王子様の溺愛

水生凜/椎名きさ

本編

何処まで夢中にさせるんですか?

 佐藤さとうゆかりは、ここ数日最後の授業に差し掛かるとそわそわしてしまうようになった。


 顔は教壇に立つ数学教師に向けているが、心は既に放課後へ向かっている。


(あと少し……)


 時折、壁に掛かった時計を気にしながら今か今かと待ちわびる。


 そして、


「今日はここまで。次小テストするから復習しとけよ」


 チャイムが鳴ると同時に、教師は授業の終わりを告げた。


 縁の胸の高鳴りが一気に昂った。


 ホームルームを終えて、友人にバイバイと挨拶をして教室を出ていく。


「縁」


 その時、廊下の壁際で佇む一人の男子生徒が縁に微笑みかけた。


 その微笑を見るだけで縁の心臓は爆発しそうになる。


 彼はとても端整な容姿をしていた。

 同年代男子の平均より高い背丈に、さらさらとした爽やかなショートの黒髪がよく似合っている。


 周囲にいる女子生徒達のほぼ全員は、うっとりと頬を染めて彼を見つめていた。


「こんにちはっ、桜宮先輩」


 縁は震えそうな手をぎゅっと握り締めながら、ゆっくりと彼の元へ近寄った。


 彼、桜宮おうみや依人よりひとは、一年の縁より二学年上の先輩であり、縁の恋人であった。

 ---

「帰ろっか」


 そう言って依人は縁の前に手を差し出す。


「はい」


 縁は以前繋がれた時の依人の手の温かさを思い出し、ドキドキしながら自分の小さな手を重ねた。


 いつも縁は疑問に思う。


(どうしてあたしを選んでくれたのかな)





 入学式で在校生代表の挨拶をした依人に恋に落ちた。


 奥手な縁は遠くから見つめるしか出来なかったが、五月に行われた球技大会で転んで足を捻らせてしまった時、たまたま通りかかった依人が介抱してくれたのがきっかけで話すようになった。


 挨拶をしたり、時にはお弁当を一緒に食べるようになって少しずつ親しくなっていき、縁の恋心は風船のようにどんどん膨らんでいった。


 一方通行の恋だと思っていたが、梅雨が明けて初夏に差し掛かったある日、転機が起こった。


「好きです。俺と付き合ってくれませんか?」


 青天の霹靂とはこのことか、思いも寄らぬ依人からの告白は、縁の人生で最も驚いた瞬間だった。


 依人は尋常じゃないほど女子に人気がある。

 これまで囲まれている姿を何度も見かけたことがあるほどだ。


 そんな彼が、大人しくて本の虫な地味な女を好きだなんて、からかっているのではと疑ってしまう。


 しかし、縁は真っ赤な顔をさせて頷いた。


「はい……っ」


 遊びだとしても構わない。

 少しでも依人を独り占めしていたい。


 そんな思いでいっぱいだった。


 縁はこの日を境に彼氏いない歴イコール年齢に終止符を打ったのだった。

 ---

 付き合うようになってからほぼ毎日一緒に帰っている。


 付き合ってから発覚したことだが、依人は自宅から徒歩十分ほどの距離にあるマンションに住んでいた。


 学校からは依人の自宅が近いが、依人は例外なく縁の自宅まで送り届けてくれる。


(最近暑いから汗かいちゃうな……)


 背中を伝う汗に、縁は汗のにおいがしてないかと気になってしまう。


 そこで少し距離を置こうと、繋がれた手を解いてみた。


「駄目」


 しかし、一度離れた手はまた繋がれた。


「俺の許可なしで離れるの禁止」


 依人は離さないと言わんばかりに指を絡めて、恋人繋ぎをする。


「だ、だって、汗かいちゃってるから……においとかっ」


(あの、手が……っ)


 縁が夕日に負けないくらい真っ赤な顔で慌てふためくと、依人は目を細めて破顔した。


「先輩……?」


(どうして、笑っているの? テンパっているから?)


 不安げに依人を見つめていると、不意に依人の顔が近付いてくる。


 そして、唇が縁の髪に一瞬だけ触れた。


「今の……っ」

「本当に縁は可愛くて参るよ」


 依人は眉を下げて困ったような笑みを浮かべた。


「か、かわ……!?」


 例えお世辞だとしても、好きな人に可愛いと言われて動揺せずにいられる訳がない。


 縁の鼓動は早鐘のように打ち続けていた。

 ---

 本の虫を自称するだけあって、恋愛小説も沢山読んできたが、いざとなるとどう振る舞えばいいのかさっぱり分からず狼狽えるしか出来ない。


「そう言うピュアなところ、すごく好きだよ」


 もう既に余裕はないと言うのに、依人は更に追い打ちをかけていく。


(先輩は、あたしの心臓を壊す気なの……?)


 先輩には敵わないな、と改めて痛感させられた。



 恋人繋ぎをしたまま、また帰り道を歩いていた時、縁は掲示板に貼られている縁日の宣伝ポスターが目に止まった。


 この地域にある神社で毎年行われているものだ。


(お祭り、いいな……一緒に行きたいけど、先輩は受験だしな)


 そんなことを考えながら再び前を向き直すと、依人は縁に尋ねた。


「お祭り、俺と行かない?」

「へ……?」


 思わず目が点になった。

 依人は読心術を心得ているのではないかと疑ってしまうほどだ。


「いいんですか? 受験勉強で忙しいんでしょう?」

「大丈夫だよ。一応しているけど、どうせ内部進学だし」


 因みに縁と依人の通う高校はある有名大学の付属校だ。

 どうせと言っていたが、大学・高校共に偏差値が高いので、内部生とは言え進学は容易いものではないはずだ。

 依人にとっては問題ないのだろうか。


「それに、俺は縁とデートしたい」

「っ、」


 耳元で囁かれて、縁の鼓動は一気に高鳴った。

 ---

「あ、あたしも、先輩とデート、したいですっ」


 縁は吃りながら心にある本音を依人に打ち明けた。


 付き合えるだけでも奇跡だと言うのに、依人といるようになってからは、もっと一緒にいたいと欲が顔を出す。


「それなら、お祭り一緒に行こうか」

「はいっ」


 依人と初めて出掛けられる嬉しさのあまり、縁は満面の笑みで頷いた。


「その前に期末試験乗り越えなきゃね」


 縁日は八月初旬の夏休みの最中に行われるので、その前に期末試験が立ちはだかっていた。


「う……そうですね……」


 縁は期末試験と聞いて憂鬱な気持ちになりしょんぼりと項垂れた。


 成績はいい方だが、それでも試験期間は嫌だと思う。


「そんなに落ち込まないの。今週の日曜、俺の家で一緒に勉強しよう。分からないところがあったら教えてあげるから」

「お願いします……」


 頭を撫でられて、頬に熱が集まった。


(あたしったら現金ね。先輩と勉強出来るだけで、試験も悪くないって思い始めてる)




「今日も送ってくれてありがとうございました」


 自宅に到着し、縁は依人に頭を下げてお礼を言う。


「俺こそありがとう————縁と過ごせて癒されたよ?」

「っ!?」


 耳元で甘く囁かれて、心臓が爆発するかと思った。


「また明日ね?」


 依人は縁にふわりと微笑むと、帰って行った。

 ---

 6縁は立ち尽くしたまま、帰って行く依人の背中が見えなくなるまで見つめ続けていた。


 家の中に入り、玄関のドアを施錠すると、縁は身体の力が抜け落ちてヘナヘナとしゃがみ込んだ。


「ドキドキしたよ……」


(どこまであたしを夢中にさせるんだろう)


 縁は顔を上げて天井を見つめたまま、先程の依人の言動を思い出す。


 胸を高鳴らせる発言を聞くと、依人は本当に自分を好きなんじゃないかと自惚れてしまいそうになる。


 本当にそうだとしたら、きっと天に登るほど喜んでしまうだろう。


(先輩、あたしは日に日に先輩のことがもっと好きになっています。先輩は少しでもあたしのこと好きだと思ってくれていますか?)


「依人、先輩……」


 ため息混じりに洩れた名前は、すぅっと虚空に消えていった。


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