DAY.12:「私もキミと」
『……お仕事おつかれさま』
俺は、自分の顔を沙也さんの耳元に近づける。一瞬、ぴくっと反応があったが、気づかないフリをしてセリフをしゃべる。
『今日も帰り遅かったね。夜ご飯はちゃんと食べた?』
「……コンビニのおにぎり食べたー」
ささやくような声量で沙也さんがレスをする。しかし俺は彼女の返事はスルーしなければならない。これはあくまでもシチュエーションボイスなのだから。
『自分の案件だけでも忙しいのに、後輩のフォローもしなきゃいけないから大変だよね』
今までの沙也さんとの会話の記憶を辿り、即興で台本を紡いでいく。
『そうだ、今度の休みは久しぶりに遠出しようか? 温泉入ったり、アウトレットモールで買い物したりして、ゆっくり過ごそうよ』
口に出してから、沙也さんにそんなアクティビティはないことを思い出す。
『それとも、家でゆっくりする方がいいかな』
「おうちがいいー」
やっぱりか。
『午前中はゆっくりゴロゴロして、一緒にお昼ごはん作ろうよ。午後はテレビで映画でも観ようか? 夕食は早めにして、お酒も飲もう』
「のむー」
普段俺と接する時とは明らかに異なる、独り言に近いまどろんだ声。世の中のシチュボリスナーは夜な夜なこんな風に楽しんでいるのだろうか。
今のところ、恋人というよりいつもの俺と沙也さんの会話だ。カップルらしさってどうやって演出すればいいんだ?
少し悩んだ後、踏み込んでみることにした。
『今夜は早めにベッドに入って、久しぶりにイチャイチャしたいな』
脳がむず痒い。大丈夫だよな? 恋人同士だからセーフだよな? 直接的なフレーズも言ってないし。沙也さんに引かれないか、不安と後悔が脳裏を駆け巡る。
「……私も」
「え?」
「私もキミと、色んなことしたい、です」
頭が真っ白になる。
今の言葉は、あくまでそういう設定だよな?
『お、俺も、キミと一緒にいる時間が好きだよ』
「いつもキミが待っていてくれるから、私は頑張れるの。キミも忙しいのに、毎日一緒に寝てくれてありがとう。おいしいごはんを作ってくれてありがとう。帰りが遅いと迎えに来てくれてありがとう。私も……キミが大好き」
触れていないのに、今までで一番近くに感じる。
抱き着いていないのに、鼓動の速さが伝わってしまいそうだ。
あと一歩で、何かが決定的に変わる気がした。
俺は。
俺も、沙也さんのことが。
「……ぐぅ」
「ん?」
沙也さんの瞼はぴっちりと閉じていた。胸が規則的に上下し、かすかに開いた口からは息が漏れている。いつも通り、良い寝つきだった。
このままやり取りが続いていたら、俺たちの関係はどうなっていたのだろう。
布団を沙也さんの肩まで掛け直し、安らかな寝顔を眺める。
ぬいぐるみが返送されるまであと数日。
この添い寝生活も、もうすぐ終わる。
やり残したことはないか。
言いそびれたことはないか。
違う。
根本的に考えが間違っている。
俺はこれからも、この生活を続けたい。
俺は、沙也さんのことが好きだ。
☆ ☆ ☆
「おはよぉ~……」
翌朝、沙也さんは目を閉じたままベッドから身体を起こし、ぽりぽりと頭を掻く。
「自発的に起きるなんて珍しいですね」
「今日は特に寝覚めがいいかも~」
「むにゃむにゃと言われたところで説得力ゼロですが」
とはいえ確かに、目覚めてから起き上がるまでの時間がいつもより短い。
「ASMRのおかげかなぁ」
昨晩のやり取りを思い出し、顔から火が噴き出そうになる。あの時は役に専念していたからなんとか羞恥を抑え込めたが、夜が明けると正気に戻ってしまう。
「……」
「沙也さん?」
俺をじっと見て、何かを決意したように口を開く。
「もしよかったら、また今日もお願いしていい? ……昨日の、続き」
「続き、ですか」
「そう、続きから」
「……わかりました」
「うん、じゃあ今日も一日頑張ろうね」
沙也さんがにこりと笑う。
俺もベッドから降りる。
一緒に朝ごはんを食べて、少し談笑してから別れた。
その日から、沙也さんは部屋に帰ってこなかった。
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