第31話 どうしてそうなるの

 本日の天候は雪のち晴れ。厚い雪雲をどけて降り注ぐ陽光は温かで、変質者の頭の中を春うららにしてしまったらしい。

 自らは人の世界に迷い込んだ白鳥である――そう豪語し、お情け程度に羽毛を貼り付けた裸族がグロンホルム地区に出現し、住人たちを騒然とさせた。半狂乱となった住人の通報を受け、ヴェルザ率いる小隊は町中を爆走して、自称白鳥を捕獲し、駐在所に連行することに成功する。だが、事情聴取が難航した。人語を解している白鳥の人語が解せない隊員たちの何人かは自我を失いかけ、面倒な人間の対処に慣れているはずのヴェルザでさえも眩暈を覚えるほどに。そうしてどうにか事情聴取が終わる頃には、短い昼は姿を隠し、長い夜が静かに世界を包み込んでいた。


「この年で全力で追いかけっこをするとは思いもしませんでしたよ。何なのでしょうか、あの白鳥、もとい変質者は……!」


 夜勤の隊員に引継ぎを終えて、相当に疲れ切ったヴェルザは独身寮に戻る。すると、管理人から手紙を一通渡された。ヴェルザに宛てた手紙の送り主は第十七児童養護院のファグルルンド院長だ。自宅に入り、素早く部屋着に着替え、麦酒を注いだグラスを用意して、ヴェルザは深呼吸の後に手紙を丁寧に開封する。

 ――トゥーリッキが児童養護院を訪れたので、貴女からの言葉を伝えました。彼女は貴女と面会したいと望んでくれましたよ。

 手紙には流麗な文字で、トゥーリッキの都合がつく日や、面会の場所には児童養護院を望んでいることなどが書かれていた。


(この日なら急に休日の申請をしても許可をして頂けそうですね……)


 トゥーリッキはヴェルザを拒絶しなかった。それを嬉しく思うが、ふと、怖くもなる。こんなにも簡単に物事が進んでいくからだ。


(私一人で対処できるかどうか、いまいち自信がない……どうしましょうね?)


 怖気付いて、悶々とした気持ちを抱えるヴェルザの脳裏に或る人物が浮かぶ。そうだ、あの人に手助けをしてもらおう。グラスの中の麦酒を一気に飲み干し、ヴェルザはにんまりと笑う。




「カウピくん、君に御用事があると仰る御方が受付にいらっしゃっていますよ。ついでに昼休憩もとってきてくださいね」

「畏まりました」


 上司のクラキ室長に声をかけられたハルジは手を止め、机の上を整頓してから席を立つ。

 ――あのカウピ財務官にも来客があるんだ。そんな視線を浴びながら職場を出ていき、何やら意味ありげな視線を送ってくる輩や、聞こえるようにひそひそ話をする輩の集まる廊下を歩いていけば、庁舎の一階にある受付の前に佇んでいる長身の女性を見つける。


「こんにちは、カウピさん」

「こんにちは、ステルキ准尉」


 ハルジを見つけるなり、柔らかい微笑みを浮かべたヴェルザが挨拶をしてきてくれたので、彼も抑揚のない声で挨拶を返す。


「突然お呼び立て致しまして、申し訳なく存じます」

「これから休憩に入ろうとしていたところですので、お気になさらず。ところで、僕に御用とは何でしょう?」

「カウピさんに御相談したい旨が御座いまして、御都合の良い時間をお尋ねしたく一先ず独身寮に向かったのですが……」


 ヴェルザが泥酔したハルジを襲ったという噂を流した管理人はどうしてか彼女を此方に案内し、受付でハルジを呼び出すように職員に言いつけるとさっさと帰ってしまったのだという。以前にも似たような出来事があったと思い出して、ハルジは唇の両端を僅かに上げると同時に腹の虫が豪快に鳴いた。


「……食事をしながら、お話を伺っても宜しいですか?」


 羞恥心のあまり仏頂面になったハルジにヴェルザは「勿論です」と返事をする。

 噂の二人が並んで歩いていれば、先程以上に視線を集める。ハルジは全く頓着せず、ヴェルザは気付いていない振りをして、食堂へ。本日の献立が記載されている看板の前に立つなり、ハルジはヴェルザを見上げた。


「ステルキ准尉は昼食は済ませていらっしゃいますか?」

「ええ、軽く頂いて参りました。然し、これほど良い香りを嗅いでしまいますと、不思議とお腹が空いてくるものですね……どれを注文致しますか、迷ってしまいますね」


 と言いつつもヴェルザはささっと肉の煮込み料理を注文し、ハルジもいつも通りに沢山の料理を注文して、ハルジがよく利用している席に向かい合って座る。ヴェルザの相談事とは何なのか。尋ねようとして彼女の顔を見て、ハルジは思わず開きかけた口を閉じた。

 ――此方に伺うのが遅くなってしまって御免なさいね、アトリ。

 様々な音が雑じり合って五月蠅い空間で、呟いたのかと思うほどの音量のヴェルザの言葉をハルジの耳が拾う。食堂で働く人々、利用する人々の動く様を眺めている彼女は嬉しそうに、けれどもどこか寂しそうに微笑している。その中に、今はもういない弟の幻を見ているのかもしれないと、感受性が豊かではないハルジが感じ取り、声をかけられないでいると――彼の視界に太い腕がにゅっと現れて、ぎょっとした。いつの間にやら料理が出来上がっていて、料理長ともう一人がてきぱきと配膳していく。


「あんたが来てくれるの、アトリと一緒に待ってたぜ。ゆっくりしていってくれよ、アトリの姉さん」

「有難う御座います。わ、良い匂い、美味しそう!」


 去り際に「頑張れよ、カウピさん」と強めに肩を叩かれて我に返り、ハルジは喉に留めていた言葉を吐き出す。


「ステルキ准尉。僕に相談したいことがあると仰っていましたが……」

「ああっ、そうでした!食欲に負けて目的を忘れておりました……」


 しっかりと煮込まれて口の中でとろける肉を堪能していたヴェルザはきりっと顔を引き締める。児童養護院のファグルルンド院長から手紙が届き、トゥーリッキがヴェルザとの面会を望んでくれていると書かれていたことを報告されたハルジは「それは良かったですね」と素直に気持ちを伝える。感情の篭っていない口調ではあったが。


「面会の場にカウピさんにも同席して頂けないかと御相談に伺いました次第です」


 え?どうして僕が?という気持ちがハルジの硬い表情筋を動かした。ヴェルザははにかみつつ、彼をじっと見詰める。


「トゥーリッキさんからしたら赤の他人でしかない僕が同席するのは、気味が悪いことだと思うのですが?」

「いざ願いが叶うとなると、急に怖気付いてしまうものでして……緊張のあまり何も話せなくなってしまうのではないかと。ですから、どのような状況でも冷静に行動出来るカウピさんの御力添えを御頼み申し上げます……!」


 一人が不安ならば、誰かを頼ることに問題はない。ヴェルザには味方になってくれる人間が沢山いるはずだ。後見についてくれているクヴェルドゥールヴ家の人々や、軍の関係者など。けれども彼女が頼ったのは、知り合ってそれほど月日も経過していないハルジだ。アトリという媒介がなければ出会うことはなかっただろうハルジだ。


「……僕の前に何人ほど面会の同席を断られたのですか?」

「頭に浮かんだのがカウピさんだけでしたので……ああ、クヴェルドゥールヴ家の皆さんや軍の関係者は思い浮かびませんでしたね、面倒に発展しそうな予感しかしませんし」


 彼らは決して悪い人々ではない。ただ、脳ミソが筋肉でできているだけ――ごく一部を除いて。乾いた笑みを浮かべるヴェルザにハルジはもう一度、問いを投げかける。


「……そうでしたか。然し、空気が読めないと定評のある僕に立ち合いを求めるなんて、ステルキ准尉は博打がお好きなのですか?」

「私は駆け引きが苦手ですので、賭け事には手を出さない主義ですね」

「……そうですか」


 アトリ曰く、ヴェルザは一部を除いて何でも一人でこなせる人物だ。それを聞かされていたハルジも、そのように認識している。そんな彼女がどうしてか、ハルジを頼った。それが嬉しいのに、気持ちを上手く表現することが出来ないハルジは天邪鬼になる。


「僕は大してお役に立てないと思いますが、それでも宜しいのでしたらお手伝い致します」

「有難う御座います、カウピさん。ああ、良かった。これで一安心です」


 イイ年をした成人男性が子供じみた態度をとっているのも頓着せず、ヴェルザがにこにことハルジを見つめる。その視線が耐えられなくて。彼はそっぽを向くしかない。


(何故、そんなに嬉しそうにしているのか)


 徐々に頬が熱をもってきたので、それを冷まそうとハルジは冷水の入ったグラスを手に取り、頬に当てる。


(何だかツンデレの猫ちゃんのような御方ですね……かわいらしい……うふふっ)


 ヴェルザの目に映るのは黒髪の成人男性ではなく、黒色の被毛の猫であるようだ。彼女はきゅるんとした目の猫も好きだが、ぶすっとした可愛げのない猫も好きだった。

 二十も半ばを過ぎた二人の男女のやりとりを食堂のあらゆる場所から眺めていた料理長たちは「何なの、あの甘酸っぱい雰囲気は……思春期なの?」と、他人事に胸をキュンキュンさせていた。その他の人々は「早く仕事に戻ってくれないかな」と空腹に耐えていた。

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