第8話 苦慮する王太子 他人事のヘルギ
馬車に揺られて、貴族区画と王宮区画を隔てる門を潜り抜けて、ヴェルザは溜め息を一つ。彼女の対面の席に座しているヘルギはそれを見ていたようで、すうっと目を細める。
(面倒なことは全て書面で済ませて頂きたい……)
不当な扱いを受けたことに立腹しているのは確かだが、王族から直々に謝罪をして頂けるとは端から期待していない。お偉い方々は下々の者に軽々しく謝罪をしないものだと、ヴェルザは理解している。それなのに王太子殿下が直々にヴェルザに謝罪をしたいと仰るのは、そうすることに利点があるのだろうとも理解する。だが、無関係の王太子からの謝罪を受けるのも憂鬱であるし、また王宮に出向くことで会いたくない人物と鉢合わせしたらどうしようという不安もある。
至急、どうにかして寝込むほどの病気になれないだろうか。然しヴェルザの身体は至って健康そのもので、生まれてこの方、碌に風邪もひいたことがない。健康万歳。
「ヴェルザ。ハムセール王子殿下は今、王太后殿下の離宮のベッドの上。国王陛下も其方にいらっしゃって、外へは一度も出て来られていない。安心しなさい、出会すことはないよ」
「……はい」
「それにお前を下に見てくる奴らの扱いは心得ているだろう?長閑な田舎暮らしで、あしらい方を忘れたか?」
「まさか。長閑な田舎の警邏隊にも同じような方はいましたよ。左遷された者同士で傷を舐め合うことはありませんでした」
「牙が抜かれても折れてもいないようで、何よりだ」
ヘルギがヴェルザの不安を取り除こうと声をかけてくれたのだと理解して、気恥ずかしくてはにかむと、「お前は直ぐに表情に出る。それでよく軍人になれたものだ」とヘルギが愉しげに笑った。やっぱりこの人には勝てない、と、観念したヴェルザも眉を下げて笑った。
やがて、王宮前の広場で馬車が止まる。馬車を降りて、王宮の入り口で待機していた王太子の侍従に誘われて、いざ、王宮内へ。王太子の執務室に向かって豪華さで彩られた廊下を歩いている途中で、顔見知りの近衛師団団員と目が合った。ヴェルザが会釈をすると、その人物は逃げるように立ち去っていく。問題を起こした――正確には面倒に巻き込まれて処分されたヴェルザと関わりたくないのかもしれない。
「王太子殿下。クヴェルドゥールヴ中将とステルキ准尉をお連れ致しました」
執務室の内から若い男性の声で「入れ」と聞こえると侍従は扉を開け、ヴェルザたちに中に入るように促す。
広々とした執務室だが、壁紙は白く、採光を目的とした大きな窓沢山並んでいるので、ガス灯を利用しなくても自然光だけで十分に明るい。美しい彫刻のある年代物の執務机の山積みになった書類や本の隙間で羽ペンを忙しなく動かしていた人物が徐に顔を上げた。
「よく来てくれた、クヴェルドゥールヴ中将。忙しいのにすまないな」
「王太子殿下、どうぞお気になさらず」
仕事の手を止めた王太子シグムンドは立ち上がり、鷹揚とした足取りで二人の前までやって来る。
「此方がスヴェルズレイズ・ステルキ准尉です。ステルキ准尉、王太子殿下に御挨拶を」
「お初にお目にかかります、王太子殿下。小官は南方司令部ロスガルジ小隊所属のスヴェルズレイズ・ステルキ准尉と申します。御尊顔を拝し奉り、恐懼の極みに御座います」
背筋をピンと伸ばし、軍人然とした様子で敬礼するヴェルザに、如何にも絵物語に出てくる王子様然とした王太子は麗しく微笑む。
「丁寧な挨拶を有難う、ステルキ准尉。遠いロスガルジから王都に呼びつけられて疲れているだろう、其方の椅子に腰を掛けて休みなさい」
「お心遣い痛み入ります」
ヴェルザの隣席にはヘルギが腰かけ、対面の席に座した王太子は侍従に何かを言いつける。侍従は会釈すると執務室から出ていき――少しの間をおいて、王太子がヴェルザに話を切り出した。
「貴官を呼びつけた理由についてはクヴェルドゥールヴ中将から聞いているだろうが、改めて。
「一介の軍人である小官にそのようなことをなさる必要は御座いません、殿下。今回の件は小官にも至らぬところがあったからこその処分ではないかと存じます」
国王とハムセール王子が謝罪してくることはないと思っておりますし、かといって無関係の王太子が二人の代わりに謝罪するのもおかしくはないですか?と口には出さずに、出来るだけ大人の対応をしようと心掛けるヴェルザ。彼女のその対応に、王太子は安堵したように息を吐いた。
「不当な処分を撤回し、貴官の階級を准佐に戻し、近衛師団中隊長の職務に復帰させることで名誉の回復としてもらいたいのだが……」
「恐れながら、殿下。小官はロスガルジ小隊の平隊員の職務に誇りを持って励んでおります。以前の階級に戻して頂くことも、近衛師団への復職も考えておりません」
今更元の職場に戻されても、可哀想な人として扱われて浮いた存在になってしまうのは目に見えている。そんなことは御免なので、ヴェルザは丁重にお断りした。
(一介の軍人であれば精鋭揃いの近衛師団に戻れると言われたら、泣いて喜ぶのではないか……?彼女はどうして断るのだろうか……?)
ヴェルザの反応が想定していたものと違った王太子は、気品のあるしょっぱい表情を見せた。二人のやり取りを黙って眺めているヘルギは込み上げてくる笑いを堪える。
しん、という沈黙が室内を支配する。すると不意にお茶の良い香りが彼らの鼻腔を擽った。姿を消していた侍従が戻ってきており、お茶と菓子を机の上に並べると、王太子の背後に控えて気配を消した。
「異国から取り寄せた茶だ、香りと味が良い。貴官らも味わうと良い。菓子も遠慮なく頂きなさい」
「有難く頂戴致します、王太子殿下。ステルキ准尉もお言葉に甘えなさい」
「王太子殿下のお心遣いに感謝申し上げます」
王太子は優雅な仕草でお茶を一口。香りと味に心を落ち着かせてから、彼はもう一度口を開いた。
「……
「恐れながら、殿下。中隊長の職務は小官には荷が重すぎました。身分不相応だったのです。小官を評価してくださる姫君には申し訳なく存じますが、降格ついでに左遷して頂けましたこと、大変有難く存じております」
ヴェルザは意固地になっているのではない。警邏隊の職が性に合っていると思っているからこその発言だ。だが、多少の嫌味は混ぜている。それくらいは許して欲しいと勝手に思いながら。
(駄目だ、全然話に乗って来ない。これでは困る……っ!)
どす黒い笑顔を貼り付けた異母妹に「どうぞ、王太子殿下の御力でステルキ准佐を私の許に返してくださいませ」と迫られた時の恐怖が王太子の脳裏に蘇る。怒りの沸点を超えた異母妹の目は血走っていた。いい年した大人の男が恐怖のあまり失禁しかねないほどの威力を有した目力だった。
(何とかヒミングレーヴァを納得させられる案はないか……っ!?)
異母妹に八つ当たりでボコボコにされるのは避けたい。普段は冷静沈着な異母妹だが、限界を超えると見境が無くなることがあるのだ。三か月前に他国の王女と結婚したばかりの王太子は、まだまだ新妻とイチャイチャしたい。異母妹の攻撃で人事不省となってしまっては、それは叶わなくなるだろう。藁にも縋る思いでヴェルザの隣に座しているヘルギに「助ケテクダサイ」と視線を送る。ヘルギは正面に顔を向けているものの、琥珀色の目を此処ではない何処かへと向けていた。彼が事前に受けていた命は、ヴェルザを此処まで連れてくること。それ以外は命じられていないので、王太子に助け舟を出すつもりはないようだ。
――援軍は無い。そう悟った王太子を絶望が襲うが、同時に一案がふわっと浮かんできた。
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