第1話(2/2)
「済まないが、道を尋ねたい」
私に声をかけたその人は、冬の落葉樹みたいに細く、背が高かった。煙草の匂いがして不健康そう。真っ黒でぼさぼさの髪を後ろに括っている。無精髭。自分とは一回り以上年が離れていそうだ。
ひと目でこの街の人間ではないとわかる。
「この辺りでおとぎ話があるだろ? どうも祠だとか、大きな動物とかそういう……洞窟だったかな。そういう場所がこの街の近くにあるってことなんだが、知らないか?」
おとぎ話。おとぎ話というには真実味があって、昔話とかに近いと思う。堕落した天使が地上に落とされて、森で暮らしている、というだけの話。
堕ちた天使は獣となり森にいる。人に危害を加えるでもなく、ただただ、森にいる。
子どもたちがそこにいくと大人はいけないことだと叱るのだ。だけれど、本当に何も起こったことはない。大人も真剣に怒っているようではなさそうに見えた。
地上に落とされたというからには悪いことをして、その罰を受けたのだろう。でも、一人ぼっちは寂しそうに思える。
「ツクバの山の麓の森です。紅峰ツクバって、この辺りでは有名です。今日は天気がいいから見えるかしら……あちらにツクバの頭がでているかも」
ツクバは夕焼けに照らされて深い赤に染まる。今朝の朝焼けでも真っ赤に見えるのだろうか。自分の背丈では建物に阻まれて、街中からはとても見えなかった。
「そう、その森に何か、
そこは。その場所は。
だからこの人は私に場所を訊いたのだ。大人はその場所を知らないから。遊びに出るのはいつも子どもだ。
人に嘘をついたり隠し事をすることなどほとんどないジュリーだが、その場所を教えていいものか悩んでしまう。何故ならあそこは、確かに神聖で、きっと本当に森で暮らす獣はいるし、できるならそうっとしておきたいからだ。決して同情とかではない。ではないのだが。
「ごめんなさい」
「……そうか、わかった。お嬢さん、邪魔して悪かったな」
体躯の割に物腰は柔らかだと、そう思った自分を恥じた。その考えは良くないのだ。その人を見るときは、体ではなく姿勢を見て、顔よりも表情を見なければ。そうしないと、人が、人である部分が見えない。
「いえ、もう神様へのお祈りは済みましたから。それに、お祈りが終わるまで待っていてくれたのでしょう? あなたはいい人です」
そう言うと、男は少し不機嫌そうな顔になった。祭壇の方に顔の向きを変えてしまった。不安になる。私のやましい気持ちが伝わってしまったのではないだろうか。
「神様、お祈りね……」
男は半ば睨みつけるように祭壇を見ている。
「あの、熱心に神様を伺うのはいいと思うんですけれど、そのような顔で見ていると神様に怒られてしまいます」
「ん、いや、俺は怒られないさ」
「何故ですか? 神様は
「神様ってやつは、信じている人に平等だから。信じていない俺には、何もしない」
そういうと男は顔を背けた。
「ああ、こんな話は何にもならない。俺もそろそろ行かなくちゃな」
「私の名前はジュリーと申します、あなたは、何というお名前?」
「ん、ヤマトだ」
「ヤマト様は、森に行って何をなさろうとしているのですか?」
「おとぎ話の獣に会いたい」
「会って、何を?」
「……神様に取り次いでもらうのさ」
ヤマトは眉をしかめてそう言った。何かの比喩だろうか。
いや。獣は堕落した天使で、天使は神様の遣いだ。
神様に取り次いでもらう? そんなことができるなら。
「街を北に出て大きな道を進んで、西に曲がる街道を途中逸れて北東に向かいます。まっすぐ進むとお祭りで通る大きな門がありますけれど、その門には入らず手前の小道を左に曲がるんです。小道の途中には目印がありますから、そこから山頂へ向かうほうに歩くと、獣の祠があります」
そう早口で言うとヤマトは驚いた顔をした。
「ヤマト様、私は道を尋ねられて、ちょっと遅れたけれど、それに答えました。ならばヤマト様も、私の疑問に答えてください。神様に取り次いでもらうとはどういう意味ですか?」
私は毎日神様にお祈りしていて、それは神様にお願いをするために。
「獣は神様に詳しいから、訪ねに行くんだ」
「それができる方法をヤマト様はご存知なのですね」
そんな方法なんてあるのなら。少しでも近い道があるのなら。
「言えない。質問はもう十分だろう。もう俺のほうが答えてないか?」
たったそれだけで私の願いが叶うのならば。
「ヤマト様、獣の祠にご案内しますから、お弁当を作るのを待っていてもらえないかしら」
私には、祈るよりも先にやることがある。
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