第15話 月面逃避行
ホバークラフトは月の地表の凹凸を巧みに避けながら走行していく。だが、それでも時々、車体は、がたり、と大きく傾く。
「ねー、なんで、お月さまのじめんって、こんなに、がたがた、しているのー?」
不思議そうに首をかしげて、アイリーンが、言う。
すると、黙りこくったままのジーンに代わって、カナデが微笑みながら口を開いた。
「それはね、むかしむかし、お月さまには兎さんのお姫様が住んでいたのよ。そのお姫様には、たくさんのお婿さん候補がいたのだけれどね、みーんな、いざ、お月さまにやってくると、“こーんな暗い星でくらすのは、いやだー”って逃げていってしまったんたんだって。そのたびにお姫様は怒って、じたばた、地面の上で暴れたの」
そのカナデの言葉にアイリーンが瞳を、きらり、と輝かす。
「あー、アイちゃん、わかった! だからそれで、ますます、じめんが、がたがたになっちゃったんだねー」
「うふふ。アイリーンちゃん、頭良いね! そのとおり!」
カナデは宇宙服越しにアイリーンの頭を撫でる。
褒められたアイリーンはまんざらでもないという表情で、にかっ、と笑った。
「おねーちゃんこそ、ものしりだねー!」
「ありがと、アイリーンちゃん」
「ねえ、おねーちゃん、なんていう名前?」
「カナデおばさんよ」
アイリーンが再び、首をかしげる。
「……おばさん?」
「そうよ、カナデおばさん、よ」
「えー? なんで? おねーちゃんでしょ? ねえ、カナデおねーちゃん、って呼んでいい?」
するとカナデは一瞬、戸惑いの表情を閃かせたが、すぐに笑顔を戻し、アイリーンの顔を覗き込みながら言った。
「……うーん、まあ、そっか。まあ、いいか。いいよ、アイリーンちゃん」
「ありがと! あのね、私のことはアイちゃん、って呼んでいーから!」
「うふ。ありがとう、アイちゃん」
ジーンはそんなアイリーンとカナデの、たわいない会話を聞きながら、ただただ、車窓を、ぼーっ、と脱力したかのように眺めていた。
いや、実際には、ぼーっ、としていたわけではない。頭の中には、先ほどのニュース映像とナレーションが繰り返し、流れている。
同僚たちの血まみれの死体。変わり果てた姿のドロシーとデュマ。
おそらく、クオも殺されたのだろう。
しかし、どこか、現実感がない。
残虐すぎる光景を見ると、かえって意識は呆けてしまうものだな、と、ジーンは考える。
――あのときも、そうだった。
だが、あのときと異なるのは、今回の残酷な現実は、自分ひとりの問題ではない、ということだ。
ジーンは再び、ニュースのナレーションを思い返す。
あれが事実なら、自分たちを攻撃してきたのは、ユーラシア革命軍、つまりは自国の政府なのだ。
それが、収容所の職員を皆殺しにした。
つまり、国家反乱という無辜の罪を着せて、国は収容所の人間をまるごと抹殺したのだ。そして、その標的の中には、間違いなく、ジーン自身も含まれていたに違いない。
――国は、自分たちを、都合の悪い存在として消しにかかったのだろうか。
そう考えてみて、思い当たるのは、やはり、人体実験のための施設という、収容所の恥ずべき真の姿だ。その事実は、たとえ、戦地では公然と噂されているとはいえ、国家機密中の機密であることにはかわりないだろう。
そうすると、国は、人体実験の事実を隠蔽するために、自分たちを襲撃したのだろうか。そう考えれば腑に落ちる。
――だが、なぜ、このタイミングで?
ジーンは宇宙服の上から、ダークグレーの頭を軽く叩いた。
考えてみても、分からないことは分からない。だが、ジーンの推測が正しいとすれば、国に捕えられれば、間違いなく、少なくとも自分とアイリーンも、殺される運命にあるということだ。
カナデはどうなのであろうか。
彼女は人体実験の被害者では、ある。だが、ターンを遂げた今、カナデの存在は人体実験のまたとない証拠だ。そう考えると、やはり国にとっては都合の悪い存在に違いない。ならば、彼女も狙われていると思った方が良い。
なんせ、国は、職員の子どもたちでさえも容赦なく殺したのだ。難民だからといって、見逃すことはまず、ないだろう。
ともあれ、今の自分の任務は、愛娘アイリーンと、人体実験に巻き込んでしまったカナデ・ハーンを守ること、それしかない。そう、ジーンは覚悟を決めて、心に刻む。
――そのためには、ひたすら逃げるしかない。少なくとも、この月面からは。
そのとき、フロントガラスになにか、巨大な物体が映った。
途端に、ホバークラフトが急停車し、がたん、と大きく車体が揺れてカナデとアイリーンが悲鳴を上げる。
見れば、大型のホバークラフトが月面上に傾いて停車している。見たところ、軍用ではなく民間の車両のようだ。
だがジーンは油断せず、車内に持ち込んだ銃を咄嗟に掴んだ。
「外に出て、様子を見てきます。絶対に、車から降りないでいてください」
ジーンはそうカナデに言って、銃を構えながら、ホバークラフトの扉を慎重に開け、月面に、ふわり、と滑り出た。
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