DAY.9:「……まくら」

「えーと、うちは父子家庭で、料理が俺の役割だったっていうか……」

「あ……」


 お姉さんの顔がさぁっと青くなる。すぐに「失敗した」という表情を浮かべて俯いてしまった。


 俺のバカ野郎! 適当に話を合わせておけば良かっただろうが! 何をマジレスしてるんだ!


 無言のプレッシャーが先ほどの比ではない。無意識に俺も緊張していたのかもしれない。会話をつなげることにいっぱいいっぱいで、家庭の事情を聞かされた相手の反応まで想定できていなかった。


 信号が赤になり、俺は足を止める。このまま別方向に走って逃げ出したい。



「……え?」



 お姉さんは歩くのを止めなかった。顔を下に向けているから、信号を確認していないのだ。


「あ、あの」


 道路に侵入しても気づく気配はない。右を向くと、大型のトラックがスピードを緩めることなく急接近していた。このままでは間違いなく直撃する。


 鳴り響くクラクション。ようやくお姉さんは顔を上げ、己が陥っている状況を理解する。突然の事態に戸惑っているのか、その場で硬直している。


 俺は荷物を置いてお姉さんを追う。背後から腕を取り、力いっぱいに引き寄せた。背中を道路に向け、接触に備え両腕で上半身を抱きしめる。幸いにもトラックは俺の背中をかすっただけで、そのまま過ぎ去っていった。


「怪我はないですか」

「へ、平気、です。ごめんなさい……」

「いえ、俺の方こそびっくりさせてしまって……」


 考えるより先に、身体が勝手に動いていた。お姉さんが無事で良かった。


「……その、そろそろ離してくれるかな……」

「ああっ! ごめんなさい!」


 俺は水をかけられた猫のように飛びのいた。いつの間にか歩道の信号は青に変わっている。


「本当にすいません。初対面の男に抱きつかれて、気持ち悪かったですよね」

「ううん、そうじゃないんだけど……」


 お姉さんは両手で自分の腕を抱き、俺が触れた部分を執拗にふにふにしている。そして顎に手を当て、思案している様子だった。まるでぬいぐるみ屋さんで商品の抱き心地を確かめているかのような……。


 この後、アパートに到着するまでどちらも口を開くことはなかった。




「ま、まさか隣同士だったなんてびっくりですね、はは……」


 アパート二階の共用廊下で、俺はビニール袋を渡しながら愛想苦笑いを浮かべる。


 交通事故未遂の後、俺たちは同じ道を曲がり、同じ建物の前で停止した。俺は先に階段を上っている最中、ストーカーと疑われないか気が気でなかった。背中からは変な汗出てたし。


 そういえば昨日はアパートの前に引っ越しのトラックが来ていた。一日中自室にこもっていたからお隣さんの顔は確認していなかったが、よもやこのお姉さんだったとは。


 ずっと俯いていたお姉さんが、突如顔をがばっと上げる。最初に話しかけた時と同じような鋭い目つきをしていた。しかしそこにあるのは敵対心や憎悪ではない。


 お姉さんが深々と頭を下げる。


 これは……謝られたのだろうか。荷物持ちや、トラックから助けたことのお礼も兼ねているのかもしれない。本心はまったく読めないが、少なくとも悪い人ではなさそうだ。お姉さんは逃げるように、慌てた手つきでドアを開ける。


「あ、あの!」


 お姉さんが無言のままこちらを見る。この先話すことはないかもしれないが、ぎこちない関係のまま別れるのは嫌だった。


「もう片方の茶色い袋……何買ったんですか?」


 しばし沈黙が流れてから、お姉さんは答えた。




「……まくら」




 お姉さんの口角が、わずかに上がっていた。


 パタン、と扉が閉まる。


「照れてたな」


 ちょっとだけ可愛かった。


 ☆ ☆ ☆


「いやー、懐かしいですね」

「ううぅ~」


 沙也さんは両手で顔を隠し、ベッドで反対側を向いてしまった。


「もしかしてあの時から、俺の目元がブラウンに似てるって思ってたんですか?」

「そんな余裕ないよ! あの日だって午前中に会社で入社手続きした時、久しぶりに男の人と話してすごく緊張したんだから!」

「その割に俺の抱き心地はしっかり確認していたみたいですが」

「ぐ」

「学生時代は男友達とか彼氏とかいなかったんですか」

「いないよ、女子大だもん。合コンに誘われたこともあるけど怖いから全力で断ったし」


 沙也さんがくるりとこちらに向き直る。


「だから、男の子の知り合いはサドーくんだけだよ」


 桜色の唇を綻ばせ、沙也さんが微笑む。


「そう……ですか」

「あれ、なんでそっち向いてるの?」

「沙也さんだって顔背けたじゃないですか」

「こらっ、こっち向きなさい」

「あと十秒だけ待ってください」


 全力でニヤケを消しますんで。


「だーめ」


 沙也さんが俺の肩を押さえ、ぐるんと方向転換させる。


 至近距離で、ばっちり目が合った。


 真珠のような艶やかな瞳が、真っ直ぐ俺を捉えている。目元には、二週間前にアパートの前で出くわした時のようなクマはまったく見当たらない。



「……俺、沙也さんの目、好きですよ」

「……私もサドーくんの目、好きだよ」



 いつかは、目以外も好きになってほしいな。



 その日、俺たちは見つめ合ったまま眠りについた。

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