き・せ・き

西尾 諒

第1話 

 小暗い闇の中で一人座していた女は、がらりと開いた戸の向こうの人影が夫であることを認めると声を上げた。

「いかがなされたのです?」

 凛とした声が部屋の中に響いた。

 侍女たちは控えの間に下がらせてある。開いた戸から潜り込んだ風が四隅しぐうを照らしていた蝋燭ろうそくの火を揺らし、それと共に入って来た男のぼんやりとした大きな影も一緒に揺れた。

 入ってきたのは重たげな鎧兜よろいかぶと甲冑かっちゅうを身にまとった若者である。その若者は苦い笑みを浮かべつつかすかに首を振った。女の目が僅かに見開かれた。

 女、と言っても歳はまだ十三、揃えた前髪の下にあるその眼は清らに愛らしく、頬はほのかに紅潮している。だがその下にある柔らかそうな唇はすっと引き締められ、目はもの問いたげに若者を見詰めている。その眼に若者が答えた。

「どうも、いけないようだ。叔父上が兵をひいた」

「河上の叔父上様が?」

 少女の問いに若者はこくりと頷いた。

「兵を引いただけでは済まなかろう。おそらくは寝返ってこちらを攻め込む準備でもしているのであろう」

「沼田の調略ちょうりゃく・・・でしょうか?」

「うむ。利を餌に僅かな隙間にてこをこじ入れて同族を割るのがあの者たちの仕様しよう。さしずめ、赤間あかまの領をに叔父貴を釣ったのであろうよ」

 赤間とは川の下流にある稲の取れ高の良い肥沃な土地であった。叔父がその土地を欲しているのはかねてから知ってはいたものの、まさか共に寝起きをしたこともある一族を裏切るとは思っても見なかったのである。

 若者が少女の前に座り込むと、鎧がきしむような音を立てた。

「叔父上に裏切られては、もはやたちいかぬ。そなたには済まぬことをした。この家に、この城に呼べねばこのような目に遭うこともなかったであろうに。だがまだ間に合う。城の抜け道から女子供を逃がすことが決まった。そなたもここを逃れ、里に帰るが良かろう。嫁いだばかりの子もないそなたを敵も追いはしまい」

 若者の言葉にきっぱりと少女は首を振った。

「父上からきつく言われています。この城に参る以上、お前は佐治さち様に嫁いだもの。決して恥になるような行いはしてはならないと。そして何が恥なのか、それだけをわしはお前には教えたのだ。その教えにそって行いをするのこそ、して後お前がせねばいけない唯一のことだと心得よ。父上はそう申されました」

芹里せりざわの親父さまらしい物言いよの」

 若者は微笑んだ。

「だが、そなたが嫁いだ相手であるこの私が言うのだ。可惜あたら、若い命を散らしてはそなたの父上にも済まぬことよ」

「ですが、父もあなた様にお味方して兵を挙げている筈。もしもお味方が不利という事でしたら、父の命もありますまい。私はこの城を落ち延びても帰る先はありませぬ」

「そなたにはが原に親戚がおったであろう?」

 やがて苦し気にそう呟いた若者に、

山賀やまがの伯父ですね。山賀の伯父は父と対立して沼田のお味方をされた方。そのような方の所にどうして行けましょうか?」

 娘は激しい口調で答えた。

「難儀な事よの。そのお方が沼田の味方だからこそ、そなたも生き永らえることができそうなものだが・・・」

「さようなつもりはありませぬ」

 娘は抜き身の剣のように鋭く言い放った。若者は再び苦い笑みを浮かべた。

「この戦国の世にあって、族同士が戦うのは単に利の為だけではない。万が一、どちらかが滅びても片方は生き残る、さような考えもあるのだぞ」

「そのようなお考えは族のおさがなさること。女の私には関係ありませぬ。さらば今は父上の教えに従うしかございませぬ」

「そうか・・・」

 若者は溜息を吐いた。嫁いでまだ半年にも満たない目の前の娘が、その愛らしい風貌と似あわずとびきり意志の固い娘であることを知っていたのである。強情とさえいえる。

「しかし・・・そなたはまだ・・・」

 嫁いできたもののまだ人形のように愛らしかった娘を若者は傷つける気にはならなかった。ねやの中で、添い寝をしてその美しい寝顔を見、手を握り合う事しかしていなかったのである。女である事の素晴らしさを知らぬまま、この娘が死ぬ事を哀れに思う。だからと言って敵がいつ攻め込んで来るか分からないこの時に、、、。そんな思いを蹴散らすように、

修理しゅりさま」

 娘はおもただすと、若者を見詰めた。

千夏ちかもお前さまとご一緒に戦いたいと存じますが、なにゆえ、弓も引けませぬ。槍もおぼつきませぬ。戦いに参じても足手まといになるのは明白。とすれば、ここで経を唱え、神仏のご加護を祈ることくらいしかできませぬ。とはいえ、私も女でございます。死ぬときは嫁したお前さまと一緒にあの世へ参りたいと存じます。ついては、どのようなことがありましても千夏はお前さまと共に死んだ、と思いたいと存じます。それで宜しゅうございますか?」

「もちろんのことよ」

 若者は膝をつくと、そっと娘の手を握った。

「そなたとは短い間であったが、楽しゅう話もできた。平安の世であれば、七十、八十になっても睦まじく暮らせたであろう。唯一の心残りは・・・」

 問うように眼差しを上げた娘に、若者は

「いや・・・なんでもない」

 と苦笑いをした。

「私にも心残りがございます。ですがきっと再び生まれ変わった時には添い遂げることができましょう」

「そうよな。生まれ変わった折には・・・。そうだ、その目印にこれを」

 若者は鎧のすが襟回えりまわしの紐を少し緩め手甲てっこうを外すと器用にふところから何かを取り出した。

「このぎょくをそなたに」

 娘のまだ小さな白い手に置かれたのは今でいう翡翠ひすいであった。銀の縁どりが施された石は深いみどりの色を湛え僅かな燭の光を受けてきらりと光った。

「まあ、きれい」

 落城寸前の城の中とは思えないほど華やかな声を娘はあげた。

「これは以前ばばさまから頂いたものだ。私が持っていても仕方がない。そなたに持っていてもらう事としよう。次の世で会う時にはそれを目印としてそなたを探そうよ」

「ええ・・・。ところで、そのばばさまはどうなさっておられます?」

 娘が問うた。


 嫁いできたおりに娘が最初に馴染んだのは若者の祖母である。京で帝の近くにおられる方々にお仕えしていたその人はこの山の中に嫁いで、激変したであろう暮らしを嘆くこともなく、かといって京で身に纏ったみやびを崩すこともなく、優し気な眼差しで娘を迎え入れてくれたのだった。そして城から見える景色を眺めながら、

「ほんにここはいいところ。とりわけ秋の紅葉は美しいこと」

 と言った。

「京の紅葉はここよりももっと美しいでしょうに」

 と娘が尋ねると、

「そんなことはありませんよ。京の紅葉は人の手でめられた美しさ。こちらの紅葉は自然が自ずと作ったもの。どちらも美しく、甲乙の付けがたいものです」

 というと、ふと思いついたように筆を取ってすらすらと歌を書きつけた。その一首を娘はよく覚えていないが、おばば様の言うには

「京の紅葉が美しいかと問うあなたは京の娘とはまた違った美しさを持っています」

 という意味の歌だと教えてくれたのだった。


「おばばさまは京からここに参る折に持参なさった葛籠つづらを古井戸に隠されておられる。何やら大切なものだと申されてな。なんと言ったか、お仕えなさった公家の当主から預かったものらしいが、命の瀬戸際にあのような紙くずをどうなされようとしておられるのか・・・。落ち延びられよと勧めても言を左右にしてお聞き入れにならぬ。どうやらおばばさまもそなたと同じように城と共に、というご覚悟のようだ」

 若者の嘆きに

冷泉れいぜいさまでございますよ」

 と娘はきりっとした口調で答えた。

「ん?」

「おばばさまがおつかえなさっていた家です。当主ともあろうお方がお忘れになるとは・・・」

 娘の言葉に

「そうか・・・・」

 と若者は苦笑いを返した。

らば、私もおばばさまのお手伝いいたしましょう」

 そう言うと先ほどの翡翠を押し頂くような姿で受け取ったが、ふと娘は困ったような表情をした。

「どういたしましょう。私、修理さまにお渡しする目印のようなものを持っておりませぬ」

「何でもよいではないか」

「そういうわけには参りませぬ。いただきましたこの石のように、金石きんせきの如く永遠に残るものでなければ目印になりませぬでしょう」

 ふと思いついたように、戦いが始まったと聞いた時に懐に仕舞った懐剣に手をやったが娘はかぶりをふった。これがなければ自害もできぬ。とっさに、

「修理さま、こちらに・・・」

「うん?」

 誘われるように身を乗り出した若者の唇に少女は自分の唇を押し当てた。

「覚えておいてくださいませ」

 頬に僅かに血を昇らせて自分を見詰めた少女に若者は微笑んだ。金でも石でもない・・・だが、永遠に残るものはこれしかないと少女は思ったのであろう。

「これは、なんと。決して忘れるものか。口吸いが目印とはよく考えたものだ。おかげで元気が出た。沼田の兵など蹴散らして呉れよう。この地はわれらのもの。われらが守らないでどうする」

 ははは、と声を上げた若者は、鎧のひもを引き直すと、

「これから参る。そなたも見ていてくれ」

 というなり後ろを向いて去っていこうとした。だが、部屋を出る一瞬、未練があるように娘の方を振り向いた。若者が振り向いたのは僅か一瞬で、すぐに面を返すと重い足音だけを残して廊の向こうへと消えていった。

 娘はその姿が消えた後もいつまでも若者の去っていった方向を見詰めていたが、やがて先ほど渡されたものを大切そうに懐にしまうと、立ち上がった。

「おばばさまのお手伝いをいたしましょう」

 娘はそう呟いた。



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