小さな奇譚集
雨屋 涼
九十九の家
古びた台所に足を踏みいれると、食欲の失せるような熱気が纏わりつく。大きな擦りガラスからは日差しがさしこみ、電気をつける必要もない。
やっぱり我慢すればよかった、と少女は部屋から出たことを後悔した。
冷蔵庫を開くと微弱な冷風が漂う。少女は機嫌を持ち直して中を覗いた。所狭しと詰めこまれた食材を見て、ばたんと閉じる。
「すぐ食べれるものないじゃん」
食料を探して戸棚をあけると素麺があった。いつのものかは知らないが、きっと食べれるものだろう。
「これでいっか」
少女は片手鍋を取りだし、湯を沸かす。
火をつけると台所はうだるような暑さになった。額から汗が垂れる。少女は袋の素麺を鍋に放りこんだ。
白い湯気をあげて煮立つ湯は、地獄の窯のようにもみえる。素麺は悲鳴あげて身をよじっていた。少女は二分間素麺を眺めると、時計も見ずに火を止めた。蛇口をひねると生ぬるい水が流しに放出される。
「熱っ」
取っ手を握ると指に痛みが走った。中途半端に持ちあがった鍋は支えを失い、落下する。まずい、と少女は鍋が落ちるのを眺めて思った。蛇口から流れる水の音がやけに大きく聞こえる。
間延びした時間のなかで鍋はゆっくりと落下し、少女の足元に落ちた。
熱いだろうと身構えた足元で、鍋の水はたぷんと揺れて縁までせり上がり、溢れることなく戻っていく。
ふーっと溜息がでた。
「危ない危ない」
少女はそっと取っ手に触れて熱くないことを確認すると、鍋を流しに移動させた。ステンレス製の片手鍋は、市販では見かけないような深底になっている。少女は気にも留めずに鍋の中身を水にさらし、茹であがった大量の素麺を皿に盛りつけた。
「麺つゆあるかな」
冷蔵庫を開くと真っ先に目にはいる位置にボトルを見つける。冷凍庫には氷まで入っていた。じんわりと痛む指を冷やすと、ほどなくして火傷は治まった。
少女は上機嫌になって素麺セットを持ち、部屋に戻る。
台所からはふーっと、一段と大きな溜息がした。
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