第二話 feat.犬山直斗
★八月二日 午後二時四十七分
「
「そうだな、とりま一旦情報集めるか。闇雲に探しても見つからなさそうだし」
細身の身体にやや不釣り合いなビッグシルエットの五分袖パーカーを羽織っている、どことなく軽薄そうな印象が拭えない高校生の少年。
「お、みんな騒いでる騒いでる」
犬山少年は愉快そうに口の端を持ち上げ、手にしたスマートフォンの画面に指を滑らせる。そこには出会ったことのない、あるいは今この瞬間もすれ違っているかもしれない無数の人々の声があった。
【池袋で《竜の涙》が見つかったらしい。ま?】
【何気なくスーパーに買い物に出たら外の人たちがなんか騒いでたけど、そういうこと?】
【遠目に見ただけだからあれだけど、《竜の涙》を持った男の子が追われてました】
【↑観光客かな】
【↑いやヤーさんじゃね?前にも海外のマフィアに《竜の涙》売ったって言われてるじゃん】
【百億円が今池袋に転がってるのか、ちょっと探しに行こうかな】
池袋の街は今、《竜の涙》の話題で持ちきりだった。
都市伝説だと思われていた百億の価値を持つ秘宝がいま、この街のどこかにある。金目当てのヤクザや、宝探し気分の観光客、果ては祭り感覚で騒動に加わるミーハーまで、数えきれない思惑が街の中に渦巻いていた。
その中にあって犬山少年の立ち位置と目的は、至ってシンプルなものだった。
「いやぁ盛り上がってんねぇブクロ」
「楽しそうだな直斗」
「そりゃそうだろ。《竜》が空を飛んでるってだけで充分面白いのに、百億のお宝争奪戦が今この街で起こってんだぜ?そんな祭り、生きてるうちにどうやったって参加させてもらいたいね」
「なんだ、お前もやっぱり金目当てか?」
「タクヤ、お前俺がそんな俗っぽい人間に見えてたのか」
「じゃあ違うのか?」
「まぁ金に興味がないわけじゃないけど」
「なんなんだよ。まぁコンプリで見た感じ、どうもその“男の子”が《竜の涙》を拾って逃げたらしいな。今のところそれ以上の足取りや目撃者の話は出てないっぽいか」
「そうだな。まぁ何か動きがあるまで待ちに徹してもいいんだけど———」
犬山少年はスマホをポケットにしまい、ベンチから立ち上がった。
傍に立つ友人の少年はそれを見てわずかに笑みを溢す。
「せっかくの祭りなのに、一つの屋台しか周らないって言うのはもったいないっしょ」
「ま、お前ならそう言うと思ってたけど」
二人の少年は宛てもなく歩き出す。歩きながら犬山少年は思い出したように頭上に広がる空を見た。そこにはいつもと変わらず池袋の青い空を背景に、もはや日常の一部と化した都市伝説が空を翔けている。
「俺を楽しませてくれよ?」
挑発的に吐いたその言葉を、《竜》が聞き届けたのかは定かではない。
***
犬山直斗は池袋の住民ではない。住まいは豊島区の隣の中野区であり、通っている高校は池袋の隣の大塚駅が最寄りである。学校帰りによく池袋の街に友人たちと立ち寄って遊び歩くことは多いが、端的に言えば本来彼は池袋の街と《竜》の問題に関しては蚊帳の外であるということだ。当然彼は池袋の街に深い縁はなく、愛着と呼べるものもおそらく持ち合わせていない。
何もないからこそ、彼は娯楽と刺激に飢えていたのかもしれない。
犬山直斗という少年は“享楽的”であり、享楽主義者である。彼にとって自分以外の世界のすべては自分が人生を楽しむための舞台装置でしかなかった。家族や友人はもちろん、《竜》すら例外なく。世間の多くの人々は《竜》に対して憧れや畏怖の念を抱いているが、犬山直斗はそのどちらでもなく“自分を楽しませる存在であればいい”としか思っていない。
そこに深遠な理由や過去はない。ただ純粋に、心のままに、生まれ持った
そして今も彼は、自分の意志で蚊帳の中に飛び込んでいる。自分が楽しむために。
***
池袋アニメイト本店傍にある、豊島区立中池袋公園に犬山少年たちは移動していた。特に目的や考えがあったわけではない。普段街を歩き慣れている彼らの足が自然とそこへ導いただけだ。
「ここからじゃちょっち見えにくいな」
「あ?何がだよ直斗?」
「あの白い塔」
「白い塔って、もしかして豊島区の清掃工場の煙突のこと言ってんの?」
「そ」
犬山少年は数メートルほど歩き、ビルとビルの隙間にそれを捉えた。立っているのは完全に車道のど真ん中だったが、サンシャイン通り付近は事実上の歩行者天国となっているため普段ほとんど車が車道を走ることはない。
「お、見えた見えた」
犬山少年の視線の先には、豊島区清掃工場の白い煙突が遠くのビルの上から顔を覗かせていた。
「煙突がどうしたんだよ直斗」
「いやどうってこともないんだけど。ブクロって言ったら俺の中じゃあの塔なんだよ。なんかシンボリックじゃん?」
「馬鹿は高い所が好きって言うよな」
「まぁ天才ではない自覚はあるけど。でも現代文だけは結構得意だし!この間の模試で学年九位とったしな!」
特に深い理由はないが、犬山少年はあの煙突が好きだった。
過去に一度あの煙突のことをネットで調べたことがある。それによるとあの煙突はサンシャインビルよりもさらに高いらしい。つまり、池袋で最も空に近い場所ということだ。空に近いということは《竜》にも近いということ。
———あそこまで登れたらもっと近くで《竜》見れんのかな。
そんな他愛もない妄想は、別の方向から聞こえた悲鳴によって終わりを告げる。
「きゃあああああっ!!」
「うわっ、なんだ!?」
「え?なんかのパフォーマンス?」
悲鳴というのは正確ではなく、聞こえてきた通行人たちの声には色濃い疑問が感じられた。犬山少年が“それ”を見たときにまず覚えた感覚が“疑問”だったのも致し方ない話だろう。
通行人たちの視線の先には、自動販売機に追いかけられる一人の少年の姿があった。
「「は?」」
犬山少年とタクヤ少年は示し合わせたかのようなタイミングで声を漏らす。
二人の視線の先には、確かに60階通りからこちらに向かって駆けてくる中学生くらいの少年と、それを背後から追いかける幅一メートル五十センチほどの大きな自動販売機が見てとれた。
追いかけているとは言うが、自動販売機に足が生えて走っているわけではない。その自販機は宙に浮かび、まるで磁力に引き寄せられるかのように少年の背後を浮遊し一定の速度で追尾していた。まるで浜辺で追いかけっこを楽しむカップルにも見えるが、追いかけられている側の少年の表情はそれを楽しんでいるようにはとても見えない。明らかな恐怖と戸惑いしかそこにはなかった。
「え、ちょ、直斗あれなんだ?」
「自販機だな」
「いやそれは見りゃわかるし。俺が聞いてんのは、なんで自販機が宙に浮かんで人を追いかけてんのかって話で」
「そりゃあお前、あれだろ」
「あれ?」
「あの男の子、新手のスタ〇ド使いだッ!」
「んなわけあるか!」
そんなやり取りをしているうちに、自販機に追われる少年はまっすぐに犬山少年の元に迫ってきていた。
追われる少年はこちらの姿を視界に捉えたようだが、当然というべきか意に介した様子もない。少年は犬山少年の横を抜け、やや遅れて背後の自販機も通り過ぎていった。
理解の及ばない非日常が、犬山少年を無視して過ぎ去っていった。
だが、犬山少年は自分のすぐそばにある“楽しみ”の種を黙って見送るような
「ちょ、直斗!?」
友人の制止を無視し、犬山少年は過ぎ去った非日常を追いかけて走り出す。必死に、縋りつくように。
元々運動神経の良かった犬山少年は、明治通りに出る頃には難なく自販機と少年に追いついた。そのまま少年の隣で並走し、臆面もなく話しかける。
「ねぇキミ、何してるの?」
「はぁ、はぁ……っ」
「ちょ、質問してるのに無視はひどいなぁ。お兄さん傷つく」
「見て……っ、わかるでしょ………っ!」
「いや、自販機に人が追いかけられる状況とか意味わかんないし。一体何がどうなってこうなったん?」
「かんけい、ないだろ……っ!」
「関係はないけどさ、興味はあるのよ。関係値より好奇心を汲んでほしいな。それにほら、いまブクロで《竜の涙》が見つかったって大騒ぎしてるじゃん?」
「ッ!……俺は関係ないし!」
「あっそう。ま、関係あってもなくても俺はキミに興味があるからついてくけど」
「なん、なんだよ、あんた……っ!」
「あ、そういや名乗ってなかったか。俺は犬山直斗。見ての通りの善良な男子高校生。キミは?」
「あぁ、もううるさい!」
目に見えて分かるほど苛立ちを剥き出しにしている少年はやや走るペースを上げた。が、夏空の下でここまで長く走り続けて疲労が蓄積していたのか、あるいは元々体力がないのか、数秒もしないうちにペースはまた元に戻る。当然犬山少年は余裕で追いついた。
「とりあえずさ、あの自販機振り切った方がいいよな。しかしこうして一緒に追われる身になってみるとなんというか愛らしいな、あの自販機。まるで尻尾振って懐いてくる子犬みたいだ」
「振り切るって……っ、どうやってさ!」
「ようは物理的にあの自販機が追ってこれないところに逃げればいい。ついてきな」
犬山少年はそのまま少年の一メートルほど先に出、少年と自販機を誘導するように池袋駅方面に走っていく。途中でいくつか信号機があったが、奇跡的に赤信号で止められることはなかった。
当然というべきか、道中ですれ違う通行人たちは明確に犬山少年と背後の少年、そしてそれを追う自販機に奇異の視線を向ける。中にはスマートフォンでこちらを撮影する者もいた。
だが犬山少年にはそれすら心地よかった。自分は今、明らかに何らかの非日常の渦中にいる。今の自分は傍観者ではないのだ。
そのまま駅前のヤマダ電機総本店を通り過ぎ、犬山少年は池袋駅に通じる地下道の階段を下る。そこは人一人が通れる程度の道幅で、二人を追っていた自販機の大きさを考えれば間違いなく通り抜けることはできなかった。
やや遅れて背後を走っていた少年が地下道に入り、さらに少し遅れて自販機の赤色が飛び込んでくるが、案の定その大きな機体は地下道を下りることができず、入り口で派手に激突する音が地下街に響く。
「とりまここまでくりゃ大丈夫だろ。他の通行人に気付かれないうちに西口の方にでも場所移すか」
「えっ、あ」
そのまま犬山少年は少年の手を掴み、逃げるように駅地下を駆け抜けていった。
***
★八月二日 午後三時二十一分
「とりあえず、お前の名前は?」
「……
「そうか、じゃあフレンドリーに翔と呼ばせてもらおう」
「馴れ馴れしいな、あんた」
「ちょ、一応助けてあげたのにそれはなくね?」
池袋は東口方面がサンシャインシティやアニメイト、乙女ロードにジュンク堂といった所謂若者向けの店舗で賑わっているが、対する西口は東京芸術劇場に代表される芸術や文化の香る街だ。その中でも西口公園と言えばドラマにもなった『池袋ウエストゲートパーク』の印象が根強いが、近年西口公園は大規模に改修が行われ、現在は六本の柱が支える大きな円を描くリングと野外ステージが特徴的な、西口地区を象徴する顔として広く親しまれている。
そんな池袋西口公園に、犬山少年と諏訪少年はいま腰を落ち着けていた。
「助けてくれたことには感謝してますけど、もう大丈夫ですから。それじゃ」
「ちょちょちょ待てし」
慌てて犬山少年は諏訪少年を引き留める。
「ちょっとくらい事情話してくれてもいいだろ?翔はなんだって自販機なんかに追われてたわけ?」
「こっちが聞きたいよ。俺はただ、喉が渇いたから自販機でジュース買おうと思っただけだったのに、お金入れようとしたら突然自販機が宙に浮いてこっちに向かってきたんだ」
「なるほど。そりゃまた奇怪な話だな」
「絶対信じてないでしょ、あんた」
「信じるも信じないも、現に自販機はお前の後を追いかけてたしな。俺も一緒に追われたし」
「あんたは勝手についてきただけでしょ」
「ふはっ、違いない」
けらけらと軽薄さをにじませた表情で犬山少年は笑い、それを見た諏訪少年の顔は露骨に不機嫌になる。
「でもまぁ、今日のブクロに関して言えば自販機がひとりでに動いて人を追いかけ回しても全然不思議じゃねーよ。《竜の涙》が見つかったって噂で街は持ちきりだし」
「……そうなんだ」
「翔は《竜》に興味ないのか?お、奴さんは元気に空を飛んでるねぇ」
「ないことはないけど」
「なんだ、夢がないなぁ翔は。まだ中学生なんだからもっと夢見ててもいい時期だぜ?邪気眼とか異世界とか超能力とかさ」
「………べつに」
「やれやれ。つーか、喉乾かない?そこのコンビニでなんか飲み物買ってくるけど、欲しいものあるか?」
「じゃドクペ」
「ドクペ?あれってコンビニで売ってたっけな……?というか、翔お前ドクペが好きとか渋いな。マジでちゅうがくせ―――」
犬山少年はその時、一度たりとも諏訪少年から視線を外してはいなかった。これといって諏訪少年を疑ったり警戒していたわけでもないが、とにかくその時はまっすぐ諏訪少年の目を見て会話をしていたのだ。
であるにも関わらず、直後に目の前で起こった事象を、犬山少年はすぐに飲み込むことができなかった。
「ばっ」
「———は?」
短い奇妙な悲鳴と共に、目の前にいた諏訪少年が地面に崩れ落ちた。
地面に伏した諏訪少年のすぐ傍には、ドクターペッパーの五百ミリ缶が一つ、へこんだ状態で転がっている。
突然の事態に犬山少年は面食らい、僅かにその場で硬直した。
やがて、どこからかドクターペッパーの缶が諏訪少年に向かって投げられたのだということに思い至る。
「ちょ、おい、翔!?」
慌てて諏訪少年に駆け寄った。たかが缶飲料と楽観視する人もいるかもしれないが、未開封のアルミ缶とて人に投げつければちょっとした凶器として機能する。打ち所が悪ければ最悪死に至りかねない。
「生きてるよな?クソ、いったい誰がこんなこと」
人命救助の経験などまだ高校生の犬山少年には当然ない。この状況でできることと言えば、せいぜい諏訪少年に脈があるか、呼吸をしているか、心臓が動いているかを確認することと、救急車を呼ぶことくらいだった。
まず手首の脈を確認する。イマイチ分かりづらいが一応動いている気がする。次に耳を顔に近づけて呼吸音を確認。僅かに鼻から空気を出し入れしている音が聞こえる気がする。
念のため心臓の鼓動音もと、諏訪少年の胸元に耳を近づけたときだった。
「ん?胸ポケットに何か入ってんのか?」
話しているときは気付かなかったが、上着の胸ポケットに固い何かの感触を覚えた。一度それを取り出して改めて胸の鼓動音を確認しようと犬山少年は考えたのだが———。
「なんだこりゃ。宝石?」
胸ポケットから取り出されたのは、空の色によく似た、透明で青みを帯びた美しい“何か”だった。大きさは祭りの縁日で売っているような子供向けのスーパーボールと大差ない。
一瞬。ほんの一瞬だけ、犬山少年は諏訪少年のことを忘れるほど、その“何か”に魅入られた。
次の瞬間、犬山少年の姿は西口公園からかき消えていた。まるで夏の陽炎のように、影も形も残さないまま。
---続く---
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