んであった。
「ふうん」
と言いながら傍によって一番上のケースを見ると几帳面な字で書かれたタグのついた品物がきちんと並んでいた。あいつ、こんなに字がうまかったっけ?
「でも、なんで?」
「ん?修介君はこの地の歴史を知りたがっているんだよ。私がそれを教えている。そして彼はそのかわりに手伝ってくれている」
「歴史?」
「そうだよ」
「でもなんで・・・?」
部活の研究?いや、彼はクライミング部だ。高校にも歴史研究会はあるけど、彼は所属していなかったはずだけど・・・。
眼で問い掛けた千佳に、祖父は、
「千佳も知っているだろう?開発計画のことを」
「あ、うん」
ここから西北に広がる山を整地して、住宅を建てるという計画があると母から聞いたのはつい最近の事だった。
「え、あんな山に誰が住むの?たぬきの家族?」
率直な千佳の質問に母は苦笑しながら首を傾げて、
「誰だろうね。別荘地にするんじゃないか、っていう噂もあるけれど」
「今どき別荘地なんてはやらないじゃない」
確かにこの街から少し離れた場所にずいぶんと昔からある温泉地があるし、一つ山を越えれば冬になればスキーのゲレンデはある。でも今更別荘地?世の中には廃れた別荘地が山ほどあるというのに。
「そうねぇ」
母親は頷いた。
「まあ、でも道路を作れば市街地までそうは遠くないし」
「だって、この街、人口が増えていないんだよ。空き家だってたくさんあるのに」
「そうだけど、新しい家だったら買い手があるのかもしれないじゃない」
「絶対そんなことない」
断言した千佳に、
「でも、まあその土地を買うところがあるんだから、あなたが反対したって・・・」
そう答えた母に千佳は尋ねた。
「あそこって誰が地主なの?」
「
幸というのは、この近辺で有名な土地持ちである。戦後、すぐに小作人を追い払って、無理やり田や畑の地目を山野に変更させて農地改革を乗り切ったという話を聞いたことがある。全部が全部、本当ではないだろうけど代々やりての家系として有名な一族である。そこの今の当主は佐地修介の叔父にあたる人が婿入りしたのだと、それは幼いころ修介自身から聞いたことがあった。
「ふうん・・・」
その時はふうん、と思っただけだけど修介に何の関係があるのだろうか?そう思いながら千佳は祖父の言葉を待った。
「あの山には山城がある。開発計画の領域には入っていないようだが、その山城から見る景色が開発されれば変わってしまう。修介君はそれが悔しいんだろうね」
「どうしてかしら?」
「あそこからの山の景色が好きなんだろうけど、ね。だが、血かもしれないな」
「血・・・?」
「そうか、千佳は知らないのだね」
祖父はそう言うと、千佳の横に腰を掛け、簡単に教えてくれた。七百年ほど前の事、この地方を治めていた領主が佐治氏であった。だが、この地方は群雄割拠する地で土地を求めて様々な戦いが繰り広げられた。そんな中で佐治一族は北に居を構えていた沼田氏によって滅ぼされる。その戦いでは佐治一族で仲間割れがおき、沼田氏側についた者があり、彼らはその功績によって「
「修介君は、その敗れた側の一族の血を引いておるのだ」
「ふうん」
そう答えたものの千佳には現実感がなかった。
「でもそんな昔の事・・・」
「そうだな」
祖父は柔らかい声で答えた。
「そんな理由があって、佐地と
「
千佳は祖父に尋ねた。祖父は頷いた。
「幸福の幸というのはサチとも読むだろう?昔はそのままサチと名乗っておったのだが、明治の頃にサイワイと名乗り始めたのだ。そちらの方がモダンに聞こえたのかもしれんが、やはり本家を裏切った者たちがサチと名乗り続けるのが面映ゆかったのかもしれんな」
「へえ、じゃあ、佐地君は先祖が負けさえしなかったらお殿様だったんだ」
「そう単純なものではないがな」
祖父は話を切り上げるかのように手を振った。
「まだ整理するものがたくさん残っておる。仕事に戻るぞ」
「あ、ごめんなさい」
千佳はぴょこんと頭を下げると、残っている大きな木製の茶箱に視線を遣った。
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