今日の私は明日いない。

高戸優

第1話

鬱病と言われた。やけに優しい口調の医者だった。哀れみを含んだ目だった。私は真っ白い診察室の中で、やっぱりとしか思わなかった。


目の前が真っ暗になることもなく、ただ自分の異常さを認めてもらえた事実が嬉しかったことを覚えている。私の判断力のほんの一部分、異常と認識していたことが誤っていないことを理解できたから。


思い返してみれば、この席に座るまでの私は本当に酷いものだったと思う。ブラックコーヒーしか安心できない癖に、苦手だったはずの甘いものを好み始める。普通の食事は見ただけで満腹になる。腹の虫が鳴っているからと口にすれば、何を食べても粘土のように感じ数口で廃棄する。夜眠れずに何度も起きる。眠れたとしても夢に魘され酷い顔で飛び起きる。引っ掻き続け血を流していた手首。バスや電車を待つたび、鉄の塊へ飛び込みたい衝動に駆られる。安全柵の向こう側、無様に飛び散る自分の体と血をイメージして何度も殺す。バスに乗ることが怖くなり、何かしらの罰を与えたくなり、無茶な距離を歩き続ける。死にたいと叫ぶ歌詞を唱えながらマスクの下で笑って帰路に着く。苦しいと認識しているはずなのに、足はその原因へ赴き不調の私を自ら見て見ぬふりして笑って過ごす。そこで求められる私を何人も作り上げて相手によって使い分ける。


正直言って、正常な感覚など忘れてしまうには十分すぎる環境だった。そんなことを思っている中、飛沫防止のレースカーテン越しの医者は静かに口を開く。


夜眠れていますかと聞かれた。眠るの定義がわからなかった。


食事はできますかと確認された。数口はどちらになるのか悩んだ。


好きなことは出来ますかと問われた。好きなことは忘れてしまった。


私は一体なんなんでしょう、そんな言葉が口を突こうとするのを必死に止めた。


薬はなるべく出したくないと言っていたはずが、診察が終わる頃には服薬が決定事項になった。一日一回、少ない量から始めるから、副作用は少ないから。勧め方が違法薬物の誘い文句に似ていて笑ってしまった。


そんな初診を終えて病院から出れば、原因からの異様な不在着信と予定外の事後報告。冬の日が落ち切った夕刻、街灯すら少ない道で往来する人の目もくれず泣きじゃくったあの日。電話をかけた相手にとにかくまっすぐ帰ってこいと諭されたあの日。此処はどこと言いながら帰り道すらわからなくなったあの日。


それらを今でもはっきりと覚えている。よく死ななかったと思う。



***



正しい人間の在り方と戻り方を教えてもらった。だが、私には何ひとつできなかった。求められることをひとつでもこなすには、私はあまりにもいろいろなことを忘れていた。


食事の摂り方。眠り方。感情の認め方。行動の起こし方。それらの全てが苦痛だった。何かしなければと心はいつでも急かすのに、身体は何もできないと拒否をし、何もできないなら死ねと心が叫べばそうだと身体が同意をする。そうして外着を手に取ったところで思いとどまる。そんな毎日の繰り返し。


罪悪感に押しつぶされながら原因からの逃がれ、薬を増やして無理矢理脳を好転させ、はや数ヶ月。ようやく人として在れるふりができているように思う。


手首はもう血を流さないし、食事も睡眠も当時より取れている。自罰的な行為は続いているが電車に轢かれる私はいない。少しでも何かができたら褒めている。何もできなくても死ななかっただけ偉いと褒めている。


ただ、私は思っているより私を忘れていた。


好きだったものに心を揺らす機会が減った。同時に追う余裕もなくなった。努力の火を灯す、大好きなあのバンドを聴くことができない。食べ物、飲み物の好きがわからなくなった。行きたい場所、食べたいものなどあらゆることを選択できなくなった。


私を私たらしめる、何かがわからなくなった。


まるで毎日鏡に「お前は誰だ」と質問している気分だ。私の名前と生年月日しか年齢分生きてきた確証がないような気もしている。それを取り返す存在証明のように、あるいは少しでも多くの未来を選択できるように、片っ端からいろんな勉強や資格に手を出し続ける。そんな真似をひたすら続ける。今日もがいた証拠を作る。


鬱病だからしょうがない言い訳はしたくない、甘えたくもない。最早強迫観念に近いその気持ちで立ち続けて、忘れた私を生き続ける。それでもそんな必死な私は眠りにつけば明日には消え去って、また「お前は誰だ」から始めている。


そんな毎日を続ける。そんな毎日を続けている。


こんな今日の私もきっと、明日にはいないだろう。

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今日の私は明日いない。 高戸優 @meroon1226

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