咎人勇者の異世界蹂躙目録 ~世界から容赦なく見捨てられたので、気儘な蹂躙生活を謳歌します~

明神之人

プロローグ

X-01 

少年とメイドは暗躍する


 大陸最大の強国、ブラッドルフ王国。

 その北端に位置する辺境領ミーリタニアは、国王の目が届かない隔離都市として王国の中でも独立した地位を得ていた。


 その中規模都市を治めているのは、ギレア・ロドルフ・ミーリタニア侯爵。


 表向きは民に寄り添い、弱者を慮る心を持つ優しき領主だが。

 その実、裏では人身売買に手を染めている下劣な貴族として、闇の世界に名を浸透させていた。


 彼によって売り捌かれた奴隷は数知れず。

 だがその〝商品〟全てを自らの都市内部から供給しているため、国王や他都市の領主から目を付けられる事はなかったのだそうだ。


 ――その日も、領内のとある館にて、年若き少年少女を品とするオークションが執り行われようとしていた。


 豪奢な外観を構える迎賓館の如き建物の地下に、多くの貴族の姿があった。

 オークションに参加する彼らは皆、自らの素顔を当たり前のように晒している。


 通常、このような場においては、参加者主催者問わず誰であれ仮面をつけるのが常例というものだ。

 にも関わらず、全員が素顔を露わにしているという事は、顔を見られても構わないという事。


 この人道を外れた人身売買が、これまでどれほどの数、行われてきたのかが窺えるようだった。





 幾万もの灯りが漏れ出る館の、その屋根上。

 そこに一人の少年が佇んでいた。


 夜風に靡く黒髪からは鋭い双眸が覗き、館の中から聞こえてくる喧騒や芸楽の音色を聞くにつれ、その眼光には少しずつ嫌悪が重ねられてゆくようであった。


「――街一つが、まるで弱者を捕らえ搾取するための監獄みたいだな」


 ぽつりと、言葉が零れる。


「奴隷を定期的に補充するため、わざと領都内部に小規模のスラム街を作り、それをわざわざ放置しているのか。余所の街に孤児が流れるのを防止する目的で……。まったく、そんな回りくどい真似ができるなら、もっと真っ当なやり方で街を治める事だって出来ただろうに」


 少年が目を瞑る。

 魔力を感知する意識網に気を集中させれば、館の地下に数十名もの貴族の存在を知覚する事ができた。


 その付近に、比較的弱い魔力の塊が複数。

 あれが侯爵家によって捕らえられた奴隷孤児――オークションの商品となる子供たちだろう。


「自分が治めてる都市の内部なら、どんなに不可解な神隠しが起きても隠蔽し放題ってわけか。どこの世界でも、政治に関わる奴ってのはろくな奴がいないな」


 うんざりとした様子でそう言いながら、少年はゴキリと首を鳴らす。

 長々と吐かれる息には、これから自分がやらなければならない事に対する面倒臭さがありありと滲んでいるようであった。


「……本当なら、こんな気怠い仕事なんかせずに、もっと勝手気儘に生きていたいんだけどな」


 そんな愚痴を口にした、その直後。

 なぜか少年はちらりと目線と動かし、何もない虚空を見据えた。


 数秒の沈黙があったかと思えば、二度目となる溜息が……今度は先ほどよりもわざとらしい様子で、吐き出された。


「分かってるよ。これもと交わした契約に含まれてるんだろ。別に言われなくたって、依頼を途中で放り出すような真似はしないさ」


 言いながら、少年は体内に宿る魔力を励起させる。

 彼の力を顕す漆黒の光粒子が漏出し、それが身体へ纏わりつくようにして、螺旋を描いた。


 次第に、少年の姿が霞み消えてゆく。


「先に潜入したシェリアが最深部への動線を確保してくれているはずだ。とりあえずは、その足跡を追う事にしよう」


 宵闇に溶け込むかの如く、黒き粒子が霧散する。

 そこにはもう、誰の姿もなかった。




     *




 館の地下に設けられた牢屋に延々と響くのは、子供たちの泣き声だ。

 薄闇が立ち込める無機質な部屋の中に、年齢がバラバラな少年少女が無理やりに閉じ込められている。


「ぐす、うぅ……もうやだよぉ……おうちに帰りたいよぉ……」


「大丈夫、大丈夫だから。何があってもお姉ちゃんが傍にいてあげるから……」


 牢の隅で膝を抱えて蹲り、静かに泣き続ける男の子を、少し年上の少女が懸命に宥めていた。

 二人とも、身に纏っているのはぼろ布同然のシャツ一枚だけであり、その下に覗く肌は何とも薄汚れていた。


 この姉弟だけではない。

 牢の中にいる数十もの子供たちは、誰しもが同様の見た目をしている。それは全員が、この都市の外れにあるスラム街で暮らしていた者ばかりであるからだった。


「ほんとに……? お姉ちゃん、ほんとにずっと僕の傍にいてくれる……?」


「もちろんよ。お姉ちゃんがあんたに嘘をついた事なんてあった? だからもう泣かないで。絶対に何とかなるから」


 そんな気休めを言って、弟の小さな身体を抱き締める。


 ――誰もが、そんな風に互いを慰め合っていた。これから自分たちがどうなるのか、想像はできるが、想像なんてしたくない。

 けれど逃げる手立てだってない。泣くだけ泣いて、これから起きる事に身を任せるしかない。


 悲嘆や嗚咽と共に諦念が溢れる牢屋に――やがて、複数人の足音が聞こえてきた。

 甲冑を纏う騎士が二名に、燕尾服に身を包む執事、そして気品溢れる佇まいのメイドがそれぞれ一人ずつ。


 そんな者たちの先頭に立っているのは、瀟洒な格好に身を包む一人の男だった。

 彼は、まるで家畜であるかのように牢へ押し込められている少年少女を、鉄格子の外から下卑た視線でもって見下ろす。


「ぐふ、ふはは、今回はかなり状態のよい品を手に入れる事が出来たなぁ」


 これからこの館にて行われる〝競売〟の主催者であり、ここミーリタニア領を治める領主、ギレア侯爵その人であった。


 一見して不健康さがありありと伝わって来る極度の痩躯に、ひどく目立つ鷲鼻。

 何も見えていないかの如き糸目の奥に僅かに覗く双眸は、醜い愉悦を多分に含み、檻の中で怯えて縮こまる子供たちを品定めするかのように歪んでいた。


「だが、また街の外れに孤児が流れるよう調整をせねばならぬなぁ。おい、その辺りの細工はどうなっている?」


 ギレア侯爵の問いに答えたのは、彼のすぐ傍らに控えていた執事服の男だった。


「何ら滞りなく。納税の期限を大幅に過ぎていた領民の中で、特に貧困に喘ぎ、なおかつ成長途中の子を持つ家々に圧力をかけ続けています。あの者達が自らの子を売りに出すのも、時間の問題かと」


「よろしい。其奴そやつらが〝商品〟を差し出したのなら、それ相応の金を渡しておくのだぞ? でなければせっかくの品を返せと言って噛み付いてくるかも知れんからなぁ」


「……いつも思うのですが、どうしてわざわざ相場以上の金を平民に渡すのでしょう? ギレアさまが直々に公言なされば、何の力も持たぬ民草など、ただ黙り込むしかないと思うのですが」


「ぐふふ、お前も分かっておらぬなぁ」


 肩を揺らして含み笑いを零す侯爵に、執事の男は小首を傾げる。


「我が侯爵家より私的に与えた金は、その家の資産に組み込んで良いと言いつけておる。自らの商売以外で得た金はみだりに使ってはならんと厳命しているが、わたしが直接的に与えたならばその限りではない。……それがどんな結果を生むか、お主は分かるかぁ?」


「いえ、恐れながら不勉強ゆえ」


「簡単な事だ。その家が持つ年間資産が増えれば、課せられる税率が引き上がる。一時的に裕福な暮らしとなるがゆえに、連中は多少増えた納税額など気にも留めぬだろうが、その多少の増税が命取りなのだ。商品とする子と引き換えにわたしが与えた金と、それ以降に徴収される納税の額……年単位で見れば、後者の方が圧倒的に額としては大きいのだよ」


「……なるほど。一時的に多く金を渡したところで、歳月が立てば、その何倍もの額になってギレアさまの許へ返って来るという訳ですか」


「ぐふふ、これほどノーリスクで何度も行える金商売もないだろうなぁ」


 歪んだ笑みを浮かべながら、侯爵はおむろに懐中時計を取り出し、時間を確認した。


「オークションの開始まで二時間か。そろそろ此奴こやつらを見栄えがいいよう綺麗にせんとなぁ。……おい、全員を衣裳部屋へ連れてゆけ。客が満足するよう完璧に仕立て上げろ」


「……かしこまりました」


 そう言って恭しく頭を垂れたのは、少し離れた位置に控えていた長身のメイドだった。

 個性としての感情を全て取り払ったかの如き声に、ギレアは一つ頷くと、自身の仕事を成すべく歩き始める。

 すぐ後ろに、執事の男と二名の騎士が続く。


 ――その直後。

 悠然と歩む侯爵の足を止める声が、唐突に発せられた。


「あのっ!!」


 牢屋の奥から駆け出してきたのは、先ほど弟を宥めていた少女だった。

 彼女は亜麻色の長髪を振り乱しながらギレア侯爵の近くまで走り寄る。そうして牢の鉄格子を強く掴むと、目一杯の声量で叫んだ。


「お願いです! どうか、どうか弟だけでも見逃してくれませんか!?」


 ギレアの細い目が少女へと注がれる。


「私でよければいくらでも好きにしてください! でも……でも弟はまだ五歳なんです! こんな小さな男の子、奴隷したってきっと何もできません!! だからお願いです、弟は解放してあげてください!」


 必死に訴えかける少女に、ギレアは狐の如き糸目を僅かに開き、泥のような視線を注ぐ。


「奴隷の価値の有無を決めるのは、生憎わたしではなく客だ。尤も、純粋無垢で幼気いたいけな子供など、労働力などよりも寧ろ、の方にちゃんと需要があるものだ。何も心配する必要はない」


「っ……わた、私が、弟の分まで頑張ります……! ですから、どうか弟だけは助けてください! 私に残された、たった一人の大切な家族なんです! おねが――」


「くどい」


 前触れなく、ギレアは少女が掴んでいる鉄格子を思い切り蹴り付けた。

 ガアァンッ!! という派手な音が響き渡り、衝撃で少女は大きく後ろへ吹き飛ばされる。


 檻の中で縮こまっていた奴隷の子供たちが、一斉に竦み上がった。


「い、いたい……」


「勘違いするなよ、お前たちは商品……〝物〟でしかないのだからなぁ」


 粘着質な声が反響する。


「物一つの価値が、倍に膨れ上がる事などありえぬ。ましてやお前という商品一つに、どれだけの価値があるというのだ? そこいらの愚民の抱き人形になるしか価値のないお前如きに」


「う、ぅ……」


 呻きながらも何とか立ち上がろうとする少女に、ギレアは数歩歩み寄り、格子の外から彼女の顔をずいと覗き込む。


「ふむ。まぁ、顔立ちだけは良さそうだな。ならば試しに、初期の価格を此奴こやつだけ引き上げてみるかぁ? 値段が張ろうとも、顔の良い幼子を欲する貴族はそこいらにいる。最終的に法外な金を出してまで手に入れようとする者がいたのならば、おおよそ其奴そやつは、幼女の純潔を奪う事に意味を見出している気狂きちがいなのだろうがなぁ」


 ボロボロのシャツの隙間から覗く、薄汚れてはいるもののハリに満ちた少女の柔肌を、細めた目付きで見下ろすギレア。

 その脳裏には、特殊な嗜好を持つ客のリストがずらりと浮かんでおり、高い金を積んででもこの少女を競り落とそうとする者がどれだけいるだろうか、という推論が行われていた。


「旦那さま、そろそろ」


「ん? あぁ、そうだな」


 執事の男から促され、侯爵は歩みを再開させる。檻の前から立ち去る直前、もう一度背後のメイドを振り返って指示を告げた。


「その少女には、一番上等なドレスを着付けてやれ。今日一番の売却額を叩きだせるかもしれぬからなぁ」


「はい」


 先ほどと全く同じ動作で、メイドは腰を折って応じた。

 奴隷の子たちがすすり泣く牢屋の前を後にしたギレア侯爵はその後、執事や騎士を引き連れたまま、自らも正装へ着替えるために専用の部屋へと戻る。


 後に残ったものは、恐怖による怯えが蔓延する空気だけだった。


「お、お姉ちゃん……」


「……ごめんね、ごめんね……」


 心配そうな表情を浮かべて歩み寄ってきた弟の身体を、少女は優しく抱き締める。

 そんな二人の様子に、周りの子供たちは胡乱げな視線を注ぐ。


 ――何を無意味な事を。助けを求めても、聞いてもらえる筈がないのに。


 彼らの瞳には、そんな諦念を孕んだ昏い光がありありと揺らめいていた。

 力を持たぬ自分たちは、上の立場にいる者に好きなよう弄ばれるだけの存在でしかない――。まだ生まれて十年とすら立っていないにも関わらず、奴隷孤児たちの心には、そんな観念が深く根付いてしまっている。


 それゆえに、彼らの中に希望などなかった。

 けれど少女だけは、何が何でも、望みを捨てるような事をしなかった。


 ガチャリ、という音が鳴る。ギレア侯爵に命じられたメイドが、牢の中へ入って来る。

 これから行われるオークションのために、奴隷孤児たちを別の部屋へ連れてゆくのだろう。


「……大丈夫、大丈夫だから……何があっても、あなたはお姉ちゃんが守ってあげるから……」


 自らへ歩み寄って来るメイドを鋭く見据えながら、少女はもう一度、弟を強く抱き締める。

 コツ、コツ、と硬い音を響かせながら迫るメイド。冷淡で、心が底冷えするかのような無表情がそこには浮かんでいた。


 震えあがりそうになる自分の身体を、何とか抑え込む。

 殴りかかってでも何とか隙を作りだし、この最愛の家族だけでも、ここから逃がして見せる――そんな決意を固めた少女の眼前で、メイドが洗練された所作で膝をついた。


 手が伸ばされる。反射的に少女は、目を瞑ってしまった。

 そして。


「――綺麗な髪ですね。今まで丁寧にお手入れをされてきたのが、ひと目で分かります」


「……え?」


 唐突に聞こえてきた穏やかな声音に、数瞬、少女は困惑した。

 女性のものと思しき手が頭の上に置かれ、何度も何度も、優しく撫でられる。


 その柔らかで慈しみに溢れた手つきに、少女は自分の身体からあっという間に強張りが抜けてゆくのを感じた。


 恐る恐る、瞼を開く。

 そこには当然、今まさに自分たちを連行しようとしていた長身のメイドがおり。

 けれどその貌に浮かんでいるのは、先ほどまで見ていた冷やかな無表情などではなく、優しさに満ちた薄い微笑みだった。


「あ、あの」


「大丈夫ですよ。もう何も心配ありません。……私はシェリアと申します。貴女たちを助けに来ました」


 その言葉に、牢の中にいる子供たちが一斉に反応を示した。

 困惑、硬直、猜疑。


 しかしシェリアと名乗った女性が浮かべている、怜悧でありながら穏やかな暖かさを灯す微笑みを見て、聞こえた言葉が本当なのだと次第に理解し始める。


 子供たちが歓喜の声を上げる――よりも数瞬早く、シェリアは細い人差し指を自らの口許に当てた。


「しっ、念のため防音の魔法を張ってはいますが、油断は禁物です。合図が来るまで、できるだけ静かにしていてください」


「……お姉ちゃんは、だれ? 正義のヒーローなの?」


 少女の弟が、姉の身体からゆっくりと顔を覗かせるようにして、問い掛ける。

 シェリアは暫し考えるような間を置いてから、ふるふると首を横に振った。


「いいえ、私はそんな大層なものではありませんよ。どちらかと言えば、私のあるじの方が、英雄と言うには相応しいでしょうか」


「あるじ……?」


 きょとんと首を傾げる少年に、彼女は「えぇ」と微笑みながら頷く。


 ――その瞬間。

 ドパァンッ!! という激しい破裂音が、どこか遠くより響き渡った。すぐ後に、何者かの甲高い悲鳴が連鎖する。


「ひぃっ!」


「な、なに!?」


 少女が弟を庇いながら牢の外を警戒する。しかし、二人を安心させるようにシェリアが姉弟の背中に手を触れた。


「ご心配なさらず。恐らく、貴女たちが侯爵の束縛から解放された、その合図だと思いますよ」


「? それってどういう……」


 怪訝な表情を浮かべる少女から視線を外し、メイド服に身を包む女は、唐突に自身の耳に手を当てた。


「はい。……はい、こちらは何も問題ありません。囚われた孤児たちの誘導ですが、ナナヤさまの合流を待った方がよろしいでしょうか?」


 少女はすぐに察した。

 この女性が魔法を用いて、誰かと念話をしてるのだと。


 シェリア以外には聞こえないやり取りが、幾つか交わされる。


「……分かりました。では、ナナヤさまは地下の広間へ向かい貴族たちの征圧。私は早急に、この子たちを外へ逃がします」


 そう言って、彼女は檻の中の孤児たちを見渡した。


「お待たせしました。これから皆さんを、館の外まで案内します。付いて来て頂けますか?」


 その言葉に、牢屋の各所で蹲っていた少年少女が、恐る恐るといった風に立ち上がり始める。

 それでもどう動くべきか惑う彼らに、姉弟の二人が率先してシェリアの後ろについてゆく。


「あの……」


 数十人規模の行列を成して館の廊下を移動しながら、少女は先頭を進む彼女に声を掛ける。


「はい」


「お姉さんは、その……いったい、何者なんですか? どうして私たちなんかを助けに……」


 その質問に、数十名の子供を誘導しながら、怜悧な貌の女性は思い悩むように答えた。


「どうして貴女たちを助けるのか……その理由は、実のところ私にも分かりません」


「えっ」


「けれど、それが私の主……ナナヤさまの命令なので。私はただ、その命令を遂行しているだけです。どうしてかなんて聞きません。私の中で、あの人が口にする言葉だけが、何よりも信頼できるものですから」


 そうして振り向いた彼女の顔には、それまでとは明らかに異なる、崇拝にも似た尊敬の念が覗く淡い微笑みを浮かべていた。


 その横顔がとても美しくて。

 思わず見惚れてしまった少女の視界の端で――不意に、廊下の角より現れる影があった。


 館の守衛と思しき屈強な男だった。廊下を集団で移動するこちらの様子に、即座に気付く。


「ッ、貴様ら! そこで一体何をして――」


 その声を掻き消すように。

 少女の傍らで、突風が吹き荒れた。


 否。

 瞬時に体勢を低くしたシェリアが、次の瞬間、無音の中に地を蹴ったのだ。


 数十メートルはあった空間を、刹那の間に駆ける。地を這うような肉薄だった。

 だが、相手もさすがは侯爵家に仕える者。シェリアの疾駆にコンマ数秒遅れて、素早く腰から剣を抜き放つ。


 けれど。

 その遅れが、男にとっての死に繋がった。


 剣が振り被られるよりも早く、シェリアはロングスカートの裾を大きくはためかせ、黒タイツで覆われた太股ふともものホルダーから極小の短剣を抜く。


 短剣、というよりも医療刀メスに近いか。

 それを逆手に握ったシェリアが、極度の集中により引き延ばされた刹那の時間のなかで、ようやく剣を振り下ろし始めた男の姿を捉える。


 女の姿が霞む。

 次の瞬間にはもう、彼女は男の背後に回り込んでいた。


「ッ――!?」


「貴方には何の罪もないかもしれません。ですが、これが主の命ゆえに」


 か細く囁かれた言葉。

 それと同時、シェリアの握る短剣が男の首筋へと突き立てられる。


 一連の行動は、どこまでも静かだった。

 刃が引き抜かれる。

 その時点で、とうに男は絶命していた。がくりと脱力した大柄な身体を、シェリアの華奢な腕が、確かに受け止める。


 絶叫が迸る事も、鮮血が噴き出す事もなった。

 一切の音を立てる事無く、悲鳴も上がらず、血も流さない中で行われた殺害。


 その所業はまさしく――のそれであった。


 男の身体を、シェリアはゆっくりと床に下ろす。その穏やかな動作は、死者に対してさえ慈しみを抱いているかのようであった。


「……きれい」


 するりと立ち上がった彼女に対して、誰かがぽつりと呟いた。シェリアの及んだ行為が、殺人であると気付いていないがゆえの、純粋な言葉だった。


 ――その、穢れを知らぬ呟きに、当のシェリアは薄く眉を顰めた。自分の中から、良心の呵責を懸命に切り離すかのように。


(綺麗……私から、最もかけ離れた言葉ですね)


 自らが抱く〝咎〟を思い出す。ズシリ、と両肩に重い何かが圧し掛かった気がした。


 だが彼女は、その重さと穢れを、背負い続けると決めたのだ。自分を地獄の底から救い出してくれた、ある少年の意思に報いるためにも。


 シェリアはおもむろに振り向く。

 奴隷孤児の子たちが密集する廊下の、その更に奥を見据え、おおよそそこにいるであろう〝あるじ〟の少年に、小さく言葉を送る。


「ご武運を」



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