吾輩は

紅りんご

吾輩は


 吾輩は暗闇の中にいた。目覚めてすぐは記憶が曖昧であった吾輩も、必死の抵抗も空しく、この部屋に入れられたことは思い出していた。時計の類は持っていないから正確な時間は分からない。ただ、入る前に簡易な食事が与えられ、今もまだ腹が空いていないことを鑑みるに、経っていても数時間だろう。その間、退屈しのぎに歩いていて分かったことがある。

 まず、この部屋は狭い。身体を目一杯伸ばすと、反対側の壁についてしまう。これなら、部屋というより箱と表現した方が遥かに適切だ。そして、この部屋は完全に密封されている。故にここには一つの例外を除いて光、というものが存在しない。その例外は、隅に置かれた装置のランプが点滅する光だ。何を目的としているかは分からないが、部屋には二つの機械があった。一つは壁に密着したアームの付きの無機質な箱。アームの先には金づちが結び付けられている。もう一つはそれと呼応する様に天井に付けられたセンサー。この二つだけなら特に身の危険は感じない。

 しかし、問題は部屋に存在するもう一つの物体。それは、ガラス状の徳利に入れられた液体だった。暗闇のせいで色までは見えないが、それが液体であると分かった時、吾輩は恐怖した。吾輩は生まれてからずっと液体が苦手なのである。今は徳利の中にあるが、その徳利は吊り上げられた金づちの下にある。アームさえ下がれば簡単に割れてしまうだろう。それが何よりも恐ろしいのだ。

 触れるべきか否か、徳利の前を右往左往する吾輩の耳に声が届く。どうやら箱の外で二人の男が話をしているらしい。大方、吾輩をここに入れた奴らだろう。記憶を取り戻すのに役立つかもしれない。吾輩は足を止め、じっと耳をすませた。


「これって実際にやる意味あるのか?」

「もうこの時点で完成だ。これ以上何かする意味はない。だが、やる意味はあった、そうでないと浮かばれない。」

「そうだよな、そう考えないとかわいそうだもんな、コイツが。」

「コイツじゃない、名前は──。」

「そうだった。確かこの実験から取ったんだよな。──って。」


 男達は吾輩の名前を呼ぶと、他愛もない会話をしながら箱から遠ざかって行った。彼らが何を言っていたのか、その殆どは吾輩には意味が分からなかった。分かったことは一つだけ。それは、吾輩の名前だ。彼らは、箱に入れる前にしきりに吾輩に向かってその名で呼びかけていた。

 突然、箱の中に乾いた音が響く。音の方向に目を向けると、徳利に金づちが振り下ろされていた。本能が逃げろと告げる。しかし、ここは密室で逃げ場が無い。息が苦しくなってきた。次第に遠のいていく意識の中、吾輩は先ほど思い出した自分の名前を頭の中で反芻した。 

 吾輩はシュレーディンガーの猫である。

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吾輩は 紅りんご @Kagamin0707

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