またこの花を、君に

神楽坂

第1話

 ——ずっと、待ってるから。いつか来ると約束した君を。いつまでも——

 

 目が覚める。浅い呼吸が聞こえ、体が布団にめり込む程の重力を感じると、「あぁ、朝だ。」と思う。重い体をのそりと起こすと、乱れた髪がまつ毛にかかる。起きてすぐは不思議な程思考が浮かぶ。声に出すことはないが。

 また始まる退屈な今日に乾杯して、私はパンを頬張る。テレビの中では昨日と差程変わらない内容の犯罪ニュースが流れている。昨日と一分変わらぬ動作を一分変わらぬ速さで終え、昨日と同じ言葉で家を出た。同じ言葉が返ってくる。ちりんと揺れるフウリンソウが色付けている公園を横断する。明るい笑顔で挨拶してくるわんちゃんにお辞儀をし、毎日ベンチに座っている男性を横目で見ながら駆け走る。変わらぬ光景に何も感じることもなく、また今日が過ぎてゆく。

 教室の後ろの方で、扇風機にあたりながら授業を受ける。暑いはずの教室内も、私の席は快適だった。午後はどうしても体に力が入らないから、目蓋が知らぬ間に閉じていく。蝉と風の鳴き声が、先生の音より大きくなったとき、私はコロンと落ちていく。

 昔から見る夢がある。地から天に落ちるような不思議な感覚と、深い霧が私を包み込んだとき、それは訪れる。私の思う一番素敵な街並みで、そこに置かれた一つのベンチが気にかかる。とても小さくて可憐なカスミソウが私にふわりと息を吹きかけた。何かがそこにいるけれどよく見えない。すごく大切な、大事な気がするのに。ただ真っ直ぐ私のことを見ていた。

 ——さぁ、時間切れだよ。もうお帰りなさい——

 長いようで短い夢。大きくなるにつれてその夢を見ていられる時間も長くなったような気もするけれど。

「おはよう、いい夢見られたか?」

 あ、やってしまった。皆が私の方を見ているのが恥ずかしくて、小さな声で、

「……すみません。」

 

「それにしても、ガチ寝してたね。」

 結がニヤニヤしていることが、顔を見なくてもわかる。

「仕方ないじゃん。あの席快適すぎるよ。てか新太も寝てたでしょ。」

「俺はお前が怒られてる声で起きた。」

 だからバレてないとでもいうような顔で笑う。今年から高校生になったが、学校は近所だし、友達も大勢一緒に入学できたからあまりこれと言った変化はない。好きな人だっていないし。

「えー、一緒に放課後遊ばないの?」

「うん、ごめん。めっちゃ眠い。」

 親友からの嬉しい勧誘を断り、授業が終わると早々と教室をでた。

「あれ、あいつもう帰ったの?」

「眠いんだって〜。」

 なんて二人の会話が聞こえないくらい早足で歩いた。誰もいない帰り道を歩く。朝通った公園に入り、またあの男性がベンチに座っていたが、吹く風と共に素通りした。数分で家に着いては、誰もいない部屋でベッドに転がりこみ、ただ一連の流れのようにそのまま眠った。

 優しい暗闇が私を誘い、天に落ちていく。厚い霧が一瞬で晴れると、そこはやはり夢の中だった。歩く感覚はないが確かに前に進んでいくと、いつものベンチに何かがいた。話しかけてみようかな。

「こんにちは。貴方は何?」

(こんにちは。君こそ何?)

「知らないものに名乗りたくないわ。」

 姿は見えなくとも呆れられているのがわかる。

(分かった。じゃまず姿を見せてよ。)

「……何?私が見えないの?私も貴方が見えないけど。」

(じゃ俺を見たいと思って。想像して。)

 俺ってことは男の子かな。金髪の背の高いイケメンを想像しながら目を瞑る。数十秒後目を開けると、そこには同い年くらいの男の子がいた。黒髪のパーマが似合う、背は余り高くない男の子だった。

「……想像と違くてがっかりした顔だな。」

「そっちこそ。」

 しばらくの沈黙のあと、彼から言った。

「君だれ?なんでここにいるの?」

「こっちのセリフなんだけど。ここ私の夢の中だから。」

 彼はわざとらしく驚いた素振りをして辺りを見回し、「あぁ、そっか。」といった。ほんとに知らない人だったけど、だからこそなのか、私達は気軽に話せた。

 ——さぁ時間切れだよ。もうお帰りなさい——

 目を覚ますと、夜の暗さが目に映った。月の光が差し込んだ所だけは、宙の塵が幻想的に輝いていた。

「どうしたの?ぼーっとして。」

 結が私の顔を覗き込んできた。昨日の彼の顔が忘れられないの。なんて言える訳がない。

「何でもないよ。ちょっと寝たいだけ。」

 また眠いの?なんて顔で見てくるけど、眠い訳じゃないよ。ただ寝たいだけ。

 月の光が弱い夜、私はそこに行けた。

「何、その花。」

「リナリアって言うんだ。綺麗だろ。」

 淡いピンクの小さな花が、金魚のようで可愛らしかった。彼とは似つかわしい。

「何でそれを持っているの?」

「持ってきたんだ。俺の夢から。」

 まるで夢から夢へ旅しているかのような言い方だった。

「私も君の夢に行ってみたい。」

 彼が零れた言葉と私の顔をじっと見て黙ってしまうから、少し恥ずかしくなってしまった。

「別にいいよ。強く願うんだ。ここはお前の夢の中だろう?願えば何でも叶う。」

 瞳を閉じて強く願う。願えば叶う。

 目蓋の内側が暖かい光に染まり、空気によってゆっくりと持ち上がる。終わりの無い程に広がるのは色とりどりなガーベラ。彼の髪が風になびき、花びらが宙を舞う。どこか寂しそうなその姿に目が離せなかった。

「ガーベラの花言葉さ。知ってる?」

 私は静かに首を横に振った。

「じゃあさ。調べてみてよ。」

 彼の姿がだんだんぼやけてみえて、声が少しずつ

 遠ざかっていく。

 ——さぁ時間切れだよ。もうお帰りなさい——

 次の日、図書室で花言葉の本を借り、早々と学校を出た。天気も良かったので、いつもの公園で読んでみることにした。

「ガーベラ」花言葉は神秘的な美しさ、希望、そして悲しみ。彼は私に何か伝えたかったのか、それともただの気まぐれだったのか。暖かい風が私の髪に優しく何かを囁く。今日も男性がベンチに座っていた。手には黄色いクロッカスを持っていた。意味は……「私を信じて」小さな花弁と男性の綺麗な黒髪が共鳴しながら静かに揺れていた。

 蝉と一緒に私の夏は過ぎてゆく。その頃にはもう「友達」と呼べる仲になっていた。

「毎日一緒に学校に行っていて仲の良い友達がいてね。あぁ、学校に行く途中に毎日同じベンチに座っている人もいてね。……」

 彼はあまり自分の話をしなかった。その代わり私は自分のこと、周りのことを細かく話していた。大抵は私の夢の中で会って、偶に彼の方にも行っていた。相変わらず綺麗な花が一面に咲き誇っていて、心を奪われる。ホウセンカ、ジャスミン、アカシア……。まるで彼の心を代弁するかのように不定期で移り変わる花々が私の楽しみの一つだった。

「ちょっと、私の話聞いてる!?」

 急に結の声がして、びくりと飛び退く。

「え、あぁ。ごめん、ぼーっとしてた。」

「最近大丈夫?ずっと上の空じゃん。何か悩みでもあるの?」

 夢の中での時間が長くなる程、起きてる時間は短くなる。私は普通に過ごしているつもりでも、周りは違和感を感じるらしい。隠そうとするから尚更だ。光が溶け込んだように白い彼岸花が私の心で開花する。気にしないで。私はこの秘密に喰われたいの——。

 数日、彼は現れなかった。虚無の世界で私は彼だけを待っていた。次に彼と会ったのは、雨が静かに空を割いた日だった。モノクロの景色では、彼の持っていた純血のように紅いアネモネが映えていた。しかしもっと目に付いたのは、生々しい傷で薄汚れた彼の姿だった。

「どうしたの?何でそんなに怪我してるの?」

「何でもない。お前には関係ないよ。」

 触れるべきではないと分かっていながら、私は彼の胸ぐらを掴んだ。

「関係なくてもこんな傷付いていたら心配するに決まっているでしょ!?」

「別に心配されたくないし。ほっといてよ。」

「ほっとける訳ないよ!!何が……!」

 そこまで言って言葉が詰まった。彼の瞳は私を、いや、何も映していなかった。一体、何を見ているの。

「ごめん。君には、いつも通りに接して欲しいんだ。」

「……分かった。」

 いつも通り話をした。いつも通り接した。どこか裂け目を感じながら——。

 最近朝を迎えると、私の体には鉛が埋まっているんじゃないかと思う。磁石のようにベッドに引き寄せられそうになるのをどうにか我慢して、私はダイニングで朝食をとる。

 脳裏に浮かぶのは最後まで変わらなかった彼の瞳。闇に堕ちては、花の色など見えもせず。なんてね。

「……先日、大阪の付属池田小学校で男が乱入し、刃物で無差別に殺傷する事件が起こりました。この事件で生徒八人が死亡し、十五人が重軽傷を負いました。……」

 テレビの中のアナウンサーが用意された出来事を淡々と喋る声がリビングに響く。

「怖いわねぇ。そういえば昔、イギリスでも同じような事件があったわね。ほら、日本でもかなり大きなニュースになったじゃない。」

 母さんがコップにお湯を入れる音が、父さんの耳に届いたのだろう。

「あぁ、あの日本人の男の子が被害にあったやつか。あれは可哀想だったなぁ。」

 全身の鳥肌がぞわっと反応した。嫌な予感と共にどうしようもないくらいの吐き気に襲われる。ふらりと立ち上がると、私は父さんの前に立った。

「……その事件、詳しく教えてよ。」

 悪い予感というはいつだって的中するものである。どこかの漫画で読んだ台詞だ。今は思い出したくなかったのに。

 十六年前、イギリスのロンドン中心部にある高校で、不審者が学校内に侵入し、生徒を刃物で無差別に切りつけるという事件が発生した。この事件で当時十六歳の生徒五人と、十七歳の生徒七人、十八歳の生徒二人と教師一人が重軽傷を負い、そのうち三人が死亡した。犯人はそのまま逃走。そしてその数日後、ケンジントン公園で犯人を嗅ぎつけた別の生徒三人が仕返しをしようとして返り討ちにあい、一人が死亡した。

 その時死亡したのは当時十六歳だった日本人。

 名前は——石川紫苑。

 自分の耳を疑った。下流のように流れる脳内でも、その言葉だけはしっかりとすくい上げた。今の名前は、知っている。本人から聞いた訳ではない。だがやはり。

 鼓動が煩い。脳が張り裂けそう。

 息が続かずどうしようもなく苦しい。涙が止まらない。

「ちょっと、大丈夫?しっかり!」

 体が灰になり、意識と共に崩れ落ちていく。

 私はその少年を、知っている。 

 モノクロの世界で黒いチューリップが揺れる。その中心で月のように真っ白な月下美人が私に気付いてと言わんばかりにたった一輪咲いていた。そこには誰もいなかった。哀しいかな。全てが叶うこの世界で、君に会うことは出来なかった。何も知らない自分を憎んだ。何も教えてくれない君を怒った。何も出来ない私を恨んだ。涙の痕には黒い瞳が包み込む。何も無い世界で、それでも私は、君に会いたい。

「あ!気が付いた!」

「ごめん……。」

 急に学校を休んだ私を見舞いに来てくれたのだろうか。結が私を見ていてくれているのが嬉しかった。体の内側が仄かに、確かに燃えているのが分かる。

「大丈夫かよ。急に倒れたって聞いて心配したんだぞ。」

「……ごめん。」

 新太の言葉が嬉しかった。汗が目に染みる。じゃあ彼には?今まで、彼の傍には誰がいたのだろう。ずっと何を思ってきたのだろう。お前には関係ない。そう言われたとしても、やはり私は、君と同じ夢を見ていたい。

「……なぁ、少し聞いてくれるか?」

 新太が私の眼をじっと見つめる。

「お前が何を考えていて、何を想って泣いているのか俺には分からない。でも……でもさ、お前をそんなに苦しめさせるんなら、もうやめなよ。無神経なことかもしれないけどさ、嫌なんだよ。お前が辛そうなところを見るのは。」

 光の錯覚か、顔が仄かに赤くなっているように見えた。ありがとう、心配してくれて。その言葉をふわりとのせて、私は静かに微笑んだ。

 それから過去の新聞やら文献やらを片っ端からあさり、もっと詳しく調べようとした。だが少年事件だったこともあり、限界があった。いいんだよ。もう無理して調べなくて。諦めていいんだよ。なんて声が聞こえる。五月蝿いんだよ、君はいつも。少しは静かに私を頼ってよ……。

 次に彼に会ったのは、あれから何日後だっただろうか。オレンジ色の、仄かに火を灯したランタンのように凛と揺れるサンダーソニアを指で撫でて座っていた。その花と誰かを重ねるように、愛おしいと触れていた。

「可愛い花だね。今はその花が咲いているの?」

 私に気付いていなかったのか、こちらをしっかり見てから微笑んだ。

「見たい?」

 私が頷くより先に周りで花が舞うと、不思議と心が落ち着いた。大丈夫だよ。彼をよろしくね。なんて声が聞こえた気がした。

「……君の話が聞きたいの。君が今までどんな風に育って来たのか。どんな人と会ってきたのか。」

 彼は驚いたようにこちらを見つめる。

「珍しいね。そんなこと聞いて来なかったじゃん。」

「だから知りたいの。」

 私の瞳はしっかりと意志を持っていただろう。彼は少し溜息をついて答えた。

「嫌だよ。言いたくない。」

 分かっていた。彼が言いたくないことくらい。それでも、知らなければ。彼の傍で笑っていたいから。

「石川紫苑。」

 彼の顔が強ばる。空気が重く、冷たく感じる。

「君の名前でしょ?この前記事で読んだの。」

「……。」

 伝えるべきなのか、今でも正しい答えが分からない。でも、言うべきだと思うから。

「驚くだろうけど、私達の間には、十六年の差がある。私は君の十六年後に生きているの。君にとっては数日前の、ロンドンで起きた無差別殺傷事件。あれ君の学校でしょ?」

 長い間の沈黙があった。私の発言全てに驚いているのだろう。そう思ったが、彼の口から出た言葉は、意外なものだった。

「十六年……かは分からなかったけど、俺達の間に捻れがあるのは何となく分かってた。お前の話を沢山聞いてくうちに、俺の知らないことが溢れてて、それで気付いた。」

「え、そうだったんだ。」

「それと……あれは、無差別殺傷事件なんかじゃない。あれは、計画的な殺人事件だよ。」

 綺麗な黒髪をくしゃりと掴みながら、絞り出すような声で言った。

「どういうこと?だって、そんなこと何も書かれてなかったのに。」

「……そうだろうな。事実を知っているのは数人だけだよ。」

「教えてよ。」

「……嫌だって言ったろ。もう、首突っ込むなよ。」

 あの時と同じ、彼の瞳は私を映していない。だけど、じゃあ何故彼はあの日私に会いに来たの?何故あの時、アネモネの花を持っていたの?

「もう、引き下がらないから。」

 君が私に助けを求める限り。私が君と一緒にいたいと願う限り。

 真っ直ぐな瞳が通じたのか、日の色をした暖かな風が吹き上がり、辺り一面の花々が色とりどりのアイリスに変わった。依然として彼はこちらを見ないけれど、小さな声で言った。

「分かったよ。ただ、聞いても同情とかしないで。」

「俺さ、姉さんがいたんだ。二個上のね。昔は日本に住んでたんだ。俺も、姉さんも……」

 生まれた時から、父さんはいなかった。俺が生まれた直後に姿を眩ませたらしい。まぁつまり、俺達を「捨てた」んだ。でも母さんはそれを信じようとしなかった。ずっと、いつか帰ってくるって、そう言ってた。それでも辛くなった時は、俺や姉さんに当たってた。今でも殴り蹴られた腹の傷が残ってるさ。それから何年か後、俺が十歳のときに母さんが自殺した。雨が煩い日だった。橋の上で狂ったように踊りながら川に落ちたらしい。酷い母親が死んだところで、俺は何とも思わなかった。悲しくはなかった。なかったのに、何故か涙が流れたのは覚えている。あんな親だったけど、嫌いなほど憎いけど、愛していたんだ。

 吹いてくる風が心地よかった。はらりと舞うアイリスが、私達を繋ぎ止める。私は彼の姿を瞬きもせず見つめていた。深く息を吸ってから、彼は続けた。

 それから俺達は色んな家をたらい回しにされて、最終的に今のロンドンの家に落ち着いたんだ。とても優しい人達で、すごい感謝してるよ。ロンドンの学校にも慣れて来たとき、姉さんが彼氏をつれて来た。嬉しそうだったよ。優しそうな人で、俺も嬉しかったさ。そんなある日だった。急に姉さんが部屋から出てこなくなったのは。家の人達も心配して、何回も事情を聞こうとしたけど駄目だった。誰とも会おうとしてくれなかったんだ。俺は不安に思って姉さんの知り合いに片っ端から問い詰めた。そしたら驚くことを知ったんだ。姉さんの彼氏は、薬の密売人だった。あんな優しそうな人がって思ったよ。姉さんは彼氏に付き合わされていたらしい。最初は薬の取引の中継役として。そのうちに多分、使っていたんじゃないかって。そしてあの事件の数日前、姉さんが自殺したんだ。雨の煩い日に、橋の上で狂ったように踊って、そのまま川に落ちたらしい。どうしてもその姿は、母さんと重なってしまうんだ。そのときの記憶はあまり無いよ。ただ何度も吐きながら泣いたんだ。涙が枯れても、喉が潰れても、ずっと叫んだよ。そしてあの日、あいつが、姉さんの彼氏が刃物を持って学校に乱入してきた。俺を殺すために。俺があいつの秘密を知ったから、警察に言われるのを恐れたんだろう。あいつは俺を探しながら、目に映るもの全てを傷付けた。俺の友達も、先輩も、先生も。あいつは俺を見つけた時、狂ったように笑いながらナイフを向けてきた。逃げ回ったよ。怖くてたまらなかった。何ヶ所か切りつけられたかな。でも警察がきてさ、逃げてったから命拾いしたよ。ほんと、関係ない人達が死んで、俺が生き残ったんだ。何でだろうな。

 

 彼が必死に震える手を握りしめているのが分かった。堪らなく涙が止まらなかった。そっと体を抱きしめてから静かに、静かに……彼のポケットの中のナイフを奪った。

 驚いて動揺する彼に対し、私は冷静だった。

「なんで、持ってるの知ってんだよ!」

「言ったでしょ。記事を読んだって。これから君が何をしようとしているのか知ってるんだよ。」

「返せよ。」

「嫌に決まってるでしょ。絶対そんなことさせないから。」

 苛立ちながら、彼は私に飛びかかってきて、押し倒す。もがきながら抵抗し、私はナイフを彼に向ける。

「君は殺されるんだよ。返り討ちにあう!だから絶対渡さない!」

「……殺されるのは、俺だけか?」

 冷たい声で、彼は言った。私は躊躇ったが静かに頷いた。

「だったらいいよ。俺が死んだところで、もう何も。俺の家族はもういないんだ。俺は…死んでもあいつを殺したい。」

 彼は消えそうな声で、ずっと胸の奥で潰れていた言葉を吐き出した。

「……野生の狼みたいな瞳しないでよ。」

 私はそっと彼の髪を撫でた。

「何も、無いなんて言わないで。私は君と同じ夢を見ていたい。君には死んで欲しくないんだよ。」

 彼の瞳が少しずつ落ち着きを見せてきたのが分かった。もう一押し。

「お願いだから、死のうとしないで。私と生きてよ。」

「でも、俺達はもう会えないだろ。」

「会えるよ。私が会いに行くよ。十六年、待たせちゃうけど。」

「十六歳上だぞ。倍の年離れているんだぞ。」

「来年になったら私は十七歳、君は三十三歳。五年後には私は二十一歳、君は三十七歳。倍じゃないよ。」

 優しく微笑む私の顔は、彼の心に映っているだろうか。彼の涙が私の頬を伝ったとき、私はナイフを自分に向ける。

「本当に来てくれるんならさ、俺はお前の近くで待ってるよ。ずっと、いつまでも。」

「会いに行くよ。絶対に。……ねぇ、最後にさ、私の名前呼んでよ。分かるでしょ?」

 一瞬目を開いてから、優しい声で言った。

「——茉莉花。関、茉莉花。」

 顔を赤らめながら言う彼が新鮮で愛おしかった。彼はゆっくりと私に顔を近づける。そしてナイフが胸に刺さるとき、私は彼と口付けした。

 その瞬間、辺り一面が無数の鮮やかな向日葵に覆われる。眩しいくらいに美しい花びらが宙を舞う。何度生まれ変わっても、あなたを愛しています。

 誰からこちらを見て微笑んでいる。優しい風が私達を包み込む。

 ——ずっと、待ってるから。いつか来ると約束した君を。いつまでも——

 

 記憶が流れ込んでくる。目を覚ました少年が、優しい心で決意した。心配してくれている人達の前に立って、凛とした顔で言う。

「俺、日本に行きたいんです。どれだけかかっても、絶対に。」

 どれだけ苦労したのだろう。大学卒業後、少年は日本に旅立った。少年は自分の記憶を辿りながら、ある少女を探した。まだたった七歳の少女を。そして、軽やかに鳴るスズランが咲くある公園で、やっと見つけた。会った瞬間、彼女だと分かった。だが、まだだ。彼女が本当に会いに来るまでは、まだ。それまで君を、ここで見守っているよ。

「何をしているの?」

「人を、待っているんだよ。」

「いつまで待っているの?」

「いつまでも、彼女が会いに来るまで。」

「何で待っているの?」

「いつか会いに来ると、約束したから。」

 だから、ずっと……。

 暖かい光で、まぶたをゆっくりと起こした。雫が頬を流れているのを感じた。刺された胸が痛い。胸元をみると、微かに傷が残っていた。ぎゅっと痛む胸を抱き寄せる。体を起こし、外に駆け出す。ずっと、待っててくれたんだ。毎日、私のことを待っていたんだ。涙が止まらない。彼のいる場所は分かっている。いつも見ているから。いつも見守っていてくれたから。

 いつもの公園で、やはり彼はそこにいた。満開の小さな花を風で揺らすハナミズキの下で、彼はベンチに座っていた。

「……何をしているんですか?」

「人を待っているんです。」

「ずっと待っているんですか?何で待っているですか?」

 震える声を必死で押し出す。それに気付いたのか、彼は顔を見上げ、こちらを見る。

 やっと、目が合った。

「会いに来ると、約束したから。だから、ずっと待っています。」

「……でも、もういいかな。」

 彼は立ち上がり、私の髪を優しく撫でた。

「やっと会いに来てくれた。」

「いっぱい待たせてごめん。待っててくれて、ありがとう。」

「当たり前だよ。約束したから。いつまでも待ってるさ。」

 甘くふわりと舞い散る花びらが、優しく二人を包み込む。いつまでも、ずっと——。

 華やかな光がよかったねと、私達を抱きしめる。見守っていてくれてありがとう。光に優しく溶ける笑顔に、そっとハナミズキの言葉を贈る。

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またこの花を、君に 神楽坂 @kagurazaka1916

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