あの女
カフェオレ
あの女
あの女が追いかけてくる。金切り声を上げ、訳の分からない呪いの言葉を発し、迫ってくる。
私は振り返りもせずただ、がむしゃらに逃げるだけ。あの女に捕まってはいけない。あの殺気は本物だ。
なぜ? なぜこうなった? 彼はあの女とは話をつけたと言っていたのに……。どうして、どうして。
その女は彼の元交際相手だという。私が彼と交際を始めてから、約一年。あの女からのしつこい付き纏いが続いていた。
最初は、背後に気配を感じるだけだったが、次第に家の中にいても、なぜか彼女の気配を感じていた。
あの女の毒牙がいつ私を殺すか分からない。そう思うと私の精神は疲弊し、日常生活もままならなかった。そんな私を見かねて、いよいよ彼もあの女と対峙し、二度と私達に近づかないようにということで丸く収まったという。
なのに、どうしてここに。
彼とのデート。地方の小さなクルーズ客船で久しぶりに穏やかな時間を過ごしていたのに。あの女! あの女がなぜここに!
どれほど逃げたろう。ついにデッキまで追い詰められた。
もう逃げ場はない。背後に彼女の気配を感じ、私は振り向く。するとそこには、あの女が——
*
あの女を追いかけている。私から彼を奪ったあの女を。
彼から一方的に別れを告げられた時は、世界が足元から崩れていくような錯覚がした。
絶望だった。私にとって彼は全てだった。
頼れる家族や親戚もおらず、親しい友人もいない私にとって彼はただ一つの居場所だった。
それをあの女! あの女は彼をたぶらかし私から奪い去ったのだ。強欲な売女め。
何をしてやろうと思ったわけではない。ただひたすら、あの女が彼に相応しい女か見極めてやるつもりだった。しかし、知れば知るほど、どうして彼があの女を選んだのかが分からなかった。
そしてついには、彼から最後通告のような言葉を言われた。それでも私は諦められなかった。彼らが今日、このクルーズ船に乗ることはあの女の部屋に仕掛けた盗聴器で容易に知ることができた。
そして見つけた。彼と一緒に笑うあの女。その時、私は理性のタガが外れた。自分でも信じられないような言葉を口走り、ナイフを振り回しながら追いかけ、そして追い詰めた。デッキの向こうには広い海が広がるだけ、逃げ場はない。女は観念したとみて、こちらを振り返る。早く、早く。あの女の恐怖におののく表情が見たくてたまらない。そうだ、これだこの顔——
*
八月九日付、T新聞朝刊より抜粋
八月八日。××湾を巡るクルーズ船の乗客の女性二人がトラブルとなり口論に発展。一方が手を出すと二人はもつれ合いながら、船から落下。二人はスクリューに巻き込まれた。その後、二人は救出され病院に運ばれたが現在、重症だという。
*
目覚めると白い天井が目に入った。
どうして私はここにいるのだろう。私はあの女ともつれあって……。そうだ、海に投げ出されたんだ。
目覚める直前の記憶を辿る。鮮明に思い出せる。恐ろしい記憶だ。
あの女……。あの女は……あの顔は。
その時、なぜか不思議な感覚に陥った。よく知っている顔。しかしどうしてか、その顔に対し恐怖を抱くと共に、とてつもない親近感をも覚えたのだ。
なぜだ、あの女、あの顔は私だ。まごうことなく自分の顔だ。しかし、同時に恐ろしく、憎らしいあの顔だ。
私達を脅かす(私から彼を奪った)あの女だ。
待てよ、どういうことだ? あの女は私から彼を奪ったのだ。なのにどうして、あの女から私は追いかけられている。いや、私があの女を追い詰めていたのではないか? 訳が分からない。ああ、嫌だ。誰かこの不気味な感覚を取り除いて!
なんだか酷く自分に嫌悪感を抱く。ああ、早く彼に会いたい。私を捨てた(あの女から私を守ろうとしてくれた)彼に。
この体が無事であるのに、どうしてか、この体を壊したくてたまらなくもなってくる。なんなんだこの感覚は。気持ちが悪い!
ふと、横を見ると近くに手鏡が置いてあった。これだ! これで私の顔が分かる。私が私であることが証明できる。
*
「手を尽くした結果、あなたの交際相手にもう一方の方の臓器を移植することでなんとか持ち堪えました。もう一方の方は残念ながら救えませんでしたが」
そう語る医師の言葉を男は呆然と聞いていた。
自分のせいだ。あの女を止められなかった自分のせいだ。
しかし、あの女が免許証の裏に臓器提供の意思表示をしていたとは。以前、雑学として彼女に教えたことをまさか実践していたのだ。だがどんな巡り合わせか、これで彼女は助かった。
「そういえば、彼女達は何か口論になっていたようですが。ああ、すみません。余計なことを聞こうとして」
「いえ、構いません。全て僕のせいですから」
男は首を横に振る。
「僕は彼女達を傷つけたんです。最低な男です」
「そうですか……。ところでなんですが、ドナーの記憶転移についてはご存知ですか?」
「記憶転移? いえ、知りません」
男は訝しむように医師を見た。
「それほど心配することでもないのですが、時々臓器移植を受けた患者さんに提供者の記憶が移るという症状がありましてね。それが記憶の一部が見えるとかなんですが、中には二重人格のような症状が表れた患者さんもいるようでして。いえ、ごく稀な例です」
当たり前だ、彼女にあの女の人格が入られてたまるか。男は拳を握りしめる。
「脅かすようなことを言ってすみません。おっと、どうしたんだろう。なに? 目を覚ました?!」
その知らせを聞き、男は歓喜した。良かった無事意識が戻ったようだ。
「聞いたでしょう? 目が覚めたようです。さあ行きましょう。彼女の元に」
はつらつとした医師とともに男は足取り軽く、愛する彼女と「あの女」の元へ向かった。
あの女 カフェオレ @cafe443
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