第2話(1/3)


 カスミのブルーにミルクを注いだような晴天。草原は自分の健康を主張するように波立っている。水分を含んだ柔らかい風が、ジュリーのウェーブがかった髪を撫でた。母と同じ薄金色は数少ない自慢だ。知的なエリー先生をそのまま表現しているような白金のストレートが羨ましくなることもあるけれど、私は自分の髪をことさら気に入っている。


 前に歩く男、ヤマトの髪は黒鳥の濡れた羽より黒い。

 外套がいとうも黒ければズボンも黒い。鈍重そうなコートが余計に重そうに感じる。広い肩幅の意外さを見ると男性なのだな、と思う。後ろから見ると相当に猫背だ。

 顔は見えない、見えないが、不機嫌そうなのは見て取れる。また眉に皺を寄せてしまっているだろうか。

 

 実のところ、もう三度は置いていかれている。

 

 ついていく、という私の提案は彼にすぐさま却下された。

 曰く、危険だとか、遊びではないだとか、子どもだから、とかも言われたか。親が心配すると言われたときに、もういないと答えたあと彼がとても悲しそうな顔をして黙ってしまって、それは申し訳ないことを言ってしまったと思った。それで了承を得たとしても、人の善意につけこむようでとても気分が良くない。

 でも諦めきれなくて必死で説得して一度は納得してもらったのだ。


 歩きながら顔を覗き込むと、不機嫌というか、困っているというか、面倒そうなというか、とても複雑な表情でこちらを見返す。そして旋風つむじかぜが起きそうなほど大きなため息をつくのだ。


「やっぱり一度街に引き返さないか」

「今から帰ったらまた明日になってしまいます。今日行けばきっと夜には戻ってこれるから、私も明日は学校に出られるわ」


 学校をさぼるなんて初めてでまだどきどきしてしまう。登校途中のクラスの子にエリー先生へ伝言をお願いしたからズル休みではないと思うのだが、理由をはぐらかしているので同じことだ。

 

「それにまた置いていくでしょう。学校が終わったら迎えに行くとおっしゃっていたのに、街を出ていこうとするお兄様を見つけてびっくりしちゃった。どうにか追いついてよかったわ」

「お兄様もやめてくれ」


 ヤマトをあまり待たせては悪いと思ったし、学校を休むと決めて急いでお弁当をこしらえたのだ。ごはんを作りすぎてしまうのが癖になっていて良かった。野菜とチーズのバゲットサンドに、ちょうど冷めるコーンスープはこの天気ならきっと美味しいだろう。彼に出発時間の変更を提案しようと外に出たら、ちょうど街から出ていく方に向かうのを見かけて急いで追いかけたのだった。


「森までは結構歩くし、知らない人と歩いてるって思われたら周りのひとに心配されちゃうわ。それに私一人っ子で妹か弟がほしかったのだけれど、お兄ちゃんでもいいかなって思ったの」


 そういうことじゃない、と彼は小さい声で言った。


「それにお兄様が行かなくても私はひとりで行くから、お兄様がいないほうがきっと危ないわ」


 ジュリーが水仙の笑顔でそう言うと、ヤマトは地面を剥がしそうなほどの大きなため息をついた。




 ツクバの朱門しゅもんが見えた。歩いてこれる距離とはいえ、もう太陽は真上に登っていて、鬱蒼と生い茂る樹々の隙間から光が漏れ出ている。朱門までの石畳の道は落ち葉で見えないほどになっていて、お祭りの前にはまた掃除をしないといけないな、などと思った。


「鳥居だ」

「トリイ?」


 門だよ、とヤマトはこともなげに言う。


「この門から小道に入るんだったか、どこだ?」

「はい、この、うーん、道と言っていいのかしら」


 私は腐葉土に包まれた道のようなものを指し示した。スカートを着替えてきてよかったと心底思う。

 ヤマトはバッグから大きめのナイフを取り出し、枝を打ち払いながら道に入っていった。柔らかい土を踏みしめながら進んでいく。

 しばらく進むと正面よりよほど小さい門が見えてきた。丁字をふたつ並べたような形は正面と同じ。これもトリイだろうか。ヤマトは門をくぐり、裏かな、とか呟いている。門の裏になにかあるのかと探してみたがなにも見つからない。ヤマトに訊こうと振り返るとずんずんと先に進んでしまっていた。


 やがて道がひらけた。獣の祠だ。

 祠の周りには白いお皿を草叢くさむらに置いたように、ひとつの草も生えていない。それだけで不思議な場所だとわかる。お昼すぎの真上の太陽がちょうど差し込んで、祠が光っているようだった。古いもののはずなのにまるで昨日作られたかばかりのように真っ白だ。


 ヤマトは祠を一瞥いちべつもせず奥へ向かう。祠より奥の森は入り口など比較にならないほど鬱蒼としている。異様にきらめく祠があるせいか森は余計に黒く見えて、人間を拒絶しているかのようだ。


「お兄様、そこから先は、入れないのです」


 拒絶。まさにそれだ。

 そこには誰も入れない。樹が壁のようになっていて、しかし、それは言わばたくさんの細い樹だ。切って進めばいい。だけど、それができない。進もうとすると、いや、樹に触ろうとしただけでも、突然不安感に襲われて止めたくなる。


 高いところから下を見下ろしたときに、地面に吸い込まれてしまいそうな。

 友人に悪いことを言ってしまったことを、ベッドの中で思い出したような。

 怖い夢を見てしまったあとの、誰も起きていないまっくらな部屋みたいな。

 例えるのが難しい。恐怖というより、不安。ここを進んだら決して良いことがないだろう、というのが直感でわかってしまって、だから誰も入れないのだ。


「ジュリー、君はここで帰るんだ」


 ヤマトがまっすぐこっちを見て言った。何をいまさら、と思う。

 何度目か分からない反論を口にしようとしたとき、彼は樹々のあいだに手を差し入れた。


「俺はこの中に入れる、だが君は入れないだろう? だから君は帰らざるを得ない。道案内は本当に助かった、ありがとう。それに」

「お兄様が入れるなら私もきっと入る方法があるわ。けれどもし本当に入れないなら……ここで待ちます。それならいいでしょう? ここにいればお兄様が神様にお伺いを立てる方法が少しでもわかるかもしれないし、せっかくここまで来たんですし……遮ってすみません。それに、なんでしょうお兄様」


 俺は獣を殺しに来たんだ、とヤマトは答えた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る