第三話 feat.上遠野尋史
★八月二日 午後零時三十三分
———人。人。人。
新潟県に住む
生まれて初めてやって来た大都会東京。しかも近年世界的に注目を集めている池袋の街に行くというのは、例えるなら、一九七〇年に開催されたかの大阪万博に行くのと同じようなものだろう。大抵の人間ならそれなりにポジティブな感情を持つのが一般的だろうが、上遠野少年は違った。
———人、多すぎ……。
地元の駅前ですら人の多さに辟易するレベルで上遠野少年は人混みが苦手だった。ましてや大都会池袋の雑踏の混雑など、彼には間違っても耐えられるわけがないのだ。
「いやぁ、来てよかったな!」
「本当。地元は人少ないしお店も隣町まで行かなきゃならないしね。私、軽くカルチャーショック」
一緒に旅行に来た父と母は暢気にそんな会話で盛り上がっているが、上遠野少年にはどうして両親がこの混沌とした街を素直に楽しむことができるのかまったくもって理解できなかった。仮にも血の繋がった親子であるというのに。
上遠野少年はなるべく道行く人々と目を合わせないように野球帽を目深に被って顔を伏せ、前方を歩く両親の踵を見て追い縋るようにサンシャイン通り付近を歩いていた。
「お、もう結構いい時間だな。尋史、お昼何が食べたい?」
「……なんでもいいよ、お父さん」
「そうか、ママは?」
「そうねぇ。あなた、池袋って食べ物は何か有名なんだっけ?」
「あー、旅行パンフレットだとラーメンの店が多いらしいぞ」
木が何本か植えられた、公園なのか喫煙スペースなのか道なのかよく分からない場所で、両親はあーでもないこーでもないと今日のランチについて議論している。なんでもいいから人が少ない所に早く行きたいと思いつつ、上遠野少年は恐る恐る頭上に広がる池袋の空に視線を向けた。
———うわぁ、ここからも見えるし。
そこにはバッチリと《竜》の姿が見てとれた。たまにテレビで見ているものと寸分違わず。火を噴くでもビルを崩すでも人を襲うでもなく、ただ静かに空を舞っている。
なんとなく、《竜》がこちらを見た気がした。
「ッ!?……」
慌てて地面に視線を戻す。
《竜》なんて得体の知れない存在を、どうして周りの大人たちは当たり前のように受け入れているのだろう。どうして怖くないのだろう。《竜の涙》のことはまだ十歳の上遠野少年も知っているし、世の中の大人たちが百億円の価値があるそれを欲しがっていることも把握している。自分の両親もそうだからだ。別に借金を抱えているとかそういう重い家庭の事情があるわけではない。きっと宝くじと同じような感覚なのだろう。
そんな天文学的な奇跡に期待してわざわざ新潟の田舎からこの池袋に観光に来るなんて、ナンセンスもいいところだ。
「はぁ。お父さん、お母さん、お昼どこ行くか決まった?」
上遠野少年は両親にそう尋ねるが、聞き馴染んだ両親の声は返ってこない。不思議に思い両親の靴を見るがつい先ほどまでそこにあったはずの、父の使い古した革靴も、母の普段滅多に使わない余所行きのパンプスも見当たらなかった。
そこでようやく上遠野少年は顔を上げ、両親の背中と顔を探す。
だが、両親の姿はどこにも見当たらなかった。
「———はぐれた?」
***
上遠野少年の性格は、言ってしまえば“臆病”の一言に尽きる。人付き合いが下手で小学校でも友人は少なく、そんな息子を慮って親が薦めたサッカークラブでは人前で目立ちたくないがためにわざとプレーで手を抜き自ら望んでベンチに座っているような子供だった。周りの大人たちからすればそんな上遠野少年は、さながら肉食獣に怯える小動物にしか見えなかったことだろう。
彼が世界の多くのもの、ひいては他人を恐れることにこれといって明確な理由はない。それは本能ともいうべきものだろう。強いて言えば、恐怖心を抱かない理由がないから彼は恐怖する。彼にとって生まれ落ちたこの世界は未知の事象と人間の悪意が渦巻く魔窟でしかないのだ。
そんな彼が《竜》という人智を超えた都市伝説を恐れていないわけがない。いや、仮に池袋の空に《竜》がいなかったとしても、人間嫌いな上遠野少年が進んでこの街に行きたがることはなかっただろう。未知の存在である《竜》と、それぞれの思惑を胸に多くの人間がやってくる池袋という街は、上遠野少年にとっては猛獣の住処よりも恐ろしい場所なのだから。
***
★同日 午後一時二十七分
「はぁ……」
上遠野少年はこれでもかというほど決定的に、徹底的に、完膚なきまでに、道に迷っていた。
まだ小学生の上遠野少年には当然文明の利器携帯電話やスマートフォンなど買い与えられてはいない。地元で学校に通学するときにたまに防犯ブザーを持たされることがある程度だし、当然旅行先にそんなものを持っていくわけがない。
そしてこれも当然の話なのだが、今日初めて池袋の街に観光に来た上遠野少年は土地勘など持ち合わせていない。せめて観光雑誌やパンフレットでも持っていれば別だが、あいにくその類のものは父がまとめて鞄に詰めていた。何かトラブルが起こった時の緊急連絡先や待ち合わせ場所なども両親と示し合わせてはいない。
つまるところ上遠野少年は、池袋という街で完全に孤立してしまっていた。
「暑いし………」
この時の上遠野少年自身は自分の現在地を把握していなかったのだが、後から話を聞いた限りではどうやらサンシャイン通りを離れて南池袋公園付近を彷徨っていたようだ。
いま彼は南池袋公園のベンチなのか段差なのかよく分からないスペースに腰を落ち着けている。大都会池袋においても夏の日差しは容赦なく上遠野少年を照り付ける。悪意すら感じられるほどに。北陸生まれの上遠野少年にとって常時ヒートアイランド現象の東京の日差しは尚更体力を消耗させていたのかもしれない。
———これだけ探しても見つからないなら、もうどこかの交番にでも駆け込むしかないかなぁ。
———でも交番とか警察署ってどこにあるんだろう?
———あぁ、もうどうしよう……。
何かに縋るように視線を上げ、周囲を見やる。当然というべきかその視界の中に両親の姿は見えない。代わりにいるのは今まで会ったことのない人、人、人。もしかしたらそんなことはないのかもしれないが、心なしか道行く人たちが自分を見ているような感覚に陥る。そしてその視線には子供の自分には想像できない悪意が潜んでいる気がしてならない。
———怖い。
———怖い怖い怖い。
———怖い怖い怖いコワイコワイコワイこわいこわいこわい。
身を守るように膝を抱えたその時だった。
「いたっ」
何か固いものが自分の肩に衝突する感覚があった。
もしかしたら両親が迎えに来てくれたのかもしれない。そう思い顔を上げたが、期待はあっさりと裏切られた。変わらず自分の傍には誰もいなかった。
「……ん、なんだろこれ」
そこには先程までなかった異物が足元を転がっていた。ゴルフボールくらいの大きさの球体で、色味は透明がかった青色。思わず手に取ってみたが、“それ”を通して見る景色はさながら空に浮かぶ浮遊都市のものみたいに錯覚する。
———公園で遊んでる誰かが落としちゃったのかな。
そう思い、何の気なしに上遠野少年は顔を上げたのだが。
「———えっ?」
周囲にいた人々の視線が、明確に自分に向けられている。一人や二人ではない。公園で遊んでいた家族連れにカップル、たまたまその近くの道を歩いていたのであろうサラリーマンや夏休み中の若者たちまで。
「おい……“あれ”、いま空から降ってきたよな?」
こちらを見ている誰かがぽつりと溢した。
「あ、あぁ、俺も見たぜ!“あれ”、上から落ちてきたぞ!」
“あれ”というのが何を指すのか、上遠野少年はすぐに理解できなかった。
だが別の誰かが言った次の言葉で、上遠野少年は自分が天文学的な奇跡に選ばれてしまったことに気付く。
「じゃあもしかしてあれって、《竜の涙》か!?」
「百億円か!?」
そこで上遠野少年はもう一度握りしめていた拳を開き、手のひらに現れた“それ”を見る。
———これが、《竜の涙》?
———え、じゃあオレいま、百億円持ってるの?
「ぼ、坊や、手に持ってるそれ、見せてくれないか」
すると、傍にいた見知らぬ男性が手を伸ばしながらゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。絵に描いたような引きつった笑顔を張り付けているが、その姿は上遠野少年にとってはさながらホラーゲームに出てくるゾンビにでも映ったのだろう。
「え、いや、あの」
上遠野少年はゆっくりと後ずさるが、そうする間に他にも何人かの見知らぬ通行人がこちらに寄ってきた。
「坊や、悪いようにはしないからそれをおじさんに……」
「馬鹿言ってんじゃねぇ、ボウズ、おにいさんにそれくれない?お菓子あげるから」
「何言ってんのよ!ねぇボク、お姉さんにそれ見せてくれるよね?ね?」
「う、う、うぅ」
自分に向けられる明確な奇異と欲望の入り混じった視線に、上遠野少年の精神は早々に耐えられなくなった。
「うわああぁぁぁぁああぁあっぁぁああぁぁぁああぁっ!!!!!!」
「うおっ!?」
「え、なにこれ!?」
自分でも驚くほどの声量で叫んだその時だった。周りにいた人々が突然困惑の声をあげ、恐怖に目を瞑っていた上遠野少年はそれにつられて恐る恐る双眸を開く。
「……え?」
視線の先には、青みを帯びたアクリル板にも似た透明な板があった。見ると、それは前方のみならず、自分を覆うように半径一メートル程度の範囲をドーム状にすっぽり包みこんでいた。まるで上遠野少年を守るバリアのように。
周囲を包む障壁は、上遠野少年がその存在を認識するのを見計らったかのようなタイミングで消失する。空の色に同化するように、音もたてず大気に溶けて。
十数秒ほど、辺りを静寂が支配した。
その中で最初に我に返ったのがほかならぬ上遠野少年だったのは幸運だったというほかない。上遠野少年は弾かれたようにその場から走って逃げ、その背中を追いかける人間はその時点では誰もいなかった。
***
★同日 午後一時五十三分
「はっ、はぁっ、はぁっ……」
上遠野少年は宛てもなくひたすら池袋の街を走り続けた。もはやどうして自分が走っているのか、彼自身分かっていなかったのかもしれない。自分に向けられる悪意ある視線を振り切るように、誰もいない場所を探して。夏空の下で都会のコンクリートジャングルを走り回り体力などとっくに底をついていたが、それでも彼は走った。目を瞑り、顔を伏せ、ただただ前に。
「うわぁ!」
「うぉ!?」
ろくに前を見ていなかったからだろう、どこかの曲がり角を曲がったところで上遠野少年は通行人と思われる人物と正面衝突した。
だが正面衝突したのは厳密には角を曲がってきた相手とではなく、衝突する間際にまたしても現れた、先程の青く透明な障壁とだった。自分と相手のちょうど間に透明な壁が現れ、お互いにそれにぶつかる形となったのだ。
「っつう……すみません、急いでたので。だいじょう、ぶ?」
ぶつかってきた相手はどうやら自分より年上の、中学生くらいの男の人だった。
上遠野少年が顔を上げたときには既に例の障壁は消えていたが、その時の上遠野少年の中にあったのは、目の前にいるこの中学生の少年も、今の障壁を見て自分に悪意の視線を向けるのではないかという恐怖だけ。
「うっ、うわああぁ!」
「え?えぇ?」
中学生の少年が戸惑う声が背中に届いたが、それも無視して上遠野少年は一目散に走り去った。
それまで片手に握りしめていた《竜の涙》をその場に落としてしまったことに気付かないまま。
***
★同日 午後三時九分
「…………はぁ」
上遠野少年は池袋駅北口の自転車駐輪場で身を潜めるように縮こまっていた。
この場所まで来た経緯自体、上遠野少年は覚えていない。それだけ必死だったということなのだろうが、その甲斐あってこの時の少年は完全に現在位置を見失っていた。
気付いた時には既に《竜の涙》は手元になかった。追われる理由がなくなったと喜ぶべきなのか、百億円をむざむざ手放してしまったと嘆くべきなのか、見知らぬ無数の人に追われる恐怖も相まって、上遠野少年の情緒はかつてなく乱れている。
———これからどうしたらいいんだろう。
———《竜の涙》、どっかに落としちゃったけど、もうこれで追われたり変な目で見られたりすることはないのかな。
———というか、ここどこ?
———お父さんとお母さん、オレのこと探してくれてるのかな。
両親とはぐれてから僅か二時間程度しか時間は経過していないはずなのだが、両親と一緒に時間がはるか昔のように思えた。両親の顔を思い浮かべただけで、どうしようもなく涙が込み上げてくる。
「うっ……うぅぅ………」
どうしてこんなことになってしまったのか。
元々自分はこの街に観光なんて行きたくなかったのに。《竜》も《竜の涙》も池袋の街も、自分にとってはどうでもよかったんだ。
上遠野少年の怒りと悲しみの矛先はどうしてか、空に浮かぶ都市伝説でも百億の秘宝でも金に目が眩んだ人々でもなく、池袋という街そのものに向けられていた。
———こんな、こんな街、オレは嫌いだ。
———こんな街、来なければよかった。
———嫌いだ。嫌いだ。嫌いだ嫌いだ嫌いだ。
「———嫌いだ!」
「なにが?」
「っ!?」
背後から突然かけられた声に、上遠野少年は今日一番の驚きを見せた。足におかしな力が入り、バランスを崩してその場に倒れてしまうほどの。
「ちょ、だいじょぶ?どこか悪いの?」
「あ、いや、大丈夫、です」
上遠野少年がなんとか起き上がった時、視線の先にいた声の主は、女性だった。
ただの女性ならそれまで自分の周りにいた有象無象と変わらないはずなのだが、その女性には一つだけ、上遠野少年にも無視できない大きな特徴があった。
女性の髪が、空よりも濃い青色だったのである。
---続く---
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