黒手
高瀬 梟角
天手力男命 あめのたぢからおのみこと 第一章
天照大神の岩戸隠れの際、天手力男命は岩戸から顔をのぞかせた天照大神の手を取って、岩戸から連れ出した。また、その時放り投げた岩戸の一部が
天孫降臨の際は、天照大神が三種の神器に
・・・・・・
晴助は、会社の敷地内の隅に追いやられた喫煙所で一服しながら、ぼんやりと空を眺めていた。その日は春らしい陽気の良い天気だったが、風が強く、ほとんど突風とでも言うべき強い風が時折吹いてきて、それで晴助は、ただぼんやりと空と風を眺めているのだった。やがて煙草を吸い終わると、帽子のつばをしっかり掴んで、業務に戻るため歩き出したが、隅の方で子供が二人遊んでいるのに気付いた。この会社は住宅街の中にある小さな会社なので、たまにこうやって子供が紛れ込んで遊んでる姿を見る。しかし、会社の敷地内には、様々な建築資材が乱雑に置かれているので、子供の遊び場として適しているとは言えないのだ。晴助は急いで子供の元に駆け寄り、追い出そうと声を掛けようとしたその時、突風が吹いた。子供らのすぐ横に立てかけてあった鉄骨が、風に煽られて一人の子供の頭上に弧を描いて迫るのが見えた。
晴助は咄嗟に右手で子供を突き飛ばした。鉄骨が唸りをあげ、子供が泣き叫び、砂塵が辺りを舞い、会社の人間が走り回り、そして地面を転がる晴助の帽子と、やがて夥しい血液。弧を描いて落ちてきた鉄骨はそのまま晴助の伸ばした右腕の上に落ちた。激しい激痛に晴助は身を捩り、右腕を鉄骨の下から引き出そうとするが、ピンに止められた虫のようにもそもそ動くだけで、鉄骨はびくともしない。鉄骨に引き倒された時に頭を打ったらしく、意識が朦朧としてきた晴助は、のろのろと鉄骨に左手を掛けたところで意識を失ってしまった。
次の記憶は病室で聞いた途切れ途切れの会話だった。
「あの、ご家族の方にご連絡を取りたいのですが……」
パタパタと、サンダルを履いた医師が廊下を慌ただしく走ってきて言った。
「それが、実は彼は身寄りが居なくて……ええ……私が身元保証人みたいな感じで……」
答えているのは晴助の上司だ。
「……そうですか。それじゃあこちらで、ちょっと署名を、その、頂きたいんですよ……」
そんな会話をうつらうつら聞きながら、晴助は目を開ける事も出来ず、また意識を失う。
こうして晴助は右腕を、正確に言うと右手の肘から下の部分を失った。病室で目覚めてから、医師にあれこれ説明されたが、まずその現実を受け入れる事が難しかった。退院までは約一ヶ月かかったが、そこで晴助は本当に途方に暮れた。無くした腕の事、仕事の事、将来の事、そういう事が段々現実味を帯びて、晴助を追いつめていった。
医師からはリハビリの事や、義手の事やで何かと呼びつけられたが、それもすっかり無視するようになり、起きている間はだらだらと酒を飲み続けた。そんな中、晴助は夢を見た。薄暗い闇の中、晴助は強い風に抗って立っていた。そこに野太い声が聞こえてくる。
「晴助よ。」
名前を呼ばれた晴助は声の主を探すが、周りに人影は見当たらない。
「黒手はわしの預かりとなっておる。」
風はますます強まり、吹き飛ばされそうになる晴助は、黙ってその言葉を聞くしかない。
「心を決めたならば、わしに伝えよ。されば、わしは黒手をお主に授けよう。」
その言葉を最後に晴助は吹き飛ばされ、そして目を覚ました。何故か忘れ難い夢だった。そして、その夢を見たのはその夜が最後ではなかった。退院して三ヶ月経つ頃には、その夢を三回ほど見ていた。その夢を見る度に不思議に思うのだが、晴助自身には何をどうすればいいのか分かるはずもなかった。
そんなある日。晴助は酒を買いにコンビニに行こうと玄関を開けて、外に出た。するとそこに子供を連れた母親が立っていた。晴助はその子供を見て、ぞっとした。そしてぞっとした自分に驚いた。そう、晴助が助けたあの子供たちだ。兄弟だったようだが、晴助にとっては気の重い再会であった。
「……あの……、この度は……」
俯いた母親はなかなか言葉が出てこない。それはそうだろうと晴助は思う。もし自分が母親の立場だったら、何て声を掛けていいか分からない。
「本当にありがとうございました!」
母親は叫ぶようにそう言って頭を深く下げた。
「あ、いや……」
晴助は少し後ずさりし、手をひらひら振って何か答えようと思うが、母親の叫ぶ様な謝罪に気圧されうまく言葉が出てこなかった。
「病院にも何度かお伺いしたのですが、生憎お目にかかる事が出来ませんで……ご挨拶が遅れまして、誠に申し訳有りませんでした!」
今度は子供も一緒に頭を下げた。
「いえいえ、頭をお上げください。」
必要な事なのかもしれないが、晴助には子供達が哀れに思えた。
「その……お子さんが無事で良かったです。」
「……あの……お体の方はどうでしょうか?」
聞きづらそうに母親は尋ねる。
「ええ、もう痛みは殆ど取れましたし、大丈夫ですよ。」
ふと気付くと子供達は涙ぐんでいた。晴助には子供達がますます哀れに思えてきて、兄の頭を撫でて言った。
「心配する事ないよ。まだ片方残ってるんだからさ。」
そう言ってから、晴助はこれは失敗だった、と悟った。子供達の視線は晴助の右腕、があったところを凝視していた。腕の話題を出すべきじゃなかった、と思った晴助はとりあえず早くこの場を逃れたくて、嘘をつく事にした。
「あの、せっかくお越しいただいたんですが、今から病院に行かなきゃいけないんですよ。」
「そうですか……あの……」
母親は菓子折りを晴助に差し出し、
「私どもに出来る事があれば、どうぞおっしゃって下さい。」
そう言って今度は封筒を渡そうとしてきた。晴助は殆どけんか腰でそれを何とか振りきり、走るようにその場から逃げ切った。しばらく離れてから振り返って見てみると、その親子はまだこちらに向かってお辞儀をしていた。晴助はたまらず駆け出した。
コンビニで酒を買った後、気分が晴れぬ晴助は少し遠回りして帰る事にした。右腕を失ってから、人の視線を気にするようになった晴助はわざと暗い道を選んで、どんどん歩いていった。
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