第二編第一章第一節 普通科(ほへい)の本領

神奈川県横須賀市御幸浜

陸上自衛隊武山たけやま高等学校

令和十年二月二十六日(土)


「ねえ、晃嗣あきつぐ。ちょっとチェックしてほしい衛生科の資料があるんだけど」

 場所は武山駐屯地南の生徒食堂、時刻は昼休み。俺を呼び出した女子生徒――雪緒ゆきおはそう言うなり、パワーポイントで作られた英語の資料を見せてきた。

 目をやると、思わず視線を背けたくなるような銃創が網膜に飛び込んでくる。……わざわざ飯を食い終わってから話を切り出したのは、こういうわけだったか。

 パラパラと資料をめくると、一枚ごとに手書きで解説部分の日本語訳がついている。こなれていない和訳ではあったが、おおむね正確だった。

「これ、お前が書いたのか?」

「ええ。ちょっと自信がないところに、マーカーで印をつけてあるわ。悪いけど、ヒマなときにでも見てくれない?」

「天才のお前でも、人並みに自信がない分野があるんだな」

「あるわよ、そりゃ。あたしは小平出のアンタみたいに英語の専門家じゃないし。……で、頼める?」

「ああ、これくらいなら構わない。俺の勉強にもなるしな」

「ありがと。そのうち何かで返すわ」

 雪緒はメガネの奥のクールな眼差しを保ってそう言うと、息をついてリップクリームを塗った。むさ苦しい俺の班ではあり得ない光景に、不覚にも胸が高鳴ってしまう。

 俺は預かった資料を作業服の足ポケットに押し込むと、照れを隠すように勢いよく手を合わせる。

「が、合掌! ごちそうさまでした!」

「ごちそうさまでした」

 俺と雪緒は席を立ち、暗い濃緑――自衛隊でオリーブドラブODと呼ばれる色――の背中が連なる下膳げぜんの列に並ぶ。

 ……断言してもいいが、いまどき迷彩作業服が配備されていないのは、陸自広しと言えどもこの『武山高』の生徒隊だけだ。武山駐屯地には陸海空の各部隊が混在しているため、武山高校に通う『自衛隊生徒』を容易に識別するためにODの六五式作業服がいまだに使われている――というのが建前だが、実際は予算不足が原因である。とは言うものの、この古めかしい無地のOD作業服はエンジ色の制服用ネクタイとともに、やはり俺達のアイデンティティの象徴でもあった。

「じゃ、お先。さっきのヨロシク」

 食堂を出た雪緒は作業帽をかぶり、俺に軽く敬礼して午後の職務――自衛隊用語で言うところの『課業』――へと軽快に走っていった。二年の中で断トツの成績を誇るあいつは、医官――昔で言う軍医を養成する防衛医大を狙っていると聞いたことがある。確かに難関ではあるが、あいつなら防衛医大どころか理系最高峰の東大理科Ⅲ類ですら余裕で受かるだろう。

 雪緒のフルネームは、山口やまぐち雪緒ゆきおという。男のような名前を本人は気にしているが、慣れてしまえばどうということはない。ちなみに職種は医療を司る衛生科、区隊は第二教育隊第五区隊。俺と同じ二年生で、階級は一等陸士だ。

 自衛官としての専門分野を示す『職種』も一般高校のクラスに相当する『区隊』も違う彼女との出会いは、今年度の日米共同方面隊指揮所演習ヤマサクラ――通称YSでのことだった。演習場に向かうヘリで隣り合わせた彼女の名前を俺はよく知っていたが、実際に話してみた教育隊がくねんの有名人は多少はすっぱな物言いの変わり者だった。だが演習場でドジこいて負傷した俺を上に報告せず手当てしてくれたあたり、悪い奴ではない。その件で雪緒には、いまだに借りイチである。

 今年のYSに参加した武山高の二年生は、俺と雪緒だけだ。雪緒は学年首席の衛生要員として、旧軍の歩兵にあたる『普通科』の俺は通訳要員としての参加だ。全校生徒の中で上級英語課程を履修済みだったのが俺だけだったことから、白羽の矢が立ったらしい。

 適性があるのか、俺は英語だけに関して言えば成績がいい。区隊長に勧められるまま上級英語課程に志願してみたところ、運良く合格し小平学校で英語を五ヶ月間学ぶ機会に恵まれた。その代償として一学期と夏休みが潰れたが、見込み点で赤点は回避できたのでよしとしよう。

 英語漬けの小平学校から戻ってばかりのころは運動不足で、正直訓練についていくのも辛かった。だがそのお陰で同期に先駆けて隊内の資格である『特技モス』を取れたのだから、結果オーライだと考えている。

 将来的に幹部になるにしても、重要なのは防大後に入校する陸上自衛隊幹部候補生学校まえがわらでの成績だ。実は武山高や防衛大学校の成績は、幹部候補生学校に進むと一度リセットされる仕組みになっている。

 准尉や陸曹で自衛官生活を終えるなら話は別だが、防大を経て幹部を目指す俺のような生徒にとって武山高での成績はそう重要ではない。そもそも武山高は下士官に当たる陸曹の養成を目的とする日本唯一の『防衛科』高校だが、防大・防衛医大への進学率も高く、ある意味では進学校に近い雰囲気があった。

「――と。雪か」

 目前を舞う雪に、ふと天を仰ぐ。毎年暖冬の横須賀には珍しく、灰色の空から大粒の湿った雪が降り始めていた。この分だと夕方にはグラウンドがドロドロになっているだろうから、今夜の靴磨きは気合いを入れなきゃな。

 今日は土曜日、午後の課業は全校的に職種訓練だ。普段の普通科は歩兵としての戦闘訓練などを行うが、今日の普通科二年は午後の前半に、第一教場で『戦術基礎』を受講することになっている。原則的に自衛隊は週休二日だが、武山高は防衛科高校という特殊な形態を取っているため、例外的に週六日フルタイムで課業が入っているのだ。

 確かにきついことはきついが、衣食住給料つきの身分で贅沢は言えない。俺は課業の前に身の回りのものを買っておくため、駐屯地の南売店PXに足を伸ばした。


         ▼


 教場での受講を終えた後、課業終了までは体育が待っていた。同じ班の倉木くらきは戦術基礎の間も区隊長にシバかれていたが、今度は助教の児玉こだま班長に目をつけられたようだ。どうやら今日は『倉木デー』の申し送りがなされているらしい。哀れな奴である。

「いい? わたしたちは心を鬼にして、あなたたちが有事の時に心おきなく出られることを着眼にいつも指導しているの。ほら、背中を見せなさい倉木一士! プレスアイロンの不備、半長靴の汚れ、目の輝き、姿勢! 最近のあなたは生活態度が悪いわよ! 指摘事項四点、連帯責任で班員全員腕立て用ー意ッ!!」

 体育前、準備体操の時間。『しつけ教育』の名の下にいちゃもんをつけ、今日も今日とて我が第一区隊第三営内班の助教、児玉こだま紫苑しおん三等陸曹の罵声が飛ぶ。もともとはカトリック系のお嬢様学校に通っていたのだが、何をトチ狂ったか高校新卒で自衛隊に入隊した人である。

 指摘事項四点だとたったの六十回だから、いつもに比べたら甘い甘い。なんせ児玉班長は『ビンタの女王様』の異名を取る体罰助教で、空挺き章・レンジャーき章・そして体力き章さかさベンツの三冠王だ。二ケタの腕立てごとき、彼女の流儀ではシゴキのうちにも入らない。『お疲れさまです』の挨拶と同じようなものだ。

 両手を八の字に揃え、背筋をまっすぐにして自衛隊式腕立ての姿勢を取る。地面に降り積もった雪が手の平を刺し、みるみるうちにかじかんでいく。これは後でちゃんと拭かないと、霜焼けになるな。

 自衛隊に入ると、人格を根底から覆すほどの様々な教育が行われる。礼儀作法は言うに及ばず、風呂場の脱衣所で服を畳むことから徹底指導されるし、整理整頓の習慣はしつけ教育でビシバシ仕込まれる。掃除だって、窓のサッシに少しでもホコリが残っていたらやり直しだ。教育部隊におけるこの厳しさこそ、自衛隊が『日本教育最後の砦』と呼ばれる理由なのだ。

「はい1! 2! 3!……」

 児玉班長の掛け声を復唱しながら、顎が地面につくまで体を落とす。さすがに今はどうということはないが、入学したての頃はこの腕立てがきつくて仕方がなかった。

 腕立て伏せを実施するたび、雪混じりの泥があごにつく。PXで流れていた天気予報によると、東京の降雪量は横須賀の比ではないらしかった。


「気をつけェ! 控えー、つつッ! 駆け足ー、進めッ! ……連続歩調ー、数えッ!!」

「1!」『そーれ!』「2!」『そーれ!』

「3!」『そーれ!』「4!」『そーれ!』

「1! 1! 1・2!」『そーれ!』

「1! 1! 1・2!」『そーれ!』

「1・2・1・2!」『1・2・1・2!』

「1・2・3・4・1・2・3・4!!」

『1・2・3・4・1・2・3・4!!』

 肩に食い込む背嚢はいのうの重さに歯を食いしばりつつ、区隊は六四ろくよん式小銃を『控えつつ』で身体の前に掲げ、ランニング……いわゆるハイポートを始める。旗手の前を走る先導助教は、いつもの通り区隊の助教で一番若い児玉班長だ。

 あたかも足跡を刻みつけんがばかりに、揃った歩調が規則的にグラウンドを叩く。雪の降った足場はドロドロで、ただ走っているだけでも転びそうだった。

 銃身の後端を握る左手が、どぎつい臭いの防錆潤滑油ガンオイルで滑る。前の分解結合ブンケツのときに油をつけすぎたようだ。……それにしてもこの重み。ハイポートの最中だけは、さすがの愛銃も鉄クズに思えてくる。

 六四式小銃の『六四』とは、一九六四年に制式採用された装備品であることを示す。半世紀以上前の骨董品で部品はよく脱落するし、米軍の現行NATO弾も口径が違うので使えない。さっさとうちも、主力装備の八九式小銃に更新して欲しいものだ。武器も被服も自衛隊の標準から著しく遅れているのは、単純に予算が足りていないかららしい。

 六四式は7・62ミリ弾、八九式は5・56ミリ弾を使う。当然口径が大きい六四式の方が殺傷力は高いが、その反面で反動が強く操作性も悪い。また、弾丸が大きくなることから必然的に装弾数も少なくなる。実戦では敵を射殺するよりもあえて負傷させたほうが敵の戦闘可能人員を減らせることもあり、現在は小口径化が世界的な潮流になっている。それは日本の自衛隊も同様だ。

「さあキリキリ走れ貴様ら、自衛隊は落ちこぼれを作らん!」

 しんがりに付く区隊長の鈴木すずき峰夫みねお二等陸尉が、ペースを落とし始めた俺達の後ろから怒声を浴びせる。

 区隊長は小平の上級英語課程を出ており、英語畑では俺の大先輩に当たる。年の頃は三十代後半、陸曹上がりの部内幹部だ。英語の教員免許も持っているらしく、高校課程に当たる『一般教育』の英語教官も兼務している。南スーダンで親父と同じ小隊にいた関係で入学前から面識があったが、入学してからは他の生徒と変わることなく俺に接してくれていた。

「腕をしっかり挙げろ! ……オモチャの八九式に命は預けられない。黒光りする鋼鉄の六四式こそが、我が国を守護してきたのだ! 隊員への試練として、六四式は自らを重く作られた! 演習や戦闘訓練に脱落防止ビニールテープが必須なほど部品が多いのも、物品愛護の精神を養うためだ!!」

 区隊長は独身のリビドーを発散させるかのごとく、俺達を今日も容赦なくシバきあげていた。

 訓練が厳しいのは前からだったが、最近の厳しさは取り立てて酷かった。考えてみれば無理もない。東京では左翼の共産党系と噂されるテロ組織『中核自衛隊ちゅうかくじえいたい』のテロが激しさを増しており、警察の治安維持能力はもはや限界に達しているとさえ言われている。首相がいつでも発令できるよう、既に治安出動命令は閣議と国家安全保障会議で事前承認されていた。

 俺達武山高の自衛隊生徒は、高校生である前に正規の自衛官だ。いつ治安出動がかかっても不思議ではない昨今の情勢下、限界まで身体を鍛えておく理由は充分にあった。

 高校生としての午前の授業をこなしたあとでの訓練。日本初、そして唯一の防衛科高校として設立された武山高校は、一般高校に比べ特例で通常学科いっぱんきょういくの授業時間数が少ない。だがその代わり週休一日制のカリキュラムに自衛隊関係の座学や訓練がみっちり入っており、その苛酷さは一般高校とは比べるべくもない。

 と、しばらく走っていると郷愁きょうしゅうを含んだ音色で国旗降下の『君が代』のラッパが鳴った。基本的に陸自で国旗を掲揚するのは平日のみだが、武山高のみ土曜に課業があるため土曜にも国旗が掲げられている。

 時刻は一七〇〇ひとななまるまる――国旗降下と課業終了の時間だ。隊内では通信の際などに時刻の聞き間違えがないよう、まるひとなどと特殊な言葉を使って時刻を二十四時間制で表現している。

「早足ー、進めッ! 小隊ー、止まれッ! 半ば左向けェ、左ッ! 立ーてー、つつ! ……捧げェ、つつ!!」

 児玉班長の号令に従い、区隊は国旗に向かい捧げ銃の敬礼を実施する。左手の握力だけで垂直に小銃を支えるこの姿勢は、見た目以上に辛いものがある。

 グラウンド南端に立つ国旗掲揚塔から、スルスルと日の丸が下ろされ始める。国旗掲揚と降下の瞬間は、全ての自衛官にとって厳粛な一時だ。たとえ国旗が見えなくても掲揚塔の方向に正対し、その場で不動の姿勢をとる。そしてこの瞬間、誰もが今日という一日をつつがなく過ごせたことに感謝する。

 兵隊の仕事の大半は、訓練と待機と言われる。俺達自衛官の務めは、ギリギリまで抜くことのない刀を『鞘の内』の精神で秋水しゅうすいのごとく研ぎ澄ますことにある。

 三島由紀夫の言葉を引くなら、国体を守るのが軍隊の役目で、政体を守るのが警察の任務だ。『事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に努める』。俺達は、自衛官に任官するときそう誓った。つまりそれは、自分の持てる力の全てを国家と国体のために捧げるということ。自らを育んできた共同体セカイのために尽くすということ。それが、俺達の生き方なのだ。

 ――と、国旗降下が完了しメロディーが課業終了に移ったその時だった。


 !!


 空襲警報を思わせる非常用サイレンが、校庭に向けられたスピーカーからラッパを遮りこだまする。それに続き、放送部に所属している雪緒の冷静な声が響いた。

「武山高放送部より、『実状況』を通達する。屋上ヘリポートより、佐藤さとう校長臨場。政府より治安出動が発令された模様。生徒は各個に戦闘装着セットを装備、六四式小銃に実弾を装填して速やかにグラウンドに整列のこと。これは訓練ではない。実状況である。繰り返す……」

 な……ち、治安出動!? 実弾だって!?

 俺が放送の意味を理解した次の瞬間には、区隊の全員が生徒舎に猛ダッシュしていた。俺も小銃左側面に通されたOD色の吊りベルトを肩にかけ、負けじとそれに続く。

 三班の居室に転がり込んだ俺は作業帽と訓練用背嚢を脱ぎ捨て、中帽ライナーの上から鉄帽テッパチをかぶる。そして水筒やら弾嚢だんのうやらの装具一式を装着するとパッキング済みの戦闘背嚢を背負い、六四式小銃を再び手にした。

 生徒舎の外には、早くもローターの爆音が轟いている。見ると、離れた一号舎の屋上ヘリポートに我が陸上自衛隊の輸送用ヘリが着陸しているところだった。

 あれは……間違いない。学校で臨場朝礼が行われる日、校長は必ずあれに――校長専用のCH47Jチヌークに乗ってやってくる。

石馬いしま一士、急ぎなさい! 遅れるわよ!」

「は……はい!」

 廊下から児玉班長に急かされ、慌てて居室を後にする。階段を下りると、生徒舎一階の武器庫で他の区隊が武器を搬出しているところだった。

「搬出物品、六四式7・62ミリ小銃! 同、弾倉! 同、弱装弾! 同、銃剣! 搬出用意!」「搬出用意!!」

「搬出!」「搬出!!」

「安全装置よし!」「よし!」

「レールを踏むなァ、土が入る! 武器係の確認を受けた者から、慌てず騒がず整斉せいせいと整列ッ!」

 普段は武器庫ではない別の場所に『実弾』が保管されているが、治安出動が現実味を増してからは各武器庫に実弾が配備されるようになっていた。通常の取り扱いとは明らかに違う。防護マスクや小銃本体と同じ扱いである。

 俺達の区隊からは、各班の部屋長が代表して弾倉と実弾を受領に向かっている。ちなみに今月の三班の部屋長は倉木だ。今日はあいつの厄日に違いない。

 区隊を普通の高校のクラスとするなら、区隊長が担任、そして俺が今日勤務についている取締とりしまりが日直に当たる。自衛隊の教育隊では数十名規模の小隊を区隊と呼ぶのだが、武山高の場合は各学年の普通科生五十名が第一区隊で、十名ずつの五個班を構成している。あとは機甲科と施設科が第二区隊に、高射特科と野戦特科が第三区隊に、その他の後方支援を司る警務科以外の十職種が第四・第五区隊に所属している。

 一学年の五区隊計二百五十名が一つの教育隊となり、その教育隊の番号がそのまま学年を表す。従って普通科二年の我が区隊は第二教育隊第一区隊、シャバ風に言えば二年一組となる。ちなみに衛生科の雪緒は、第二教育隊第五区隊の所属だ。会計・音楽・情報・化学などの職種が第五区隊に所属する。

 ……スライドの槓桿こうかんを後ろに引きながら右横のスライド止めを押し、弾薬の装填に備えてスライドを開放しておく。しばらく待っていると倉木が息を切らし、生徒舎から十名分の弾倉三十本と弱装弾六百発を運んできた。

 赤銅色の弾頭と金色の薬莢やっきょうからなる弱装弾を受け取り、口で数えつつダブルカラムの弾倉に急いで弾を詰め終える。三本の弾倉のうち二本を腰の弾嚢に入れると、最後の一本を鉄帽にコンコンと叩きつけて弾丸の尻を合わせ、小銃に叩き込んだ。

 仕上げに安全装置を確かめ、スライドを戻して薬室に弱装弾の実弾を送り込む。これで安全装置さえ外せば、いつでも発砲できる状態になった。来たるべき実戦の予感に、俺は背徳的な昂揚こうようを感じた。

 射撃訓練で何度もやった手順だ。何も考えずとも体は動いたが、治安出動と告げられた今回は一動作ごとの重みが明らかに異なっていた。ひょっとするとこれと同じ動作を、南スーダンで親父もやったのだろうか。

 鈴木区隊長があの日教えてくれた真実は、俺の価値観を決定的に変えた。事故死ではなく戦死。――それはつまり、軍人としての義務のうちに親父が命を投げ打ったということだ。そして俺は、『戦死』という言葉が持つ精緻せいちな美しさに強く憧れた。

 俺達は戦争のプロフェッショナルだ。である以上、その全ての動作、全ての在り方は強く美しくなければならない。それが命のやりとりを生業とする者の素養であり、礼儀であり、当然の義務だ。

 俺は不完全な生き様を嫌う。無様で惰弱だじゃくな精神を呪う。自衛官として軍人として、美しく生きること――ただそれだけが、俺の望みなのである。


 朝礼台の前に生徒隊総員七百五十名が銃を地面に立てて整列するころには、すでに朝礼台の上で校長が校庭を見下ろしていた。

 ――佐藤さとう優理也ゆりや校長。『防衛省の女帝』の二つ名を取る、防衛大臣である。実務は副校長に任せながら、月曜日だけの非常勤で我が武山高の校長も兼務している。主に部外の大卒者から採用される陸自の一般幹部候補生出身者――いわゆる『U幹部』――で、自衛隊南スーダン派遣にも従事歴がある。政界入り後はその美貌と異色の経歴から国民的人気も高く、『民族社会主義日本労働者党』――通称『民社党』という保守政党の総統を務めていた。

 白いボタ雪が、校長自身が制定した防衛大臣の制服に積もる。だが校長はそれを意に介した風も見せず、凛々しい面持ちで朝礼台に佇立ちょりつしていた。スカートを好まない彼女は、いつもズボン型の制服を身にしていた。

 政治家である彼女は文民シビリアンに含まれるのだが、陸自に準ずる濃紺色の制服には自衛官時代の防衛記念章――諸外国で言う勲章の略綬りゃくじゅ――がいくつかぶら下がっている。

 古風なショートカットに、トレードマークの黒い革手袋。三十代半ばほどのはずだが、そんな年齢を感じさせないほど佐藤校長は若々しく、そして美しかった。

 防衛族議員として武山高の設立を主導した関係で、佐藤校長は防衛大臣政務官に就任したときから一貫して非常勤の校長を務めてきた。現在の校是は『明朗に、闊達かったつに、ほとばしる熱き青春を国防に捧げる』。聞くからに暑苦しいが生徒の間にそういう風潮があるのは事実で、ある意味でこの学校は自衛隊原理主義者の巣窟そうくつだった。

「区隊ごとに点呼ォ!」

 朝礼台の下に控える定年退官まぎわの副校長の命令一下、各区隊が点呼を開始する。各班の人員・健康状態はあらかじめ部屋長連中に聞いて掌握――自衛隊用語で『把握』あるいは『確保』の意――済みだ。

 我が区隊は普通科三年の後ろで、五列縦隊になっている。取締勤務の俺は最前列最右翼の列外に歩み出て、区隊長の臨場を待った。

 と、鈴木区隊長が右肩の後ろに小銃を吊って俺達の前に走ってくる。俺は区隊に「気をつけ!」を号令し、正面に立った区隊長に向けて区隊の点呼報告を実施した。

「取締列中れっちゅう、旗手前へッ!」

 点呼を終えた俺に列中れっちゅうに戻るよう命じ、区隊長は教育隊長のところに点呼報告のため走っていく。俺は三班の列中に戻ると『休め』のために左足を開き、銃の床尾しょうび部を地面につけると銃口付近の剣止めを右手で前に倒した。

 それにしても、佐藤校長直々に臨場とは。雪緒が放送した治安出動という情報は、どうやら事実らしい。慌ただしくてテレビを見るヒマもなかったが、ひょっとしたら何か事件でも起こったのだろうか? そんなことを考えていると区隊長が俺達の前に戻り、床尾をグラウンドに突き立てると俺達と同じ方向で休めの姿勢を取った。

「基幹要員、現在員百四十二名! 生徒隊、現在員七百四十五名! 集合終わり!」

 三つある教育隊と基幹要員――教育を担任する幹部と陸曹――の点呼が終わり、副校長が佐藤校長に略式で現在員を報告する。報告を終えた副校長は、大声で全部隊に敬礼を命じた。手袋を外した佐藤校長は左右に返礼すると、まっすぐ正面を見すえて手を下ろした。

「直れ!」

 敬礼を解いた区隊長の命令に従い、俺は注目の姿勢から視線を真正面に戻す。佐藤校長は休めの姿勢を取ると、朝礼台のマイクに向かって短く告げた。

「休ませ」

整列せいれーつ休めッ!!」

 副校長の号令に従い、今度は『休め』より敬意の高い『整列休め』の姿勢に移って校長に注目する。校長はマイクの先をコンコンと叩くと、胸を張って言葉を放った。

「皆さん、明日は休養日だというのにご苦労様です。つい一時間ほど前、中核自衛隊のテロによって首相および副総理が暗殺されました。中自からは犯行声明も出ています。ここに来る際に横浜港上空を通りましたが、ベイブリッジも爆発物で落とされていました。代々木の共産党は関与を否定していますが、現段階での最重要敵性勢力です」

 な……なんだって、首相と副総理が暗殺……? じゃあ、この国の今の最高指導者は……

 ざわめきこそ出なかったものの、全員の心中に動揺が走ったことは間違いなかった。

「内閣総理大臣臨時代理予定者の名簿順位に従い、第二順位である私が首相代理に就任しました。そして私は首相代理および防衛大臣として、既に陸上総隊直轄部隊および東部方面隊に治安出動を下命しました。皆さんには現在時をもって、陸上総隊と共に私の直轄部隊として行動してもらいます。目的は都心部への治安出動――すなわち事実上の戒厳令です」

 治安出動……前々から言われていたことだが、やはり事実だったか……。そういえば、今日の日付は二月二十六日だ。たとえ冗談にしても狙いすぎだった。

「我が臨時内閣は、治安出動と同時に憲法の改正を発議することを決定しました。……今まで自衛隊の名誉は、憲法九条という最低の欺瞞のもとに踏みにじられてきました。私達は、守るべき国家から無視され続けてきたのです。ですが私達は憲法の私生児としてではなく、名誉ある守護者として存在することを願っています。皆さんも、その信念に曇りはないと思います」

 現在の内閣を構成する連立与党は、衆院第一党の自民党と校長の率いる民社党だ。自衛隊員に支持者の多い民社党は防衛大臣のポストを押さえており、弱腰の自民党に圧力を掛ける形で憲法改正を訴え続けていた。そして戦後初の治安出動が成り校長が首相代理に就いた今、時局の針は大きく民社党に振れた。世論を納得させるには、既成事実が最も効果的だ。校長の言うとおり、あの厚顔無恥な憲法を改正する千載一遇のチャンスが訪れたのだ。

 昭和二十五年に警察予備隊が発足して以来、自衛隊は創設期の苦難と厳しい世論に耐えてここまでやってきた。だが、いつまでも憲法九条のもと『自衛隊』という枠組みを維持する必要はない。なにしろ現状のままでは、北に国民をさらわれても奪還すらできないのだ。緊迫する北東アジア情勢の中、日本の将来が自衛隊の国軍化を必要としている。――少なくとも、俺はそう考えている。

 校長は両手を大きく広げ、声を大にして訓示を続けた。

「我が自衛隊最大の敵は何でしょうか。周辺国でしょうか、それとも中自でしょうか? いいえ、どちらも違います。私達の最大の敵は、憲法九条そのものです。あの敗戦国憲法が存在し続ける限り、自衛隊では政治的判断が全ての軍事的常識に優先します。私は……そして我が臨時内閣は、日本国憲法九条を抜本的に改正することを皆さんに誓います」

 聞く者を惹きつける、確信と信念に満ちた演説。……この演説力で、彼女は今の地位を手に入れてきたのだ。

「私達の中には、熱き武士もののふの血が流れています。その誇りを取り戻すのです。今こそ建軍の大義を明らかにし、自衛隊の名誉を回復すべきときが来ました。私達の祖国を真の姿に立ち返らせるため、私達は総力を結集してことに当たらねばなりません。私は皆さんを、誇り高き若鷲わかわしたちと信じています。自らの義務に忠実たるべく、努めて凜烈りんれつの気を呼吸なさい。――以上」

 校長はマイクのスイッチを切ると、足元の副校長に小声で何かを命ずる。副校長は一つ頷くと、事態がよく分からないという表情で回れ右をした。

「第二教育隊の第一区隊長・鈴木峰夫! 校長がお呼びだ! 速やかに来い!!」

「はい! 鈴木二尉、参ります!」

 鈴木区隊長は大声で叫ぶと小銃を控え持ち、朝礼台へと駆けていった。

 ……驚いた。どうやらあの『噂』は本当だったようだ。

 鈴木区隊長は佐藤校長と個人的な繋がりがあり、ヘッドハンティングされて武山高に着任したという話だった。今の今まで半信半疑だったが、こうして現場を見せられては疑いようもない。

 朝礼台に腰掛けた校長と区隊長は向き合って何事かを相談していたが、ここからでは何を話しているかまったく聞き取ることができなかった――

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