第32話 リリー・サリバン

 イースフィル領に来てから早いものでもう八年もたってしまった。私が生まれたエジャートン公爵領は王都の南東部にあり、比較的温暖な気候と豊かな土壌のおかげで農作物の生産が盛んで、王都とデヴォン辺境侯領の間に位置することから交通の拠点としても栄えている地域だ。


 私はエジャートン公爵家に仕える法衣男爵家の長女として生まれた。


 法衣貴族は上級貴族に使える役人の称号で、一代限りの貴族になる。子供に跡を継がせることはできないが、それなりの給金が支払われるために食べるには何も困らない生活を送ることができる。


 父は財務端の役人で税の徴収などを担当し、五つ上の兄はとても優秀で、騎士としてエジャートン公爵家に仕えていた。


 優秀な兄とは違い私には際立った才能は特になくごく平凡な少女時代を過ごしていた。特にやりたいことがあったわけでもなく、多くの貴族の家の娘がそうするように、私も家の手伝いをしながら、適当な時期が来れば父が決めた相手と結婚して家を出る、そんな幸せな未来の生活を疑うことはなかった。今思い返しても優しい両親と兄に囲まれた公爵領での生活は幸せそのものであった。


 そんな幸せな生活は私が十一才のときに終わりを迎えた。いつものように両親と兄と私の四人で朝食を食べているところに大勢の兵士が乗り込んできたのだ。全く意味の分からないままに私たち四人は捕らえられ、別々に牢に入れられることになった。


 そこからの生活は思い出したくもない。鞭打ちに水責めなど、あらゆる拷問を加えられた。知っていることを全部言えと言われても何のことだか分からずにただただ体に与えられる苦痛に悲鳴を上げることしかできなかった。


 私たちが捕らえられたのはやっと春を迎えた頃で、牢屋の石造りの床は冷たく、食事はほんの少しのパンだけであった。痛みと寒さと飢えで私はどうにかなってしまったのだと思う。長い間拷問と取り調べが繰り返されたようだが、最初のころ意外の記憶はほとんど残っていない。


 捕らえられてからどのくらいの時がたったころだろうか、私は釈放されることになった。


 釈放の際、兵士から、父と兄に、公爵暗殺の疑いがかけられていたことを教えてもらった。公爵の暗殺はたとえ計画を企てただけでも極刑は免れない。私が釈放されたとき、両親と兄は既に処刑された後で、私はまだ洗礼式前だったことから釈放となったらしい。


 釈放されたのは良かったものの、拷問や牢での暮らしにより体は衰弱し、まともに歩くこともできずに通りに出てすぐに座り込んでしまった。両親や兄が死んで帰る場所もなく、捕らえられる前に考えていた幸せな未来はもう自分には来ないことも分かっている。


 ここで死ぬのだと諦めていた私を救ってくれたのは、アルヴィン様の母、アリス様だ。


 今思えば公都にいたのが幸いしたのだと思う。公都は王都と違ってスラム街もなく、孤児もほとんどいない。孤児のように座り込んでいる私は非常に目立っていたのだろう。


 座り込む私に声をかけてくれ、すぐに宿に連れ帰ってくれた。


 アリス様自ら身体を洗ってくれたあとに、食事を出してもらった。久しぶりの暖かいスープを急いで流し込んだためか、胃に焼け付くような痛みを感じてうまく飲むことができずにむせ返ってしまった。


 アリス様は嫌そうな顔一つせず、優しく私の背中をなでてくれた。今まで抑えていた涙がとめどなく流れてしまう。どうやっても涙を止めることができずにいる私アリス様は優しく包み込んでくれた。その日はアリス様に抱かれるように眠ってしまったようだ。




 翌朝、起きた時にアリス様と一緒に男性がいたことに驚いて悲鳴を上げてしまった。拷問を受けたときのトラウマなのか、男性に拒否反応が出てしまっていたようだ。男性は気まずそうに苦笑いをしながら部屋を出て行ってしまった。男性はアリス様の夫でイースフィル領の準男爵とのことだ。仕事で公爵領に来ているときに私を見つけ拾ってくれたようだ。


 結局私がまともに歩けるようになったのは春の終わりごろであったが、その間はアリス様が付きっ切りで身の回りの世話をしてくれた。


 歩けるようになった私にアリス様からのお願いがあった。このころにはアリス様のためであれば命だって投げ捨てられるし、あの辛い拷問をもう一度繰り返しても良いとさえ思えるほどアリス様に心酔していた。


 アリス様は妊娠しており冬には子供が生まれるとのことで、私に子供のお世話をするメイドになって欲しいとのことであった。行く場所のない私にとっては、願ってもない申し出であり、すぐに了承した。


 アリス様は実家で出産してから戻るとのことであったため、私はモーリス準男爵と一緒に先にイースフィル領に戻ることになった。モーリス様は顔は怖いが、とても優しく、男性に恐怖を感じるようになっていた私もすぐにモーリス様とは話ができるようになった。


 イースフィル領に来て一年ほどが経ったときにモーリス様がアルヴィン様を連れて戻ってきた。アルヴィン様は既に首が座っているようでまだ生まれて数か月とは思えない程に大きかった。身体の大きさもそうだが、茶色の髪や目元などはモーリス様そっくりで、モーリス様のような剣士になるのだろうなと一目見た時は感じた。


 アリス様が一緒に戻らなかったことに疑問を感じ聞いてみたところ、出産後の経過が悪くアリス様は亡くなられてしまったとのことだ。そのことをモーリス様から聞いたときは、両親と兄が処刑された時以上の落胆を感じた。今度こそ生きている意味はないと思ったが、アルヴィン様を抱かせてもらったときにその考えは一瞬でなくなってしまった。


 アリス様からアルヴィン様を託されたのだ、アリス様の代わりに私がアルヴィン様を育てるのだと決意した。


 アルヴィン様は驚くほどの速度で成長した。一才になる前には簡単な会話ができ、二才になるころには大人と同じようにしゃべるようになっていた。残念ながらあまり剣の才能はなかったようだが、魔法の才能には恵まれていたようで、七才の時には一人で魔獣を倒してしまった。今後アルヴィン様がイースフィル領の領主になるのかどうかは今のところ分からないが、私はずっとアルヴィン様に仕えたいと思う。

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