一室にて、光り輝く

上海公司

第1話

疲れた。

死にたくなるほどに。


青年はひどくシンとした部屋で独り仰向けに寝転がっていた。壁にかけられた灰色の時計の秒針がやたらと耳に響いた。その規則的な音を聞いていると、次第に自分の身体から魂と呼べるものが抜けていき、どこか別世界へと吸い込まれていってしまいそうだった。


ここの所青年はずっと疲れていた。

日々繰り返される上司からの叱責と、客からのクレーム。寝て起きて怒られての繰り返しだった。天気も曇天模様が続き、洗濯物の乾きが悪かった。乾きの悪い洗濯物のからは湿っぽい嫌な匂いがした。

どうでもいい事だが、今朝イヤホンを無くした。別段高いものではない。スマホを買った時に一緒についてきたものだ。

それなのに青年はそれを躍起になって探した。今朝、出社前のことだ。部屋にかけられた上着のポケットというポケットに手を突っ込んでみたけど見つからなかった。

たったそれだけの事で、まるで長年大事にしてきた宝物をなくしてしまったかのようにぽっかりと穴の空いたような気持ちになった。

通勤時間に電車に揺られながら聞いていた音楽がいかに自分を人間たらしめてくれていたかが分かった。音楽の代わりに聞こえてきたのは、駅のアナウンス。(会社の最寄り駅が近くなるにつれて胸が苦しくなる)地下鉄が線路を走るゴオゴオという音。それから満ち足りた「今」を過ごしている学生達の会話だった。


ピー、と無機質な高い音がする。

炊飯器でご飯が炊けた音だ。しかし、青年は起き上がるとこすらもはや億劫になっていた。別にこのまま一生起き上がらなくたってかまいやしないんじゃないかとすら思えてくる。

先程帰り際に食べたコンビニの菓子パンがまだ胃の中に残っている。疲れている時には甘いものが美味しく感じるというのは多分ほんとなんだろう。そうしてこれ以上エネルギーを使うわけでもないのに、帰り道で500と数円を消費している事を青年は今更ながら後悔した。

何にしても青年にはわざわざこれ以上胃にものを入れなければならない理由が見つからなかった。


こんな日々がいつまで続くのか。青年はぼんやりと考える。別に何か問題があるわけではない。青年は親のスネを齧るでもなく、独りで立派に生きていた。安いマンションで独り暮らなので、貯金も少しばかりはあった。こんなものかと割り切ってしまえば、それで済む話だ。


青年は不自由ではなかったが、決して自由ではなかった。


青年は不幸でなかったが、決して幸せではなかった。


「それは一体どうしてだろうね?」


小さな光を放った精霊は青年に問いかけた。

気づいたら青年の家の部屋の電気は消え、真夏に宙を舞うゲンジボタルの発光のような色をした精霊だけが唯一その空間で輝いていた。


「どうしてか分からない。」


青年は答えた。


「君には大切な人がいた。」


精霊は黄緑色の光の中で青年に向かって言った。青年は仰向けに寝転んだまま、精霊をぼんやりと眺めていた。夢か現か、青年には分からなかった。

ただ、その光はどことなく青年を懐かしい気持ちにさせた。青年の頭に遠い昔の記憶が蘇ってくる。


今よりももっと暑い季節だった。

その日の夜は今よりも闇が深かった気がする。その日、空からゆっくりと孤を描くように降りてきたその光は少年の心を煌々と照らした。


隣にいた少女も少年と同じくその光に心を奪われてしまっていた。二人して夜空を照らす、その大きな花火に見惚れた。

帰り道、少年は冷たいソフトドリンクを飲んでいたので、ソフトドリンクの容器を持っていた右手がひんやりとしていた。むしろ少年は右手が汗ばむ事が嫌だったから、冷たいソフトドリンクの容器をぎゅっと握っていたのだ。


だから彼女の左手を取ることも、臆病になる必要はなかった。しかし、少年はその手を握ることはとうとう出来なかった。


「どうして手を握る事ができなかったんだろうね?」


「分からない。」


「いーや、君は分かっているね」


精霊は真っ暗な部屋で仰向けに寝転がっている青年の上をクルクルと飛び回った。


「分かっていないと、思いたいだけだ。」


青年はその光を目の動きだけで追った。見ているだけで心が安らぐような気がした。その光は自分を現実から少しだけ遠ざけてくれているような気がした。


青年は再び深く、記憶の中へと入っていった。

精霊の放つ光は、寒い時期、クリスマスの時期に街を包む光に似ているようにも見えた。

クリスマスの日に少年は少女と2人で街を歩いた。街は赤や青、黄色、緑と人が作った数多の光に照らされていた。その日はその年で1番気温が低い日だった。それでも少年はポカポカした気持ちだった。隣にいる少女も同じ気持ちだったらいいな、と少年は思った。


少女はその時、サンタさんには何を頼んだのかと聞いた。少年はまだサンタさんを信じてるのか、と少女を茶化した。少女は膨れっ面をしてから、じゃあ欲しいものはないのかと尋ねた。少年は真面目な顔をしてただ一言、君が欲しい、とだけ答えた。


「彼女は、もうそばにはいないんだね。」


精霊は静かな声で言った。どこか悲しげな声であった。


「うん、もういない。」


「それから君はどうしたんだい?」


「どうしたって?」


「どう生きてきたかって事」


「別に、特に大した事はしてないよ。ふつうに生きてきたし、これからもふつうに生きてく。」


青年はゴロリと寝返りを打って、黄緑色の光を放つ精霊から目を背ける。

明日も会社に行かないといけない。あまり夜更かししている場合じゃない。明日は出勤したら今日やり残してきた仕事を片付けなければならない。客先にも割と早い時間に行かなければならないから、明日はいつもより早く出社する必要がある。青年は目を閉じながら考えた。


「ねぇ、君は今だったらサンタさんに何をお願いするんだい。」


精霊は青年に呼びかける。しかし青年は左手を枕のようにして横向きに寝転んだまま、その呼びかけに応える様子はなかった。


「ねぇったら。」


精霊はなおも呼びかけた。


「うるさいな。オレは明日のために早く寝たいんだ。」


青年はぶっきらぼうに言った。


「そうか、じゃあ君は今欲しいものは何ひとつないのかい?」


今、欲しいもの……


青年は一瞬考える。だが、すぐに考える事が面倒くさくなって言った。


「何もないね。あるとすればオレは明日のために眠りたいって事だ。出来る事ならとっとと消えてくれないかな。」


青年がそう言うと精霊は言葉を発しなくなった。

清々した、と思いながら青年は瞳を閉じた。

しかし、どれだけ時間が経っても青年は全くと言っていいほど眠りにつく事が出来なかった。

しんとした部屋の中で壁に掛けられた灰色の時計の秒針の音がひどくうるさく響いているような気がした。

青年はおもむろに寝返りを打ち、真っ暗な部屋の中で目を開いた。

そこには、ただ闇に沈んだ自分の暮らす部屋があるだけだった。

眩い黄緑の光に包まれた精霊の姿はもうどこにもない。


そうか、じゃあ君は今欲しいものは何ひとつないのかい?


精霊の言葉を青年は頭の中で反芻する。青年は再び目をつぶってみるが、やはり眠る事は出来なかった。いま欲しいもの。自分が今欲しいものとは一体なんだろうか?


いーや、君は分かっているね


精霊の言葉が青年の頭に蘇る。

そうだ。本当は分かっていた。それなのに、自分の気持ちを誤魔化し続けてきた。

ずっと近くにいたのに、ずっとそばにいたのに、

彼女はもう会えなくなってしまった。

こんな事ならもっとちゃんと気持ちを伝えておくべきだった。

なのに青年は自分の気持ちに素直になる事が出来なかった。

どれだけ後悔しても、そこにあるのは色褪せたモノクロの日々だけだった。

後悔しても仕方ないと薄々分かっていたから、忙しい日常の中で考えるのをやめていたのだ。

だけど、本当に自分が欲しかったものとはなんだろうか?

自分のしたかった事とは?


「君に会いたいよ」


青年は暗く沈んだ部屋で一人つぶやいた。

気づいたら青年の頬には一筋の涙が伝っていた。


「君に会いたい」


青年は気づいたら一人声を抑えるようにして泣いていた。

もう彼女には会えないのだ。その事実が、青年の胸に深く深く突きつけられて、それが苦しくて悲しくてむせび泣いていた。


その時、青年の部屋は黄緑色の光に満ちた。

夏の日の蛍の光よりも眩しく、クリスマスのイルミネーションの輝きよりも温かな光だった。


「そうだ、君の願いを叶えてあげよう。」


光の中から精霊は青年に言った。


「彼女に、会わせてくれるのか?」


青年は涙を流したまま言った。


「君が心からそれを望んでいるのなら。」


青年は彼女のことを思った。夏の日に花火に見惚れていた横顔。一緒に過ごした日々。

クリスマスの日、少年は少女に告げた。君が欲しい、と。少女は驚いたような顔をしてから、少し顔を赤くして、それから幸せそうに笑って頷いた。


「もう一度彼女に会いたい。」


青年は輝く黄緑の光の中で、はっきりと自分の気持ちを言った。


その瞬間、先ほどよりも強い、溢れんばかりの光が青年の部屋を包んだ……


光は消え、真っ暗な部屋だけが残った。

ヤケにしんとした部屋で、壁に掛けられた灰色の時計の規則的な秒針の音だけが部屋に響いていた。



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