第25話 割れた小瓶(後編)

 頬をくすぐられて俺は目を覚ました。ウサギの姿をしたペンナが起きろと俺の首筋に鼻を押しこんでいた。もうすぐ宵刻が終わるらしい。


 下へ降りるといい香りが漂っていた。テーブルの上に二人分のご飯が用意されている。

 見れば置手紙があり、この街から出る方法が記されていた。

 書いた本人と思われるペンナは知らん顔で、空いた椅子の上で鏡餅のようになっていた。


 なんだか、イリスと違って至れり尽くせりだな。


 俺とフロースはありがたくご飯とみそ汁という昔ながらのワコクの食事にありついた。

 この味ですら懐かしく感じるのはペンナに与えられた記憶のせいか。普通に美味しい食事なのに、懐かしさに気持ち悪さを覚えて全然楽しむことが出来なかった。


 手紙のとおり、来た道とは反対方向に進むと入り口と同じような扉が現れた。

 外に出ると驚いたことにそこは神殿の玄関ホールだった。それだけの距離を歩いた気はしないが、まあ、早く帰れる方がありがたいからいいだろう。

 フロースは聖女像に無事をお礼する祈りを捧げた。ここまで来れば安全だからと、フロースは記憶の小瓶の入った鞄を俺に渡してきた。


「本当に全部の記憶を取り戻してもいいのか?」

「ええ。もうイチイチ色々説明するのも面倒くさいから」


 今まであんなにも頑なに記憶を取り上げられていたから、こんなにあっさり返してもらえるのは拍子抜けだった。

 フロースがいつもの調子で早くしろと急かすので、俺は早速一番右側にあった小瓶を抜き取った。


 フロースと〈赤霊峰マウント・ルーベル〉の麓へ出かけた日のことが走馬灯のように蘇った。

 十二歳の頃、二人きりで初めて遠出した記憶だ。あの後どこへ出かけていたんだと両方の両親から怒られて、でも無事でよかったと魔神カエルムが食事の席を構えてくれた。

 記憶が終わるとマナティのマルガリータが抜け、手の指の間に張っていた水かきがバリバリに割れて剥がれた。


「あの日、凄く寒かったな」

「ええ。あんたの火があったから暖を取れた」

「俺は早く帰ろうって言うのにフロースがどうしても行くって言って聞かないから。でも、妖精が宿るって言われてるマーブル湖は綺麗だったよな。金色に輝く虫が無数に舞って、幻想的だった」

「そうね。事が済んだらまた行きたいわ」

「だったら、まずその目を治さないとな。もう一度サノーに相談しよう。俺の記憶が戻れば、何か策が出てくるかもしれない」


 フロースは微かに笑みを浮かべ、頷いた。

 次の記憶を手に取る。

 俺はまた魔神城にいた。俺とフロースの誕生日パーティーが開かれていた。

 十三歳の誕生日。俺の両親もコルヌも俺の弟達もいる。魔族側にはサノーの姿も見られた。

 楽しくお喋りし、双方が俺達の成長を祝ってプレゼントを渡してくれた。俺は幻と言われる銀狐の毛皮のマントを、フロースは黄金の薔薇の朝露を集めて作った香水を受け取った。

 パーティーが終わった後は〈魔国デモンドカイト〉と〈妖国フェリアーヌ〉を凱旋して、道に集まった国民から祝福を受けた。両国全体が俺達を祝ってくれていた。今なら俺達の関係が両国を繋ぐ懸け橋になっていたという意味がわかる。

 皆幸せだった。俺も、フロースも、両親も、国民達も。今からは想像もつかないほど、どこもかしこも平和だった。


「魔神カエルムは本当に優しかったんだな」

「ええ。誰にでも自慢出来る立派な父だった」

「早く正気に戻る術を見つけないと。また一緒に皆で笑って食事したい」

「そんな日が来るのかな?」

「来る。俺達の力で取り戻すんだ」


 まだ目の覚めないディーバが抜けていく。

 足に痛みを覚え、耐えきれずにかきむしると分厚い皮がボロッと剥けて人間の足が現れた。まるで脱皮だな。

 ともかく、これであの忌々しい鳥足ともお別れなんだ。

 皮をすっかり取り除き、両足で跳ねた。そう、この足の裏でしっかりと地面を掴む感覚が欲しかったんだ。

 嬉しくてジャンプや屈伸を繰り返していると、フロースがなんとなく理解してくれたようで笑った。俺の知っているいつもの優しい笑みだった。

 思えば今までの笑顔はどこか硬かったような気がする。


 俺達も元の関係に戻れる、考えただけで心がほっこりした。次の小瓶を取る。またフロースとの思い出だ。

 一緒に聖書を広げて解釈を語り合っていた。俺はこの時はまだ字が読めなかったからフロースが全部音読してくれて。


 思い出が蘇るのは嬉しいな。けれどそろそろコルヌやレグルスとのことを思い出したっていいんじゃないか?

 フロース以外の人だって俺にとっては大切な人達だったはずなんだ。どうも俺は選ぶ記憶が偏っている。


 何かが割れる音が聞こえた。その音で目が覚めるように記憶の波が引いていった。

 音の方を見て俺は唖然とした。フロースが残りの瓶を叩き割っていた。


「何してんだよ!」


 フロースは既に三本目の瓶を手にしていた。俺がフロースを押さえた時にはそれも石畳に叩きつけられて、透明な液体が乾いた石に浸透した。

 残っている瓶はあと二本。フロースは俺の制止を振り切り、それらも割ろうとしていた。

 本気で押さえつけるしかない。両手首をガッチリつかみ、壁に追いつめた。


「離して! やめて!」

「やめるのはそっちの方だろ! なんで小瓶を割った? 俺の記憶なんだぞ!」

「離して。離してよ!」

「フロースになんの権利がある? 神殿の調査が終わったら全ての記憶を返すっていう約束だっただろ。守れよ!」


 フロースは俺の腕に思いきり噛みついた。あまりの痛みに俺は手を離してしまった。

 猫のようにスルリと抜け、フロースが手探りで鞄をひっくり返す。

 残りの二本のうち、一本が割れた。

 音で一本が割れなかったことに気づいたんだろう、フロースは半泣きになりながら床に這いつくばって最後の一本を捜していた。

 フロースの手が小瓶に触れる前に俺は最後の一瓶を掴み取った。割られる前に俺は中身を飲み干した。


 またフロースとの記憶。


 初めてキスした日のことだ。十五歳の誕生日の夜、恥ずかしさで体が燃えそうになりながら、ふっくらとした唇に唇で触れた。抱きしめたのも初めてだった気がする。

 遊び半分のじゃれあいじゃなく、きちんと一人の女として俺は華奢な背中を抱き寄せた。

 俺にとって最も大切な日、俺がフロースに告白した日だ。許嫁という関係だからではなく、一人の女として愛していると言ったんだ。


「どうしてこんな大事な記憶を……」

「……」

「他にはどんな記憶があったんだ?」

「知らないわよ。私は何も」

「なんで嘘つくんだよ。この前、心臓病に関する記憶を持ってきたって言ってた。小瓶の中身、全部知ってるんだろう」

「……」


 フロースは黙りこんでしまった。ルビーの目は闇を見つめ、俺に何の情報も与えてはくれなかった。

 苛立ちが最高潮に達する。割れた瓶を改めて確認すると、フロースへの怒りが増した。


 俺の記憶、今まで生きてきた証。


 一体、何を忘れ去ってしまったのか。過去の自分を否定されたようで俺は最低な気分だった。

 悪寒がする。六羽目の妖霊が抜けようとしているんだとわかった。

 引っ張られるような感覚の後、銀色の塵が体から噴き出した。銀色の髪の少年が翼を広げ、フワリと浮き上がる。別れの瞬間だ。

 アルスは何も言わなかった。その代わり、自分の姿をしっかりと見ろというように銀色の塵で鏡を作った。

 鏡の中でアルスと同じ色だった髪が緑色に変わる。

 犬歯が太く尖り、アグリコラの尻尾が落ちた後は何もなかった尻に細長い獅子の尾が生えた。

 爪の伸びた自分の手を見下ろした時、俺は本来の姿に戻ったんだと理解した。

 アルスは眠っているディーバを拾い上げると、他の妖霊達と同じようにあっさりと去っていった。別れの言葉もなかった。


「フロース、悪かった。小瓶のことはもう責めないから」

「……なんで?」

「思い出なんてこれから作っていけばいい。俺は一部でもフロースとの日々を思い出すことが出来た。足りない部分はこれから一緒に補っていこう」


 不思議なことに、鏡の中にいる深緑の獅子を宿した自分を見ているうちに怒り狂っていた気持ちがスッと引いていった。

 過去のことであんな風に怒鳴るなんて俺らしくない。

 俺はいつでも前を見ていた。細かいことは気にしなかった。


「フロース」


 ほっそりとした顎に手を添える。光を映さないルビーの目は涙で潤み貴重な宝石のようだった。

 その輝きに心がゴソリと震えた。

 シフォンのような唇に俺はそっと唇を重ねた。ピクンとフロースが瞬間顔を引っ込める。

 状況を理解したのか、探るような目で見上げてきた。俺に触れようと伸ばされた手を俺はそっと捕まえ、俺の頬に押しつけた。

 互いに互いの距離を確認しながら、俺はもう一度唇を重ねた。

 今度はフロースも顔を引っ込めなかった。それどころかもっと接近し、俺の方が窒息しそうなほど唇を押しつけてきた。

 このフロースの行為をきっかけに俺達はしがみつくように絡み合った。


 互いに互いのことを求めていた。


 温かい肌の感触、香り、味、吐息の湿気まで感じていたかった。記憶の中よりもずっと激しく俺達は口づけを続けた。

 湧き上がる衝動を抑えることが出来なかった。自分が別の獣に変わってしまったんではないかと思えた。

 フロースが俺を押しのける。息継ぎをしようと背けた顔は涙ですっかり濡れていた。


「嫌だった?」

「ううん。多分、これは嬉し涙よ。帰ってきたんだなって。キスの仕方が私の知ってるイグニスだから」

「ただいま。俺はこれからもずっとフロースのそばにいる。もう離れない」

「当たり前でしょう? 私を一人にしたら、承知しないんだからね」


 レグルスが言った言葉の意味が今ならわかる。

 俺を作るのは記憶なんかじゃなかった。

 俺は今、確かに自分がイグニス・G・イーオンだと確信が持てる。


「愛しているよ、フロース」


 何も怖くない。フロースと一緒なら、俺はもっと俺らしくなっていける。

 もう一度口づけを交わした。今度はあっさりと終わった。

 抱き寄せるとフロースも俺の腰に腕を回してくれた。なんて嬉しい温もりだろう。絶対に離さないと決めた。


 守ってみせる。何と引き換えても、俺がこの手で守り抜くんだ。

 この思いこそが俺という証なんだ。


  ◇


 俺達はその後二時間も神殿に居座った。聖女像の上でペンナが見守る中、何をするでもなく、ただフロースと一緒に寝転んでいた。

 幸せな時間だった。このまま時が止まって欲しいと思うほどに。

 しかし、時は残酷にも進み、出発しなければならなくなった。宵刻になる一時間前、フロースは黒い爪で俺の手のひらをつっついた。


「成人祝いのパーティー、行きたくない」

「逃げるか?」

「いいえ。逃げては駄目。お父様の〈心臓カルディア〉を破壊しないと」

「帰ったらアーラの秘宝をもう一度調べ直そう。絶対に何か見落としがある」


 くすぐったいほどつっついてくる手を摑まえ、お互いに握り合った。

 少し冷たく感じる。温めてあげられたらと少し強めに握った。


「イグニス、私ね、お父様と戦うのが怖いの。どんなに覚悟を決めても、弱い自分がね時々顔を出してくるの。お父様と真っ向勝負になった時、もしかしたら凄く格好悪いことしちゃうかもしれない」

「責めはしない。俺だってフロースの立場だったら同じ気持ちになってる。何も恥ずかしいことじゃない」

「でもね、駄目なことは駄目だから。イグニス、お願いがあるの。もし私が迷ったら、貴方の信じる道を貫いてほしい。弱い私がどんなに嫌だって喚いても、私のことを正しい方へ引っ張っていってほしいの。お願い、聞いてくれる?」

「勿論だ。俺はフロースには逆らえない。そういう呪いがかかっている。そうだろう?」

「そうだったわね」

「フロースの呪いは強力だ。絶対に破れはしない」

「そうね」


 フフフとフロースは額を俺の左肩にこすりつけた。硬くて温かい感触に自然と吐息が漏れた。


 神殿を出るとフロースは近くにいたネズミを呪いで黒い翼の生き物に変えた。

 その背中に跨るとひしゃげた体の生き物はギャアと鳴き、空へ舞い上がった。

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