水族館と君と僕

猫喰窮鼠

本文

 五月八日。世間では世界赤十字デーらしい今日の朝のニュースは、アンリ・デュナンの特集が垂れ流されていた。

 ……呑気だな。

 普段は思わないような刺々しい感情が今日だけは心を突付くのは、少しだけ許して欲しい。誰にともなくそう思いながら、僕は手元のスクリーンに視線を落とした。

 ぴぴ、と電子音を聞きながら、愛用しているデジタル一眼を設定していく。

 シャッタースピードを少し早めて、ISO感度は自動でいい。ホワイトバランスを調整して、白い壁紙を覗きこむ。ファインダー越しに映った白色は微かに青みがかっていた。

 よし。一人頷いて、忘れてたことに慌てて気付いて僕はストロボを切った。

 水族館でのストロボは厳禁。初めて君といった水族館で、得意げに教えてくれたのがそれだった。

 ……本当は知ってた。普通に考えて、瞬間的に強い光を動物が好むはずがない。でもあんまり得意げに言っていた君を見たら、素直に頷いていたくなった。

 不意によぎった思い出にささくれた心が少しだけ楽になる。

 カメラをバッグにしまい込み、立ち上がった。

 五月八日。世間では世界赤十字デーだというこの日は、僕にとっては君に渡す写真を撮る日だった。






 同じカメラという趣味で僕と君は出会った。SNSで流行った競作のハッシュタグを見て、何となく仲良くなって、写真を撮りに行こうとなって、自分はどちらかと言えば出不精だったのでフットワークの軽さは我ながら珍しかった。

 思えば、その時から少なからず僕は君を意識していたのかもしれない。

 水族館は、正直そこまで好きではなかった。どちらかと言えば動物園の方が好みだ。獣特有の匂いに少しだけ非日常感を感じられるから。

 だから毎年ここに来よう、と思うのは君のおかげだ。

 初めて手を繋いだ。入るときはお互い緊張してぎこちなく、出る頃には指が交ざっていた。

 初めて君の笑顔を見た。顔を合わせればはにかむように、巨大水槽で泳ぐシャチに感動するように、器用にショーをこなすイルカに感心するように、ペンギンの散歩に庇護欲をくすぐられて、それ以外にも沢山。コーナーを回る度に君はいつも違う表情で笑っていた。

 初めて唇を合わせた。日が暮れて、世界が少し大人びる時間。その雰囲気にあてられて、僕らは初めて影を一つにした。暖かくて、心地よくて、幸福で、体温を分け合った瞬間、僕の世界からは音も光も消えていた。

 初めて君と会って、初めて君を好きになって、愛して、結ばれて。


 ──そして、初めて君を喪った。


 心にぽかりと開いた穴を僕は未だに埋められずにいる。立ち止まって、前に踏み出せずにいる。

 もし今の僕を見られたらこっ酷く怒られそうだな。不意に思って、それでもどうにか入場券を買った。

 心で二枚。実際は一枚。二年前のこの日を想いながら、僕は半券を渡して館内に歩いていく。

 入場口に入ってすぐ。イルカ達の大水槽を通して、太陽の光が館内を青く、蒼く、碧く照らしていた。






 シャッターを切って、ファインダーで捉えた情景を切り取る。一枚の写真紙に自分の感じたモノを閉じ込める。

 現実を作品に仕舞い込む。そんな瞬間が好きで、だから僕がカメラを手に取るのは多分必然だった。

 南の海をイメージしたのか、色とりどりの魚達が行き交うパノラマ水槽を前に僕はカメラを構えた。少し光量を絞るような演出が多い水族館では必然的に露光を強くしがちだ。だから少しの手ブレで写真は簡単に駄目になってしまう。

 息を止める。鼓動にさえ煩わしさを覚えながら、僕はシャッターで目の前の視界を切り取った。

 同じように続けて四回繰り返して液晶を確認。微かなブレと構図への微妙な不満を見つけて、僕は密かにため息を吐いた。

 ささやかでひっそりとした作品を好む僕に対し、賑やかで時には喧騒さえ感じさせるような明るい作品が君は好きだった。

 だから、毎年この日に撮る写真は中々いい作品が決まらない。去年なんて閉館十分前になって漸く構図を決め、納得出来た一枚が撮れたと同時に閉館時間を迎えた、という体たらくだった。

 気を取り直して、カメラを構える。今度は何か一匹にフォーカスしてみるか。いや、他のところを見てみてもいいかもしれない。

 あーでもないこーでもない、と考えながら僕は少しずつ自分の世界に沈んでいく。

 パシャリ。写真に封じ込めた景色は、それでも心を震わせるほどでは無かった。






 交通事故だった。過積載で制動を失ったトラックが歩道に突っ込み、そこに君が居た。

 ありふれた不幸。ニュースでよく見た対岸の火事。いざ自分に降り掛かってみれば、それは結構な地獄だった。

 三年前の今日。

 喪失感。悲哀。怒り。恨み。色んな感情が綯い交ぜになって、だから僕は逃避を選んだ。

 大好きだった君が、大好きだった、そして同じく僕も好きだった写真撮影に。

 何処に行こうかと思ったときにいつも水族館を選ぶのは、多分君と一番最初に二人で来た場所だからだと思う。

 別に動物園でも良いのだ。公園でも、登山がてら山で風景写真を撮っても良い。家を出てすぐの住宅街でも撮ろうと思えば画になる写真は幾らでも撮れたりする。

 それでも水族館が良かった。君の好きな色彩豊かなパノラマ水槽でも、いつも可愛い可愛いと張り付いていたペンギンでも、ダイナミックに水面を突き破るイルカショーでも、どこか気の抜けるクラゲでも。

 あそこには君と集めた想い出が一杯あって、僕はまだそれを捨てきれないから。

 未練がましく、女々しく、みっともなく、僕は三年前に齧りついて離さない。

 ウインウインと音を立てていたプリンターが動きを止めた。

 吐き出されたL版の写真紙には、水中から今日一番の大跳躍を見せたイルカが空中で下弦の月を思わせるように切り取られていた。

 印刷したてのそれを、次に僕はラミネーターに掛ける。そうして紫外線を防ぐフィルムに包まれた写真を持って、僕は車に乗り込んだ。

 向かう先はお墓だ。君が眠る墓石の中、骨壷の隣に今日撮った写真をそっと添える。


「……ごめんよ、僕はまだ、君が忘れられそうにないや」


 震える唇から感情が零れ落ちる。


 ──大好きだよ。


 君から最期に聞いた電話越しの声。

 お茶目な君が電話の切り際に一方的に言った甘い甘い一言。

 僕が答えを返せないままの悪戯っぽい愛情表現は、未だに僕の心に残っている。

 だから僕は、いつも君にこう言って帰るのだ。


「僕も、とってもとっても、大好きだよ」


 届かないとは、分かっていても。

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