第11話 覚醒

「まさか、本当にターンが成功するとはな。ドロシー。大手柄だぞ。早く政府に報告せねば。我が元首もさぞかし喜ぶことであろう」


 所長室を訪れたドロシーに、実験の成功を報告されたデュマは、ことのほか上機嫌であった。


 さもありなん、先日の収容所における暴動も、この朗報と併せ報告すれば、取るに足りない失策で済むことであろう。デュマはそう考えたのだ。


 ――これが笑みを浮かべずに、いられるだろうか。


 そんな、隠せぬばかりの笑顔を浮かべるデュマの前で、ドロシーは無表情に屹立している。彼女は、ターンを遂げたカナデの姿を見たときの興奮から、早くも冷めつつあった。いま、彼女の心にあるのは、実験の今後である。今回の成功を、いったいどう次に繋げるべきか。

 研究者として、彼女の関心は早くもそこに移りつつあった。


「ですが、問題もあります。試薬の残りは、ほぼありません。今回のカナデ・ハーンへの実験で使い切ってしまいました、それを思うに、今回の実験は機が早かったと、やはり、私は思わずにいられません」

「試薬の製造データは逐一記録してあるだろう。それをもとに、これから随時、増産を目指せば良い」

「それはそうですが」


 ドロシーは溜息交じりに、デュマに言い返した。どうもターンの件に関して、デュマは結果を焦りすぎているように彼女からは思えてならない。


 カナデは、確かにターンした。


 だが、それも一時的なものに過ぎないかも知れない。ドロシーはそれを危惧していた。となれば、カナデの詳しい経過観察のデータが今度は必須になってくる。それらの作業は、今回の責任者であるジーンに任せてある。

 ならば、改めて彼にその重要性をよく言い聞かせねば。未だ、ドロシーからすれば、覚悟の足りないとしか思えない、ジーンであればこそ、特に……。


 そこまで考えを巡らせたとき、デュマが重々しく言葉を放ち、ドロシーの意識は即座に引き戻される。


「あと、言うまでもないことだが、これは機密事項だ」

「はい」

「君のチームの人間を除いては他言無用だ、それは徹底するように」

「それは、良く分かっています。それでは、失礼致します」


 いろいろ、言いたいことはあった。だが、とりあえず、ドロシーは口早にそれだけ答え、所長室を逃げるように後にした。



 ジーンはベッドサイドの椅子に腰掛け、カナデをただ時の過ぎゆくままに、見守っていた。昨日までとはまったく異なる、少女の容貌に変貌したまま眠り続ける、その姿を。

 彼女の呼吸音は規則正しく、かつ穏やかで、生命維持装置の各モニターに映る情報も、ジーンが見る限り、とくに異常は見当たらない。


 ――意識が戻って、己の姿を見たとしたら、まず彼女は何を思うことだろう。


 ジーンは当て所なく考える。とはいえ、とりあえず、カナデがこの変わり果ててしまった姿とはいえ、生存し続けてくれているのが、ジーンにとっては唯一の僥倖である。


 ――仮に殺してしまっていたら、いま、自分はこんなに冷静ではいられなかっただろう。もっと俺の感情は混乱を極めていただろうな。


 その時、唐突に部屋のドアが開いた。その方向に向き直ると、所長室に出かけていたはずのドロシーが腕組みをして立っている。


「なに、ぼんやりしているの、ジーン」


 ドロシーは足音も高く部屋に入室するや、素早く、器具のモニターに目を走らせる。そして、カナデの状態に変わりがないことをひととおり認めると、眼光鋭くジーンに向き直った。


「一見、変化はないみたいだけど、被験体のデータは、ちゃんと、逐一記録しているんでしょうね」

「はい、それは漏れなく、やっていますが……」


 そのジーンの言葉を濁した言動に、ドロシーは赤い眉をつり上げる。


「いますが……なに?」

「……いや、彼女が目を覚ましたとしたら、まず、なにを考えるだろうかと……」


 こういうときに、素直すぎるほどに、心の内を明かしてしまうのが自分の弱点だとは自覚していたが、ジーンはそう零さずにはいられなかった。


 対して、そのジーンへのドロシーへの返答は、明確極まりない。


「まぁ、驚くでしょうね。普通は」

「……ですよね」


 ジーンは頷いた。

 その時が来たとしたら、まったく、自分はカナデに、どう、この状況を説明するのだろうか。主治医であり、また実験の責任者である以上、それは己の仕事に違いない。それを考えると、ひたすらに気が重い。


 しかし、ドロシーの次の一言に、彼は、一瞬にして肝を冷やされた。


「でも彼女にその機会が与えられるかは、未知数ね。このまま意識を回復しない可能性だってある」

「その場合はどうなるのですか?」


 室内の空調は、完璧に温度が調節されているはずなのに、ジーンの身は寒気に襲われた。嫌な返答の予感に、思わず、尋ねる声が震える。


「私としては、彼女の体内細胞でなにが起きているか知りたいわ」

「……まさか、生体解剖を?」

「そうね、それがベストでしょう」


 表情を変えずに、残酷極まりない台詞を言ってのけたドロシーに、ジーンは息を詰まらせた。


「そんな! 私はこれ以上、彼女の命を弄ぶのは反対です!」

「なに、きれいごと、言っているの」


 真白い清潔な部屋の中、声を震わせるジーンに、対峙するドロシーの声音は、氷のように冷たい。現実をよく見ろ、とばかりに。


「ジーン・カナハラ。私たちは既に共犯者。あなただけ、この実験から逃げ出して正義漢ぶるなんて、もう無理よ」

「……そうは言っても!」


 そのときである。

 ふたりの応酬に、ドロシーのそれではない、若い女性の弱々しい声が重なった。


「……あ……あ、あ」


 ジーンは驚いてベッドに目を向けた。

 見れば、カナデの瞼が、唇が、微かに開いていた。


 その瞼はまるでスローモーションのように大きく見開かれ、再び現われた淡い琥珀色の瞳に、ゆっくりと焦点が合う。


 あまりにも唐突なカナデの意識の回復に、驚き、またもや身動きが取れぬジーンの脇をすり抜けて、ドロシーがベッドサイドに駆け寄りカナデに声を掛けた。


「気が付いたようね」


 カナデは、ぼんやりとドロシーの顔を、そして自分が今いる部屋を見渡している。


「どう? 気分は? なにか身体に、違和感はある?」

「私は、いったい……?」


 そう、ちいさく呟いたカナデは、ふと、ベッドサイドに、ふわり、とかかっている己の金色の髪に目を留めた。そして、不思議そうに、掠れた声のまま、呟く。


「え? 髪の、色……?」

「ちょっと待ってなさい」


 そう言うとドロシーは白衣のポケットを弄った。取り出したのはピンク色のちいさな化粧ポーチだ。


 ドロシーは無言のまま、そのポーチを開くと、中に入っていたコンパクトミラーを取り出した。そして、それを、ぐっ、とカナデに差し出す。カナデは不思議そうな顔のまま、ミラーを手にする。

 それから、そろそろと、おぼつかない手つきで、ミラーの前に自分の顔をかざした。

 そして、ミラーのなかに、自分の姿を認めた瞬間。途端にカナデの顔が驚愕に歪んだ。

 いや、恐怖に歪んだ、といったほうが良いかもしれない。


「なに……これは……なに!」


 室内にカナデの、掠れた叫び声が木霊する。

 わなわなと身体を震わす彼女の手から、滑り落ちたコンパクトミラーが、ベッドの下に落ちる。

 

 ミラーは、パリン、と、ちいさな音を立てて割れ、その破片を真白く磨き上げられた床に散らばした。

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