扁鵲たちの競宴

高麗楼*鶏林書笈

第1話

 後世の史家たちは、私たちの時代を「名医の多かった時代」と評しています。王さま(中宗)が御丈夫でなかったため、医員たちの活躍が目立ったこともあるかも知れません。光栄なことに、私・大長今は、こうした方々のなか、河(宗海)医員、金(順蒙)医員、朴(世挙)医員、洪(沈)医員と共に働くことが出来ました。このうち、金医員と朴医員のお二人には、興味深いお話が伝えられていますので、まず、そうしたことから御紹介しましょう。


 金医員は、もともと地方で医業を行っていたそうですが、その実力を認められて宮中入りした方です。医術全般に精通していますが、特に風腫と婦人病の治療を得意としていらっしゃいました。これについて、世間には様々な興味深い話が伝わっていますが、例えば次のようなものあります。

 金医員が宮中入りする前のことでした。洪守紀という士人の家の下女が帯下症という病に罹り一年以上も苦しんでいました。多くの医者が治療を試みましたが、全く効果がありません。

 そんなある日、金医員の評判を耳にした洪家の者が、彼に下女を治療を頼みました。金医員は、彼女を診察した後、薬を調合し、針術を施しました。すると、あれほど激しかった痛みが和らぎ、数日後には病は全快しました。

 こうした評判は王宮にも伝わりました。その頃、王さま(中宗)は、腫病に苦しんでいらっしゃいましたので、金医員を呼んで治療に当たらせることにしました。金医員は王様の病気を見事に治したので、褒賞を下賜され、そのまま王宮で働くことになりました。その後も、王さまや王室の方々、高官の方々の健康管理をなさり、多大な功績をあげましたので、王さまは金医員を堂上官に昇進させることにしました。ところが、これに反対する奏書が毎日のように上げられました。その内容は、単なる誹謗中傷に過ぎないものが大半でした。例えば、こんな感じのものです。

〝内医院の金順蒙は医術に精通しているが、その人品には問題がある。聞くところによると、宰相に呼ばれれば直ちに駆け付けるが、下級官吏が診療を頼んでも応じてくれない。医者の務めは病人を診ることなのに、こうした態度は如何なものか。このような人物は堂上官に相応しくない……。〟

 この話を聞いた時、呆れてしまいました。金医員も私も、王さまと王族の方々、政府高官の方々の健康管理を担当しているのです。王宮には、私たちの他にも医員や医女が大勢います。こうした中には、宮中で働く人々や、一般の人々の診療活動を担当している人々もいるのです。私たちも勤務の無い日は、頼まれて診療をしたり薬の処方をしますが、王宮から呼び出しがきたら、当然、そちらを優先します。

  要するに、上奏をした人々は、中人階級に属する医員が、自分たちと同等となる堂上官になることが面白くなかったのでしょう。このことは王さまもよく御存じだったので、こうした上奏文は一蹴なさいました。一方、官吏の中にも金医員の実績を高く評価する方も多く、李惟清という方は金医員の昇進を積極的に支持されました。


 金医員は「簡易辟瘟方」という医書の編纂に携わりましたが、その時一緒だったのが朴医員でした。実は、私と一番長く一緒に働いたのがこの朴医員でした。朴医員も金医員と同様、医術全般に精通していて、王さまの御臨終の時も共に立ち会いました。私の医女生活の中で最も比重の高い方です。朴医員については、とても面白い話があります。

 朴医員が若かった頃のことだそうです。

 流行病に罹った朴医員が十日余り床に臥していたところ、突然、魂が体外に出てしまいました。魂となった朴医員が気が付いてみると両脇を下級役員みたいな者に挟まれ、何処かに連れて行かれる途中でした。文字通り、地に足がついていない状態の朴医員が下を見ると広大な砂漠でした。物凄い速度で空中を飛んでいた彼らが降りた所は、赤い欄干がめぐらされている立派な壇の前で宮殿を思わせる雰囲気がありました。内側には、牛頭の夜叉の吏員たちが並んでいて、彼らに引き渡された朴医員は内側にある広場に連れて行かれました。そこには煮えたぎっている大釜があり、中には僧と尼がひしめいていました。朴医員はこの中に投げ込まれました。このまま沈んでしまっては抜け出せなくなると考えた朴医員は、釜の縁に手をつけて横になり、浮かんだ状態になりました。しばらくすると夜叉がやって来て、朴医員を金串で突き刺して外に出しました。不思議なことに痛みは感じませんでした。夜叉は彼を上方にある官庁に連れて行きました。そこは王宮のような雰囲気で、重門をくぐると左右には机が置かれていて、俗世の官庁とそっくりでした。机には冕琉冠を被り刺繍が施された官服を身につけた官吏が座っていて、山と積まれた書類、帳簿に判決の印を次々と押していました。青い頭巾を被った吏員たちが絶え間無くやって来て、机の前で平伏しては文書を運んでいましたが、その様子は厳粛で俗世とは全く異なっていました。朴医員は机の前に連れて行かれ、尋問されました。

「汝は俗世で何をし、どのような職責だったのか。」「大したことはしていません。職責は、医局で処方箋を管理していましてた。」

 朴医員がこう答えると、その内容は直ちに全官吏に伝えられました。すると官吏たちは集まり議論を始めました。

「この者は、まだ命数が尽きて無いゆえ、ここに来るべきではなかった。当方の手違いでこのようになってしまったが、どうすべきだろうか?」

 官吏たちが話し合っている最中に、その中の一人が密かに朴医員を背後に呼びました。その官吏は端正な容姿をしていて、先代の王さま(成宗)によく似ていました。平伏している朴医員にその官吏は、そっと告げました。

「これから汝に餅が与えられるが、それを食べると二度と現世に戻れなくなる。」

 官吏の言葉が終わると、朴医員は冷や汗をかきながら再度平伏しました。官吏が議論に戻ったので、彼ももといた場所にもどりました。

 間もなく、箱に入った餅が朴医員の前に運ばれ、食べるように命じられました。朴医員は食べる振りをしながら、全て懐の中にねじ込みました。こうしたなか耳を澄ましていると、上方から議論する声が聞こえて来ました。

「この者は有用ゆえ、このままここに置いて仕事をさせよう。」

「いや寿命の尽きていない者を留め置くのはよくない。戻すべきであろう。」

 甲論乙駁の末、遂に判決が下されました。

「汝を現世に帰す。」

 平伏して聞いていた朴医員がおもむろに顔を上げると、一人の官吏が判を押した文書が目に入りました。そこには「朴孝山、尹崇礼は堂上官とし、徐福慶は安岳郡守にせよ」とありました。朴医員は、これが何を意味するのか分かりませんでした。

 朴医員が立ち上がり官庁を出ようとすると、先程の前の国王さまに似た官吏がそっと呼び寄せ、書類と書状と思われるものを包んだ赤い絹包みを彼に手渡しました。

「汝の国の君主にこう伝えよ。〝汝の評判がひどく良くないゆえ、わしはこの上もなく恥ずかしい思いをしている〟と。」

 朴医員は謹んでそれらを受け取ると挨拶をし、外に出ようとしました。すると先程の夜叉の吏員がやって来て彼を捕まえました。

「私は既に釈放された身の上なのに、何故このようなことをする!」

 朴医員が強く抗議をすると

「自分は門番ゆえ、証明書がなければ通すことは出来ない。」

と無表情で答えました。

「これが証明書ではないのか」

朴医員は先程の書類を見せました。門番は一瞥したのち、

「これは証明書でないが、確認を取って来るのでここで待っていなさい。」

と奥へ入って行きました。門番はすぐに戻って来ました。

「既に許可が出ているので行ってよろしい。」

 こう言うと門番は抱えて来たむく犬を朴医員に渡しました。

「これの後について行きなさい。」

 門番の言葉が終わるや否やむく犬は朴医員から身を離し駆け出しました。朴医員は大慌てでその後を追いました。間もなく大きな川のほとりに着きました。犬が飛び越えましたので、朴医員もためらうことなく飛び越えようとしましたが、岸に届かず川中に落ちてしまいました。朴医員の身体は柔らかなものに受け止められました。そこは水中ではなく車の中のようでした。耳に入るのは水の流れと風の音だけでした。しかし、それはやがて人の声に変わりました。朴医員は閉じられていた目を開きました。視界には家族たちの顔が入りました。そして自分が床に寝かされていることに気づきました。周囲では人々が葬儀の準備を始めていました。

「大変だ! 包みをなくしてしまった。」

 朴医員はこう言いながら起き上がりました。そして

「朴孝山、尹崇礼は堂上官、徐福慶は安岳郡守。」と言いながら立ち上がり、外に出ようとしたので、周囲の人々は驚いて彼の身体をつかみ床に押し戻しました。

 とにかく、生き返ったと事実に家族たちは喜びました。朴医員もこうした様子を見て、気分が落ち着き、その間のことを周囲にいた人々に話しました。話を聞き終わると皆一様に「不思議なことがあるものだ」と感心しました。

 体調が良くなると、朴医員は王宮の医員としての仕事を再開しました。それから間もなく、彼の先輩に当たる医員、朴孝山さま、尹崇礼さまが折衝将軍つまり堂上官に、四街亭(徐居正)さまの庶子である徐福慶さまが安岳郡守に任命されました。本来、中人である医員が堂上官になったり、庶子が郡守のような官職に就くことは制限されていました。ところが時の王は暴君の燕山さまでした。燕山さまは御自身の気の向くままに政事をなさっていましたので、こうした人事も可能だったのでした。


 いつだったでしょうか、この話の真偽を直に朴医員に聞いて見たところ、ただ笑っていらっしゃいました。

 ところで、朴医員は趙静庵(光祖)さまを始めとした新進士大夫の方々とも親しくしていました。これは師匠である安黄中さまの影響のようです。己卯年の事件(己卯士禍)で静庵さまが亡くなった後、朴医員は密かに御家族の生活を支えていたそうです。

 私自身は安医員とは面識がありませんが、聞くところによると科挙の雑科に優秀な成績で合格した後、その能力を買われて王宮の医員たちに医術を教えていたそうです。特に頭痛の治療を得意とし、それによってその名前が長く伝えられたそうです。

 さて、安医員と静庵さまが何故身分を越えて親しくなったのか、よく分かりません。朴医員によると、安医員は性理学(朱子学)も学んでいらしたようで、そうした関係によるものではないかということです。そういえば、朴医員もそうした書物を時々読んでいたようでした。己卯年の事件際、安医員は静庵さまたちの伸冤を上疏なさったのですが、それによって安医員も配流の刑に処せられてしまいました。流配地に着く前に亡くなってしまったのですが、多くの人々が安医員の死を悲しんだそうです。朴医員も静庵さまたちの伸冤を訴えていましたが、王さまや多くの方々が、その能力を認められていたため処罰されませんでした。

            

 最後に、私の師匠の義貞さまの主人である張徳さまについてお話ししましょう。

 張徳さまは、元は済州島のとある士人の家の下働きでした。その家に加という医者がよく訪ねてきました。加医師は、眼、鼻、歯の病気治療を得意とし、どんな症状でも彼の針術にかかるとたちまち治ってしまうそうです。張徳さまは、加医師と親しくなり、その針術を教えてもらいました。もともとこの方面の才能があったのでしょう、針術はもちろんのこと、加医師の医術を全て体得してしまいました。加医師は、彼女をとても気に入り、主人の士人に頼んで彼女を助手にしました。こうして加医師と共に張徳さまは済州島で医業を行いましたが、評判はとても良く、本土のそれも都にある王宮まで伝わりました。王宮では、彼女に医女たちの指導を担当させることにしました。こうして張徳さまは王宮に行くことになって大喜びしました。島に住む女性たちが島外に出ることは原則として出来ないためでした。生涯島から出られないと思っていた張徳さまにとっては、夢のようなことだったでしょう。ソウルでの生活はそれなりに楽しかったようですが、王宮の医女たちは誰一人張徳さまの教えたことを体得出来なかったそうです。張徳さまは、このことをとても残念に思ったそうです。

 義貞さまは、このことを話すたびにこうおっしゃるのです。

「その点、私は大したものよね。教えられなくても御主人さまの医術を全て身につけたのだから。」

 義貞さまは、張徳さまの家で端女として働いていました。その頃は玉梅と呼ばれていたそうです。初めは家事や身の回りのことをされていましたが、加医師が亡くなった後は、張徳さまの助手として医術を手伝ったそうです。こうして張徳さまの医術を全て文字通り体得されました。張徳さまが亡くなる時、「結局、加先生の医術を受け継げたのは、お前だけだったね。」

とおっしゃったそうです。 

 その後、義貞さまも王宮に呼ばれ~この時から〝義貞〟と名を改めたそうです~私たち医女を指導されました。義貞さまは教え方が上手だったのでしょう、私たちは何とか体得することが出来ました。しかし、それは一部に過ぎなかったようです。義貞さまが王宮にいらした期間は短く、その間に全てを教えること不可能のようでした。そこで重要性の高いものだけを教授なさいましたが、それはとても有意義な内容でした。私が医女として働いている間、義貞さまに習ったことはとても役に立ったのですから。

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