パーントル・デ・プレリュード

粋羽菜子

パーントル・デ・プレリュード

「はぁ…っ、はぁ…っ、…っ描け、た…っ!」

高校卒業の日。体育館で卒業式をしているはずの三年生の色、緑のネクタイを締めた少女。キャンバスいっぱいに広がった絵の具の香りが美術室を吹き抜ける。絵の具の種類なんて分からない。キャンバスは始めにあの青年にもらったモノの使いまわし。筆は高校の美術の授業で使う安物の筆が三種類に、青年からもらった筆が四種類。あちこちに絵の具が飛び散ったつなぎを着て一心不乱に、目の前のキャンバスに叩きつけるように筆を走らせていた。乱れた呼吸を整える少女、及川さくらの目の前には先程完成した空に手をのばす天使の絵がある。しかし、彼女がイメージしたこの天使は間違いなく約束の青年の姿に違わない。さくらが息を整え、額に浮かんだ汗を拭うとガラリと美術室のドアが開く音がして、数瞬後ため息とともに絵のモチーフとなった青年が美術室に足を踏み入れる。

「センパイ、もう絵はいいですから。卒業式くらい出たらどうですか。そもそも、俺はもう絵は描かないってあれほど…、ッ」

呆れた様子でいた青年はさくらの絵を見ると、息を呑み、目を丸くしてじっとその絵を見る。

青年の様子を見たさくらは不敵な笑顔で言葉を口にする。青年との約束のきっかけになった言葉だ。

「青木亮くん。もし私の絵に惹かれたなら、もう一度、絵を描き始めて欲しい!」


青木亮は、俺の名前だ。今、絵画コンクールの金賞に輝いている名前でもある。俺は絵を愛していたし絵に愛されていた。小さい頃からいろいろなものを描いて、描いて、描いて。旅行に行っても写真を取る代わりに景色を描いて、じいちゃんに描いた絵を見せに行く。俺のじいちゃんは昔は画家だった。それが交通事故にあい、老衰とも重なってベットの上から降りられない生活を送っていた。大好きな絵を描けない苦しみの中でなお、じいちゃんは絵を見ることが好きだった。じいちゃんは俺の絵が大好きで、事あるごとにお題を俺に出して完成した絵を見て楽しそうに笑っていた。お前には、絵の才能がある。そう言ってくれた。だから、俺はずっとじいちゃんのために絵を描いていた。でも、じいちゃんの寿命は長くなかった。花のように、はらはらと命の雫が落ちていくのが分かる。最後に落ちた一滴は俺の高校の入学式の日だった。それから俺は、絵を描くことをやめた。絵を描いていると、辛くてたまらなかった。俺はじいちゃんが大好きだった。だから、俺がその絵を描いたのは本当に偶然だったと思う。じいちゃんを失った喪失感の中、高校の美術の授業で課題が出た。絵を一枚描くこと。モチーフはひまわり。ひまわりは、じいちゃんが最後に俺に出したお題だった。じいちゃんが見たいと言っていたひまわりを俺はまだ描いていなかった。そう思った瞬間、なにかに取り憑かれた様に絵筆を手に取り、キャンバスに絵の具を滑らせる。ぐん、と絵の中に引き込まれるような感覚がして無我夢中になって、ひまわりを描いた。この絵を最後に絵を描くのをやめようと思った。そうして、描きあげた絵は今までの中で一番いい出来をしていたと思う。俺のひまわりは、学校の先生によってコンクールに提出されて現在はコンクールの金賞に輝いている。そして妙な先輩に纏わりつかれ始めたのも間違いなく、ひまわりを描いたあとだ。その先輩の名は及川さくら。ひとつ上の学年の女の子で、じいちゃんと同じく俺の絵が好きだと言って、もう一度絵を描いてほしいと言って俺のもとにやってくる。なぜか、センパイとは仲良くなって一緒にテーマパークにも行ったりしたが俺はもう絵を描く気はサラサラなかった。そんなときにセンパイが言ったのだ。「青木亮くん。もし私の絵に惹かれたなら、もう一度、絵を描き始めて欲しい!」正直に言って無理だと思った。だって、センパイは今までに学校の授業以外で絵を描いたことがない。キャンバスの貼り方も、絵の具の種類も、何もかもを知らない。だから、俺はこれでセンパイを諦めさせることができると思ったのだ。「いいですよ。ただし、期限はセンパイが卒業するまでです。」センパイにキャンバスと絵筆を貸し出して、俺とセンパイの約束は始まった。それからセンパイは毎日のように絵を描き、毎日のように俺に見せに来た。センパイは思っていたよりも筋が良く、化け物のようなスピードで腕を上達させていった。それでも、センパイの絵が俺に届くことはなく、いよいよ今日、卒業の日を迎えた。最後の最後までセンパイはセンパイで、卒業式を抜け出してまで絵を描いているようだった。今日で最後の一枚だった。最後の一枚だったのに。空に向かって手を伸ばす天使は俺だった。感覚でわかる。そうして俺はようやく気づいたのだ。俺はまた描きたいのだと。もっともっと、絵を描きたい。それこそ、天国にいるじいちゃんに届くくらいにうず高くキャンバスの山を築き上げたい。そこでセンパイは一年と少し前に言った言葉を再び発した。

「青木亮くん。もし私の絵に惹かれたなら、もう一度、絵を描き始めて欲しい!」

その言葉を受けて俺は。


青木亮。一枚の絵の下に書かれた名前。ひまわりの絵だった。その絵を見たとき、私の心は今までにない程弾んで、キャンバスの中にいるひまわりに意識を囚われた。それは心地よい感覚で、もっと彼の絵を見たいと思った。思った瞬間、一学年下の男の子を、青木亮くんを探しに行っていた。亮くんの絵はとても生き生きとしていて、本物のひまわりが額縁の中に収まっているようだった。だからだろうか。どことなく辛そうで、空っぽに見える彼の姿を見たとき、亮くんはもう絵を描かないんだと直感で分かった。でも、彼の中にはまだあのひまわりのような明るい情熱が残っているんだと言うことも話しかけてみて分かった。彼の瞳は何も写していないように見えて、よくよく覗き込むとひまわりの情熱的な黄色が鮮烈な光を放っていた。心の底で燃えがる絵を描きたいという欲求を覆い隠してしまうほどの何かが亮くんの手を止めていた。その何かは、きっと彼にとってとても大切なモノなんだろう。私は彼のことを詳しく知らない。どれだけ彼が辛くて、苦しんでいても事情を知らない私の言葉では彼の心を掬い上げることはできない。だから、私は亮くんと出会った日から毎日のように彼に話しかけに行った。もう一度、絵を描き始めてほしい、と。私が亮くんの絵を見たいという理由もあったが、それ以上に彼の中にある絵に対する情熱が彼を救うと思った。一緒にテーマパークに行ったりと亮くんと仲を深めつつ、どうすれば彼が自分の中の情熱に気づくか必死に考えた。その結果、一つの答えにたどり着いた。絵に関することは絵で対処しよう。次の日に私は彼に宣言した。「青木亮くん。もし私の絵に惹かれたなら、もう一度、絵を描き始めて欲しい!」。彼はしばらくぽかんとした後、卒業までという条件付きで私の提案を飲んでくれた。それから毎日絵を描いた。亮くんにキャンバスや筆も貸してもらった。色んな本を読んで、色んな絵を見て、亮くんのひまわりを心に浮かべて、ひたすら描いた。絵の具の種類も絵の描き方も全て一から学んだ。それでも、分からないことが多すぎた。きっと私は、世界一無知な画家だろうと思った。亮くんの絵と比べたら、画家を名乗れるかどうかも怪しいくらいだ。それでも描いて、卒業の日がやって来た。かねてから思い浮かべていた、最後の一枚の構想。それをキャンバスに落とし込んでいく。空に手をのばす天使。亮くんの心の底に埋まっている絵に対する情熱を描き出した。やがて亮くんがやって来て、私の全部を注ぎ込んで描いた天使をみて驚いたように目を丸めて、絵の前で足を止めた。その様子を見て私は自身満々に見えるように不敵に笑い、約束の言葉を紡いだ。

「青木亮くん。もし私の絵に惹かれたなら、もう一度、絵を描き始めて欲しい!」

その言葉に亮くんは。


その言葉を受けて青年は、

「センパイ。ここの描写が荒い。俺が手本見せるから書き直してください。」

「亮くん、それって、つまり…」

青年は今まで一番の笑顔を少女に向けた。いたずらっぽいその笑みは少女の気持ちを幸せで満たすのに十分すぎるくらいだ。

「これ、俺のこと書いてるんでしょ。だったら、当事者が手を出してもいいと思うんですけど。…まぁ、つまり…もう一度俺に絵を描き始めるきっかけをくれて、ありがとうございます。」

その言葉に、今度は少女が満面の笑みを浮かべる。暖かな日差しが、二人の背を照らした。

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パーントル・デ・プレリュード 粋羽菜子 @suwanako

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