き・せ・き
西尾 諒
第1話
小暗い闇の中で一人座していた女は、がらりと開いた戸の向こうの人影が夫であることを認めると声を上げた。
「いかがなされたのです?」
凛とした声が部屋の中に響いた。
侍女たちは控えの間に下がらせてある。開いた戸から潜り込んだ風が
入ってきたのは重たげな
女、と言っても歳はまだ十三、揃えた前髪の下にあるその眼は清らに愛らしく、頬は
「どうも、いけないようだ。叔父上が兵をひいた」
「河上の叔父上様が?」
少女の問いに若者はこくりと頷いた。
「兵を引いただけでは済まなかろう。おそらくは寝返ってこちらを攻め込む準備でもしているのであろう」
「沼田の
「うむ。利を餌に僅かな隙間に
赤間とは川の下流にある稲の取れ高の良い肥沃な土地であった。叔父がその土地を欲しているのは
若者が少女の前に座り込むと、鎧が
「叔父上に裏切られては、もはやたちいかぬ。そなたには済まぬことをした。この家に、この城に呼べねばこのような目に遭うこともなかったであろうに。だがまだ間に合う。城の抜け道から女子供を逃がすことが決まった。そなたもここを逃れ、里に帰るが良かろう。嫁いだばかりの子もないそなたを敵も追いはしまい」
若者の言葉にきっぱりと少女は首を振った。
「父上からきつく言われています。この城に参る以上、お前は
「
若者は微笑んだ。
「だが、そなたが嫁いだ相手であるこの私が言うのだ。
「ですが、父もあなた様にお味方して兵を挙げている筈。もしもお味方が不利という事でしたら、父の命もありますまい。私はこの城を落ち延びても帰る先はありませぬ」
「そなたには
やがて苦し気にそう呟いた若者に、
「
娘は激しい口調で答えた。
「難儀な事よの。そのお方が沼田の味方だからこそ、そなたも生き永らえることができそうなものだが・・・」
「さようなつもりはありませぬ」
娘は抜き身の剣のように鋭く言い放った。若者は再び苦い笑みを浮かべた。
「この戦国の世にあって、族同士が戦うのは単に利の為だけではない。万が一、どちらかが滅びても片方は生き残る、さような考えもあるのだぞ」
「そのようなお考えは族の
「そうか・・・」
若者は溜息を吐いた。嫁いでまだ半年にも満たない目の前の娘が、その愛らしい風貌と似あわずとびきり意志の固い娘であることを知っていたのである。強情とさえいえる。
「しかし・・・そなたはまだ・・・」
嫁いできたもののまだ人形のように愛らしかった娘を若者は傷つける気にはならなかった。
「
娘は
「
「もちろんのことよ」
若者は膝をつくと、そっと娘の手を握った。
「そなたとは短い間であったが、楽しゅう話もできた。平安の世であれば、七十、八十になっても睦まじく暮らせたであろう。唯一の心残りは・・・」
問うように眼差しを上げた娘に、若者は
「いや・・・なんでもない」
と苦笑いをした。
「私にも心残りがございます。ですがきっと再び生まれ変わった時には添い遂げることができましょう」
「そうよな。生まれ変わった折には・・・。そうだ、その目印にこれを」
若者は鎧の
「この
娘のまだ小さな白い手に置かれたのは今でいう
「まあ、きれい」
落城寸前の城の中とは思えないほど華やかな声を娘はあげた。
「これは以前ばばさまから頂いたものだ。私が持っていても仕方がない。そなたに持っていてもらう事としよう。次の世で会う時にはそれを目印としてそなたを探そうよ」
「ええ・・・。ところで、そのばばさまはどうなさっておられます?」
娘が問うた。
嫁いできたおりに娘が最初に馴染んだのは若者の祖母である。京で帝の近くにおられる方々にお仕えしていたその人はこの山の中に嫁いで、激変したであろう暮らしを嘆くこともなく、かといって京で身に纏った
「ほんにここはいいところ。とりわけ秋の紅葉は美しいこと」
と言った。
「京の紅葉はここよりももっと美しいでしょうに」
と娘が尋ねると、
「そんなことはありませんよ。京の紅葉は人の手で
というと、ふと思いついたように筆を取ってすらすらと歌を書きつけた。その一首を娘はよく覚えていないが、おばば様の言うには
「京の紅葉が美しいかと問うあなたは京の娘とはまた違った美しさを持っています」
という意味の歌だと教えてくれたのだった。
「おばばさまは京からここに参る折に持参なさった
若者の嘆きに
「
と娘はきりっとした口調で答えた。
「ん?」
「おばばさまがおつかえなさっていた家です。当主ともあろうお方がお忘れになるとは・・・」
娘の言葉に
「そうか・・・・」
と若者は苦笑いを返した。
「
そう言うと先ほどの翡翠を押し頂くような姿で受け取ったが、ふと娘は困ったような表情をした。
「どういたしましょう。私、修理さまにお渡しする目印のようなものを持っておりませぬ」
「何でもよいではないか」
「そういうわけには参りませぬ。いただきましたこの石のように、
ふと思いついたように、戦いが始まったと聞いた時に懐に仕舞った懐剣に手をやったが娘はかぶりをふった。これがなければ自害もできぬ。とっさに、
「修理さま、こちらに・・・」
「うん?」
誘われるように身を乗り出した若者の唇に少女は自分の唇を押し当てた。
「覚えておいてくださいませ」
頬に僅かに血を昇らせて自分を見詰めた少女に若者は微笑んだ。金でも石でもない・・・だが、永遠に残るものはこれしかないと少女は思ったのであろう。
「これは、なんと。決して忘れるものか。口吸いが目印とはよく考えたものだ。おかげで元気が出た。沼田の兵など蹴散らして呉れよう。この地はわれらのもの。われらが守らないでどうする」
ははは、と声を上げた若者は、鎧の
「これから参る。そなたも見ていてくれ」
というなり後ろを向いて去っていこうとした。だが、部屋を出る一瞬、未練があるように娘の方を振り向いた。若者が振り向いたのは僅か一瞬で、すぐに面を返すと重い足音だけを残して廊の向こうへと消えていった。
娘はその姿が消えた後もいつまでも若者の去っていった方向を見詰めていたが、やがて先ほど渡されたものを大切そうに懐にしまうと、立ち上がった。
「おばばさまのお手伝いをいたしましょう」
娘はそう呟いた。
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