DAY.13-茶道Side:「本当にただのお隣さんなんだよね?」
深夜のゴミ捨てを終え、自分の部屋に戻る。今日の夜風は一段と冷たく、身に染みた。
今日の勉強ノルマはとっくに達成している。シャワーは浴びた。歯も磨いた。あとは寝るだけだ。
俺は自分のベッドを見下ろす。数日前、ここで沙也さんと一緒に寝たのだ。シーツを撫でると、身体の冷えが伝わってしまったかのようにひんやりとしていた。
部屋を見回す。うちってこんなに広かったっけ。
「……」
メッセージアプリを起動し、「合倉沙也」のトークルームを開く。
『今日も帰れそうにないから、先に寝ていてください』
ため息をつき、スマホをベッドに放り投げる。
この一時間で、三回は同じ動作を繰り返している。
沙也さんは昨日に引き続き、今日も会社に泊まり込みらしい。
なんでも、以前から炎上気味だった案件がとうとう大爆発を起こしたそうだ。トラブルを起こしたのは沙也さんではなくその後輩なのだが、もはや当人では収集がつかないレベルに達しているという。決定的にやらかしたというより、積み重なった不信感が噴出したという表現が正確のようだ。俺の頭には安いドラマのように、ブラウンスーツを着た取引先の初老サラリーマンに頭を下げる沙也さんの姿が浮かんだ。
『わかりました。お忙しいとは思いますが、せめて少しは休んでくださいね』
『ありがと。茶道くんも勉強のしすぎには気をつけてね。おやすみ』
『おやすみなさい』
俺にもう少し語彙力があれば、多少は気の利いた返信を打てたのに。
沙也さんがろくに睡眠をとれない状況であることは容易に想像がついたので、「しっかり寝てください」とは伝えなかった。会議室あるいはカプセルホテルあたりで仮眠をとっているのか。せめて身体を横にして、少しでも脳に休息を与えられる環境であれば良いのだが。
「……寝るか」
ベッドに潜り、天井の紐を引っ張る。豆電球を点けるのも久しぶりだ。
隣に誰もいないという事実を直視したくなくて、俺はもう一度紐を下に引いた。数週間前までは豆電球を点ける派だったのに、すっかり暗闇に慣れてしまった。誰の影響かは言うまでもない。
沙也さんがいないからといって、俺まで眠れなくなったということはない。就寝体勢に入ってから三十分以内には眠りにつくし、翌朝の起床時間もまったく同じ。沙也さんと出会うまでは、ベッドに潜ってから一時間以上寝付けない日もざらにあったことを思えば、ずいぶん寝つきも良くなった。
それなのに、どこか満たされない。心にぽっかり穴があいてしまったようで、代わりに空しさが埋め込まれている。失恋をしたわけでもないのに。
俺の中で、すっかり沙也さんは大きな存在になってしまったらしい。
あくまで俺はブラウンの代用品で、もうすぐベッドフレンドの関係も終わるのに。
いや、実際のところ楽観視していた。ブラウンが帰ってきても、この生活は続くのではないかと。「ブラウンも好きだけど、これからもサドーくんと一緒に寝たいな」なんて照れながら言ってくれるのではないかと。
冷静に考えれば、そんなはずがなかった。彼女は社会人で、俺は高校生。お互い安定したライフスタイルではないし、そもそも俺が大学に受かったら、どのみちこのアパートを離れることになる。先が長いか短いかの違いで、いずれ抱き枕生活は終わるのだ。どんなに親しい人とだって、いずれ別々の道を歩まなければならない。そんな当たり前の結論にたどり着き、ゾッとする。
俺は不安を振り払うように、脳内で古文の活用を詠唱した。
☆ ☆ ☆
「トコッチ、聞いてた?」
翌日の夜、『FUN・key』の受付。目の前にチヅの顔があった。眉間のしわを限界まで寄せている。
「悪い、何ひとつ聞いてなかった」
「もー! 明日土曜日じゃん。新人ちゃんの歓迎会も兼ねてどこか遊びに行こうって話! トコッチの受験勉強の息抜きも兼ねてさ」
準夜勤シフトの真っ最中だった。店内にいるスタッフは俺とチヅの二人。一時になったら交代の予定だ。
「女同士で行った方が楽しいんじゃないか? あの子、内気っぽいし」
「だからこそでしょ。お客さんは年上と異性ばかりって考えたら、せめて今のうちから同世代には慣れないといけないし、第一ステップとしてトコッチが最適なんだって」
「俺は人畜無害代表かよ」
「草食系っていうか、むしろ草? 見た目は割とワイルド系なのにね、ヒヒヒ」
出かけること自体はやぶさかでない。ここ数日、沙也さんのことを考えないように勉強に力を注ぎすぎて、土曜日にやる予定だった範囲を半分以上終わらせてしまったのだ。さすがに今夜は沙也さんも帰ってくるだろうし、明日は午前中ゆっくり添い寝して、午後から歓迎会というのも悪くない過ごし方かもしれない。
現在時刻は深夜の零時過ぎ。沙也さんはそろそろ電車に乗った頃だろうか。
何気なくスマホを取り出すと、ちょうどメッセージが届いたらしく画面が点灯した。
液晶には沙也さんの名前と、一文目の「ごめんなさい」という言葉。俺はあやうくスマホを落としかけたが、持ち直して人差し指で表面をスワイプする。
『ごめんなさい。今日もダメそう。たぶん日曜日の夜には帰れると思うから、一緒に夜ごはん食べられたら嬉しいな』
今日どころか、明日も外泊する前提の文面だった。俺はデスマーチを舐めきっていたらしい。
「……」
不思議と俺の心は落ち着いていた。何をすべきなのかが手に取るようにわかった。
「……で、スイパラかラウワンあたりがいいかなーって思うんだけど、どう?」
財布に入っている紙幣の枚数を思い出す。大丈夫、足りる。年齢的にも問題はないはずだ。ひとつ問題として立ちふさがるのは、俺はアルバイト真っ最中だということ。
「おーい、トコッチ?」
「悪い、何ひとつ聞いてなかった」
「だから聞けって! あと会話の使い回しするなし!」
「ついでにもう二個謝らなきゃいけないことがある」
「アタシ優しーから、殴る前に一応訊いてあげるわ」
「まずひとつ、明日の歓迎会は不参加になりそうだ、すまん」
「……理由は、トコッチが握りしめてるスマホと関係ある?」
俺は黙ってうなずく。
「で、もう一個の訳は?」
「俺はどうやら発熱したらしい。この密集空間でチヅやお客さんに移さないためにも、今すぐ早退する必要がある」
俺は一切のよどみなく、流暢に仮病を申し出た。
「たぶん全然関係ないけどさ、アタシも一個質問いい?」
「ああ」
「沙也サンとはどういう関係なの?」
チヅは真っ直ぐに俺の目を見つめている。からかいや嘲笑ではなく、疑問というより確認に近い声音だった。
「……ただの隣人だよ」
俺は嘘偽りなく答えた。
「ただのお隣さんのために、どうしてそこまでするの?」
きっとチヅは悟っている。俺が沙也さんのもとへ向かおうとしていることを。
たかが睡眠。そうかもしれない。俺にとっても寝ることは、生活の優先順位で高いものでは決してない。また、ありがたみを感じるものでもなかった。習慣であり、本能であり、義務であり、寝ることに対して特別な想いは一切ない。それぐらい当たり前で、生活に根付いたもの。
だからこそ沙也さんに出会ってから、俺は睡眠の大切さを知ることができた。寝るためだけに赤の他人である俺に声をかけてきた沙也さんに、はじめは困惑した。だが毎日幸せそうに、ベッドで一日を終える彼女を眺めていくうちに、俺は恋をしてしまったのだ。
沙也さんと一緒に寝ることが。沙也さんと一緒にいることが。沙也さんが。
「ただの隣人のままじゃ嫌だから、俺はあの人の力になりたいんだ」
だから行かなきゃいけない。いや、行きたい。
「……はー、全然ダメだね」
チヅは後頭部を掻いて、大げさにため息をついた。
「会話のキャッチボールは成立しないし、そもそもこっちの話もろくに聞いてないし。こりゃ今すぐ早退しないと。明日は一日ゆっくり寝た方がいいだろうね。せっかくだから、沙也サンと一緒に寝たら?」
「最初からそのつもりだ」
「……えっと、本当にただのお隣さんなんだよね?」
「今のところな」
俺は急いでバックルームからカバンを取ってくる。駅まで走れば終電には間に合うだろう。
「すまん。チヅには迷惑かけてばかりだな」
「いーよ。だってアタシたち、友達でしょ?」
チヅはヒヒヒ、と白い歯を見せた。
「じゃ、行ってくる」
「またのご来店お待ちしてマース」
エレベーターを待ちきれなくて、階段を二段飛ばしで駆け降りる。一秒でも早く沙也さんに会いたい。
俺はビルを飛び出した。
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