宇治橋姫 うじのはしひめ 第一章

 京都の宇治橋に祀られている神。橋姫という神は宇治以外にも祀られているが、特に宇治の橋姫は嫉妬に狂う女性の鬼、という伝承を持つ。


 源平盛衰記に


 嵯峨天皇の御世、ある公卿の娘が深い妬みにとらわれ、貴船神社に七日間籠って「貴船大明神よ、私を生きながら鬼神に変えて下さい。妬ましい女を取り殺したいのです。」と祈った。明神は哀れに思い「本当に鬼になりたければ、姿を変えて宇治川に二十一日間浸れ。」と告げた。


 女は都に帰ると、髪を五つに分け五本の角にし、顔には朱をさし体には丹を塗って全身を赤くし、鉄輪(かなわ、鉄の輪に三本脚が付いた台)を逆さに頭に載せ、三本の脚には松明を燃やし、さらに両端を燃やした松明を口にくわえ、計五つの火を灯した。夜が更けると大和大路を南へ走り、それを見た人はその鬼のような姿を見たショックで倒れて死んでしまった。そのようにして宇治川に二十一日間浸ると、貴船大明神の言ったとおり生きながら鬼になった。これが「宇治の橋姫」である。


 宇治の橋姫は、妬んでいた女、その縁者、相手の男の方の親類、しまいには誰彼構わず、次々と殺した。男を殺す時は女の姿、女を殺す時は男の姿になって殺していった。京中の者が、申の時(十五~十七時頃)を過ぎると家に人を入れることも外出することもなくなった。


 と書かれている。ちなみにこの話は丑の刻参りの由来と言われている。


「橋姫」『ウィキペディア日本語版』,(2021年7月13日取得,https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%A9%8B%E5%A7%AB&oldid=83907836).


 ・・・・・・


 ——どうか、この子をお守りください。


 それが女性の祈願だった。この子とは女性の息子である。年の頃は九、十歳ほどだろうか、まだ幼い子供だった。さっきその親子は神社にぶらっと寄って、母親がそう祈願した。そして俺はこうしてその親子の住むアパートの前で色々考えを巡らしている。子供はアパートの下で遊んでいて、母親が煙草を吸いながらそれを見ている。その様子を建物の陰から晴助も見ている。どう見ても子供は健康で、あやかしの気配も感じられない。母親もそうだ。さて、今の親子の状況はとても平和に見えるが、母親には何か気掛かりな事があるのか?


 ——しかし、俺が昔住んでたアパートもこんな感じだったっけ。


 家族が住むにはそぐわない、単身者用といった小さい部屋のアパートだった。或いはあの母親はシングルマザーなのか?しかし、やはり今の時点では情報が少なすぎる。


 ——取りあえず、明日一日張り付いてみるか。


 十時過ぎに部屋の電気が消えた。晴助はそう考えながら、そのアパートをそっと離れた。


 ・・・・・・


 息子は八時前に家を出てきた。ぶらぶらと歩いて集団に合流する。同じ学校の集団登校のグループの様だ。八時二十分、学校着。それを見届けて、晴助はアパートに戻る。十一時頃、母親が出てくる。母親が向かった先はスーパーだった。買い物かと思ったが、母親はそのまま店の裏口に回った。様子を窺っていると、彼女は制服を着て出てきて、レジの前に立つ。どうやらここでパートの仕事をしている様だ。息子は学校、母親はパート、しばらく動きはないだろうが、どちらに張り付くか晴助は少し迷う。祈願内容は息子を守る事で、そうなると学校に張り付く方が確実なように思えるが、ただ、母親がこんな祈願をしたのは、つまり母親自身が何か危険な事が起こる可能性が高いと考えているという事だ。晴助は少し悩んで、そのまま母親の様子を窺う事にした。しかし、母親は淡々と仕事をこなすだけで、晴助の期待する様な事は何も起こらない。結局五時過ぎに母親はパートを終え、外に出てきた。帰りに学校に寄り、息子と合流する。親子はそのまま帰宅し、それから就寝するまで外出する事はなかった。


 ——まだ俺の知らない登場人物がいる筈で、俺の知らないあやかしと共に登場するんだろう。母親はそいつの登場は望まないだろうが、しかし、俺がここにいるって事はそいつはやがてあの親子の前に現れるという事だろう。


 晴助はそんな事を考えながら、灯りの消えた窓をしばし見つめていた。やがて、晴助は歩き出す。しかし自宅の前を素通りし、そのまま境内に入っていく。晴助は狛犬の頭に手を置いて、話しかける。


「なあ、ちょっと聞きたいんだけど……」


 少し間があって、狛犬が応えた。


「……はあ、何でしょうか?」

「俺が目を離した隙にあやかしが来られると困った事になるだろ?」

「……ああ、あの親子の話ですか?」

「そう。なんかあやかしが近づいたら俺に分かるみたいな、そんな方法無いかな?」

「うーーん……ああ、そうだ。今六角棒を持っています?」

「ああ。」

「先に付いてる、六角形の輪っかを横に引っ張ってみてください。」

「え?これを?」


 晴助は狛犬の言葉にちょっと戸惑ったが、言われた通りその輪を恐る恐る引っ張ってみた。すると軽い金属音と共に六角形の輪が取れた。しかし、六角棒の先に付いていた六角形の輪もそのままそこに残っている。まるで手品の様に、その輪が二つに分かれたみたいに見えた。


「その輪っかをドアノブにでも掛けておいてください。あやかしが近づけば六角棒の方の輪っかが鳴りますから。」

「へー!こんな便利な物があったのか!これでどれくらいの範囲が有効なんだ?」

「そうですね、大体一キロ四方くらいですかね。」


 晴助は自分の家とあのアパートとの距離を確認している様で、やがて納得したように言った。


「いや、ありがとう、助かったよ。」


 礼を言って立ち去ろうとした晴助だが、何かを思い付いたかのように立ち止まって振り返る。


「こんな鉄の輪っかがドアノブにぶら下がってたら、明らかに不審物だろう?」

「ああ、大丈夫ですよ。その輪っかは人には見えない代物ですから。それから、その輪っかはあなたの手を離れてしばらくするとあやかしにも見えなくなります。」


 今度こそ納得した晴助は礼を言って、その場を立ち去った。


「晴助さん、それの効果は一日くらいですから。気を付けてくださいねー!」


 今度は、狛犬が去りかける晴助の背中にそう声を掛ける。晴助は手を上げて答えて石段を降りていった。


 ・・・・・・


 次の日、親子が一緒に出掛けて、最寄りの駅まで近づいた所で、やっと晴助はそれに気付いた。そう、今日は土曜日だ。そう言えば親子の格好もいつもと違っていた。なるほど、今日は親子でどこかに出掛ける訳か。電車の中で屈託なく過ごす息子と、それを見守る母親を見ていると、晴助はふっと黒手になる前の日常を、自分自身の平穏で少し退屈な、日常を思い出した。


 ——親子、か。


 ほどなく親子は電車を降りていく。どうやら目的地は水族館の様だ。


 二人はゆっくりと水槽を見て回る。後に付いて晴助もゆっくりと水に生きる生物を見て回る。とりわけ二人はくらげの水槽の前で立ち止まり、立ち尽くす。ただぼうーっとくらげがゆらゆら揺れるのを眺めている。晴助は考えまいとして、体を固くしてその様子を見ているが、しかし思考は手綱の切れた馬の様に言う事を聞いてくれず、やっぱりあの日の事を考えてしまう。


 晴助にとってあの日の事とは、あの人の事と同じ意味だ。晴助には殆ど母親の記憶がない。記憶にある母親は殆どあの日の記憶だけで、あの日とは母親が出ていった日、晴助が捨てられた日の事だ。その日、晴助は珍しく母親が出掛ける時にぐずって、母親を困らせた。晴助には予感があったのかもしれない。母親はコートの端を掴んで離さない晴助の手を取り、何か言い訳めいた事をつぶやいた。しかし晴助の顔は決して見ようとはしなかった。そして、あの人が玄関のドアから出て行く時、その顔に一瞬笑顔が浮かんだ。その笑顔を思い出すと、晴助は体に悪寒が走り、腹の下から苦い物が込み上げてくる。あの笑顔、あの笑顔に自分は殺されたのだ、と晴助は思う。自分は母親、あの人に捨てられた時に一度死んだ様な気がして、それが今でも怖くてならないのだ。あの人はあの笑顔を浮かべた時、何を考えていたのだろう?多分、未来の自分で、息子、つまり晴助が存在しない世界で生きる自分の未来の姿なのだ。晴助は両腕を固く組んで、この記憶を元あった場所にしまいこもうと奮闘する。この記憶は深い深い場所にしまいこんでいるのだが、ふとした拍子に、あのくらげの様にゆらゆらと水面に上がってきてしまうのだ。


 二人は外の公園のベンチで弁当を食べる。母親が作ったサンドイッチだ。気分の優れない晴助はグッタリしてそれを横目で眺めていた。食べ終わると二人はぶらぶらと寄り道しながら帰路に着く。親子はその後外出する事もなく、一日が終わった。灯の消えた部屋の前で、晴助はドアノブに輪っかを掛けて、そのまましばらく何も考えずただじっと立っていた。


 ・・・・・・


 母親はパートに出掛けたが、息子は家から出てこない。今日は日曜日なので、学校は休みのはずだ。昼過ぎに息子は家から出てきた。ぶらぶらとあてもなく歩いているようだが、結局母親の働いているスーパーに到着する。息子がちょっと待ったのち母親も合流し、二人で神社に寄ってから、家に帰る。


 今日も何事も無く過ぎていく。親子にとっては良い事なのだろうが、晴助はさすがにいささか焦れてきていた。明日からは息子の方の様子を見張ろうか、とか思案しつつ、灯の消えたアパートの窓をぼんやり見ていた時に、目の端で何かが動いた。男が廊下を歩いてくるのが見えた。スーツを着た男だ。ここに張り付いて以来見た事もない男だが、果たしてこのアパートの住人だろうか。やがて、その男は親子の部屋の前で立ち止まる。そのまま男はドアに耳を押し付けてしばらくじっとしていた。晴助は固唾を呑んで見守る。やがて男は玄関の写真を、一枚撮った。どうやらスマホで撮った写真を誰かに送信している様だ。やがて男は来た道を戻っていく。帰るのか?晴助は後を尾ける事にした。男は駅の反対側の閑静な住宅街にあるマンションに入っていった。どうやらここが男の家らしい。5階の渡り廊下を歩いてく男は、鍵を開けて504号室に入っていった。晴助は集合ポストで男の名前を確認する。


 ——滝本たきもと


 それがスーツの男の名前。この男が母親の考える危機なのか?しかし、あやかしの気配が感じられなかった晴助は確信が持てない。だが、このスーツの男の挙動が不審だったのは確かな事だ。


 ——今のところ最重要の容疑者って感じか……


 晴助はその場を離れた。

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