無口な元調香師は事件の香りに誘われる。でも、恋の香りには気づかない

藍沢翠

1・プロローグ

「お、お前、祝福の調香師だな」


 宿屋の主人は青ざめた顔でセレネを見つめた。

 セレネはこの一か月、この宿屋に住み込みで働いて、彼は優しい雇い主だった。


「あ、あんた鼻を押さえないと。祝福の調香師の香水を嗅ぐと心を操られて、財産を渡しちまうって話だよ」


 さっきまで一緒に掃除をしていた宿屋の女将さんは、慌ててセレネの側から離れた。


「違います。私は祝福の調香師ではありません」


 そんな香水が作れるなら、セレネは魔法使いだ。魔法はお伽噺の中だけのものなのに。


 ただ、人が噂を信じている以上、証拠を持たないセレネがそれを否定するのは難しい。


「さっき、部屋に入って来た俺の名を振り返らずに呼んだじゃないか。体臭でわかったんだろ。祝福の調香師は人の体臭も嗅ぎ分ける。服に付いた匂いで何を食べたかも簡単にわかる。そう聞いたぞ」


「あたしは今まで何度も見た。客が外で食べて来た夕食をあんたが当てたところを。勘がいいのかと思っていたけど、匂いを嗅いでいたんだね」


 鼻をつまんでいるせいで、二人は鼻声だ。

 人を操る香水とやらを恐れているのだろう。今、この部屋には香水の匂いなんてしていのだが。


(いい職場だったのに、これでまた解雇だろうな)


 残念な気持ちで二人を見ると、二人はセレネが思った通りのことを口々に叫んだ。


「その嗅覚が証拠だ! お前は悪女、祝福の調香師。そんな女を雇うわけにはいかない」


「贖罪したと聞いたけど、人の性根は変わらない。すぐに悪さをするに決まってるよ。なけなしの貯金を盗られたら大変だ。出て行ってくれ!」

 

 この宿屋はセレネにとって、この半年で五番目の職場だった。


 何でいつもこうなるのだろう。

 嗅いだ匂いを口にしてしまうセレネの癖のせいではある。

 店主の名を体臭で当てたのは本当のことだから。


 でも、それは広がった噂のせい。祝福の調香師は悪女だという。


 香水は高価な物。だからその名は貴族や裕福な人々の間でしか知られていないはずだった。


 でも、題材が良かったのか、意図的に噂を広められたのか。今ではその名をあちこちで聞くようになっている。


 宿屋を出たセレネは、わずかな衣服が入ったカバンを道端に置き呟く。


「噂の出どころは元婚約者あいつしかいない。調香師の資格を奪っただけでなく、私を飢え死にさせる気? そんなに恨まれることはしてないはずだけど」


******

 祝福の調香師。

 セレネはそう呼ばれ、イースタニア王国の王都にある有名な香水店で働く調香師だった。


 調香師は香料を調合して香りを作る、主に香水を作ることが仕事である。


 それがなぜ、悪女だと囁かれるようになったのか。

 

 それは、半年前の突然の婚約破棄と断罪が発端である。


 婚約者だったオリバーは、17歳のセレネより三歳上の香水店の次期店主。

 二人はセレネが15歳の時に婚約を交わしていた。


 それなのに、その日、彼はセレネの調香室に入るなり冷たい声で言った。


「君のような悪女とは、婚約破棄させてもらう」


「えっ?」


 思わず、セレネは部屋を見回した。悪女がどこにいるのかと探したのである。


 なぜなら彼女は、悪女という言葉には縁遠い。

 薄茶の目、いつも長い黒髪を耳の下で緩く二つに結んだ少し痩せた平凡な17歳の少女。


 それに仕事に追われて、朝から晩まで店にいる。

 香水作りが好きで休日でさえ、自分の調香室で過ごしているというのに。


 だけど、彼の視線はとても婚約者に向けるとは思えない冷淡なものだった。


「君は祝福を利用して作った魔法のような香水をつけて男を虜にして操り、金品を貢がせている。そう聞いたよ」


 セレネの嗅覚はまるで祝福。

 たった二年で調香師見習いを終えたて14歳で調香師となった時、誰かがそう言った。

 それ以来、祝福の調香師とセレネは呼ばれるようになった。


 祝福とは、神が人間に与えた特別な身体能力のこと。

 伝説では古代の英雄が鋼のように固い肉体を与えられ、魔王と戦ったとされる。


 この嗅覚が本当に祝福かどうかはわからない。

 ただ、セレネは離れた場所の香りも嗅げ、人間ではわからない僅かな香りの違いもわかる。

 その上、人間の嗅覚と優れた嗅覚の使い分けもできる。


「オリバー、冗談はやめて」


 こう言えば、彼は「バレたか」と笑うはずだとセレネは思っていた。

 だって、彼は知っている。セレネが香りを確実に嗅ぎ分けるために自身では香水をつけないことを。


 だが、彼の視線が変わることはなかった。


「しらばっくれても無駄だ。君の香水をつければ意中の男が振り向くと、多くの令嬢達が君の香水を注文している。君が媚薬のような香水を作れることは、周知の事実だ」


「そ、それは男性の好む香りを調べ尽くして、注文者の体臭に合わせて香料を調整しているから。知っているでしょ。男性が注文者を気になる、その程度の効果。あとは令嬢達の努力だと」


「さぁ? 本当はどうなんだか。君が令嬢達の婚約者を香水を使って自身の虜にして、婚約破棄をさせて面白がっていたと言う話もあるな」


「そんなこと、するわけが‥‥‥」


「黙れ。君の悪行はエレーナをはじめ店の調香師達や客が証言している。あぁ、君に優しくした時間を返して欲しいよ」


「そんな。私のことが好きだと言っていたのに」


「本気だと思っていたのか? 調香室から出てこない『香水バカ』、しかも気味が悪い嗅覚持ちなのに? 会うのは今日最後だろうから教えておくよ。君と婚約したのは、父さんが店で最も優秀な調香師との結婚を店主になる条件にしたからだ」


「条件‥‥‥」


「でもこれで、店で最も優秀な調香師はエレーナだ。僕の横には彼女のような美しい女性がいないと」


 エレーナはオリバーよりも年上で、セレネに次ぐ人気の調香師。金髪でセレネとは逆の華やかな女性だ。


「まさか、ずっと前から時々あなたの服にエレーナさんの匂いがついていたのは仕事の相談じゃなかったの?」


「今頃、わかったのか?」


「じゃあ、プロポーズも嘘‥‥‥」


 セレネはやっと気がついた。


 オリバーは自分を好きではなかったのだと。

 彼が言っていることは全部嘘。ただ、セレネをこの店から追い出すためのでっち上げだ。

 これは、自分が店主になり、エレーナと結婚することを叶えるための計画なのだと。

 セレネが調香師となった時から、オリバーは優しかった。そんな彼が好きだったのに。

 それなのに、彼はずっとこんな計画を考えていたのだ。


 今の店主である彼の父親は、名を知られた調香師。先代も同じ。だが、オリバーは調香師にはなれなかった。だから、父親はそんな条件を出したのだろう。


「鈍い女だな。そうそう、まだ伝えることがある。なんせ、世界に一人の嗅覚の祝福持ちだ。君が調香師だとそれでも君と結婚しろと父さんに言われかねない。だから、調香師の資格は取り消させてもらった」


「そんなこと、どうやって。罪の証拠もないのに」


「知ってるだろ? 商業組合の会長と僕が親しいこと。まぁ、彼にはいろいろと贈り物もしてるしね」


「そ、そんな」


 この国では、一部の職種で見習いが終わった後、商業組合の資格試験を受けて合格することが義務付けられている。資格がなければそれらの職種で働くことは許されていない。

 資格を失うのは、大きな問題や罪を犯した時、本人が死亡した時だ。


「商業組合の会長はベルタン侯爵。彼は祝福を悪用した君を一生牢に入れると言ったんだけど」


 オリバーはここで、ぞっとするような笑みを浮かべた。


 貴族は平民の罪を裁く権利があると、この国ではされている。

 通常、弁明の場が与えられる。だが、この場合、弁明ができるとは思えない。


 つまり、平民であるセレネはその言葉に従うしかない。セレネはごくりと唾を飲み込んだ。


 口の端を上げたまま、オリバーは言葉を続ける。


「それでは僕の心が痛む。元婚約者だしね。そこで侯爵に相談して、君に贖罪を果たしてもらうことにした。全財産を教会に寄付して王都から出て行くこと。これでどうだろう?」


「私は何も‥‥‥」


 「何もしていない」。そう叫びたかったができなかった。


 開け放たれた部屋の戸の外に控えている二人の男が何者か、セレネには分かっていたから。


 ベルタン侯爵家の紋章が付いた服、腰に剣。彼らはべルタン侯爵の部下。

 反抗すれば、彼らはセレネを牢へと引き立てるはずだ。


「そうだ。香水の調合ノートを置いていくことも贖罪だよ。店への風評被害も償って貰わないと」


 そのノートの存在は、オリバーにだけ明かしていたものだった。

 顧客の香水の調合が書かれたノートさえあれば、セレネは彼にとって完全に不要。

 ここまでが彼の計画だったに違いない。


 とにかく、一生牢に入るよりはまし。

 諦めを抱いて、セレネは王都を出たのだった。


******


「次の仕事を見つけないと」


 強制的に全財産を寄付をさせられた身としては、すぐにでも仕事が必要だ。

 セレネはカバンを持つと、歩き出した。

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無口な元調香師は事件の香りに誘われる。でも、恋の香りには気づかない 藍沢翠 @debunonekodesu

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