第2話 ヴェルザ 王都 帰りたくない
午前の警邏を終えて戻ってきたヴェルザが派出所の入り口を潜ると、本日の相棒である小隊長のセルスホフジ少尉が声をかけてきた。
「ステルキ、臭うぞ、臭い」
ロスガルジは畜産業で成り立っている町なので、様々な動物や、排泄物の匂いがどうしてもそこら中に漂っている。それに慣れているセルスホフジの鼻が異臭と訴えるほどの臭いが、ヴェルザから発せられているのだ。
「すみません、小隊長。警邏の途中で牛の出産に立ち会いまして……一頭が出産したら、他の牛も産気づいてしまって、牧場の方々が大変そうだったので微力ながらお手伝いを。その御礼にと美味しそうなチーズを沢山頂いたのですが、宜しければ少尉も如何ですか?」
ヴェルザが両腕に抱えているのは、ロスガルジで人気の”ラッギさん家のチーズ”。ちょっとお値段が高いそれを彼女は幾つか掴んで、セルスホフジに差し出した。美味しいチーズに異臭が移ってしまっていないといいけれど、と思いつつ、セルスホフジは有難くそれを受け取る。
「家族の多い我が家じゃなかなか手が出せないやつだ、これ。うん、妻が喜ぶよ、有難う。それにしてもステルキ准尉。あんた、長いこと王都にいたにしては田舎に順応するのが早くないか?」
「そうですか?お褒めに預かり光栄です」
「……褒めたか、俺?」
半年前に部下になったヴェルザは真面目に仕事をしてくれる人材だ。故に、セルスホフジは彼女を評価し、気に入っている。然し、贔屓はしない。そんなことをすれば他の隊員が彼女に嫉妬して、彼女の足を引っ張ることしかしなくなる恐れがあるのを知っているのだ。中間管理職は辛い。セルスホフジはすっかり薄くなった頭頂部をぽりぽりと掻いて、溜息を吐く。
「先程、南方司令部から連絡があったんだが、ステルキに辞令が出たそうだ。どうやら王都に戻れるらしいぞ。詳しいことは明日、司令部のあるヴァトナボルグに行って憲兵師団長から伺うことになったから……」
左遷から解放されるのだから喜ぶに違いないと、セルスホフジがヴェルザに目を向けると――彼女は憂鬱な表情をして虚空を見つめていた。
「まさかと思うんだが、嬉しくないのか、ステルキ?」
「小隊長は……私がロスガルジに左遷された理由を御存知ですよね?町の人はぼんやりとしか知らないようですが、司令部では噂が飛び交っているようでしたし」
「まあ、師団長から掻い摘んで聞かされた程度だけどな。あれはとばっちりというか何というか……悲惨だったな。俺だったら心が挫けて軍を辞めて酒浸りの生活をして家庭を崩壊させるだろうよ」
「奇想天外な王族を警護する近衛師団に所属するより、田舎町の派出所で仕事をしていたいのです。辞令を無視しても良いですか?」
「駄目に決まっているだろう。文句はちゃんと中央の人事部に言うんだな。こっちの意見に耳を貸してくれるかどうかは賄賂にかかっていると思うが」
あんな万魔殿に戻りたくないと頭を抱えているヴェルザを見て、地方の中間管理職のセルスホフジは贅沢な悩みだなあという感想しか抱かない。
「兎に角、司令部に行くだけ行ってみろ。それで王都に戻るだけ戻って、また面倒に巻き込まれたら、こっちに戻って来い。その時も未だ俺が此処の小隊で小隊長をしていたら、ステルキを小隊に入れてやってくださいって司令部と掛け合ってやるよ。そしたら今度こそ、小隊の副長にしてやるからな」
「待遇は平隊員のままでお願いしたい所存です。私には濃ゆい顔触れの小隊の皆さんをまとめる小隊長のような度量はないので」
「精鋭揃いの近衛師団で中隊長をしてた准佐だった人間が言う台詞じゃないな」
セルスホフジよりも遥かに上の階級だった人間がとんでもなく降格されて、中央から左遷されてくると師団長から聞かされた時、彼はこう思った――また上の連中がプライドばかり高いお荷物を送りこんでくるのか。俺の小隊はゴミ捨て場じゃない。嘗ての肩書は立派だった人間が増えて、ロスガルジ小隊の雰囲気がより一層ギスギスしていってしまうのかと悲観した。犯罪発生率が低い田舎町でも、警邏をしているのと、していないのとでは、数字がそれなりに変わってくる。だからこそ、何も起こらなくても警邏をするのが重要だとセルスホフジは考えるのだが、左遷されてきた連中は自分を憐れむことに必死で「こんな仕事は俺の仕事じゃない、誰でも出来るのだから町の人間がやれば良い」と主張して、仕事をしてくれない。ヴェルザもまたその一人なのだろうと、彼は警戒していたのだ。
然し、それは良い方向に裏切られた。ヴェルザは警邏が重要であることを理解してくれ、町の住人たちと関わろうとしてくれた。やさぐれた左遷組の連中に嫌味を言われても、ケロッとした顔で言い返し、しっかりと仕事してくれるヴェルザ。長年ロスガルジ小隊に所属しているセルスホフジは、そんな人間に出会ったのは初めてで、ヴェルザを気に入った。
「……小隊長、贔屓は駄目ですよ。私はただでさえ小隊長と数人の隊員以外のウケが悪いんですから」
「ステルキを贔屓してるなら、左遷組筆頭のやさぐれブルタズ軍曹とかと組ませたりしないだろう。中間管理職が長いからな、その辺の匙加減はぼちぼち出来るんだ。多分な」
「確かに隊員の中で比較的私と仲の良いハニ曹長やゲダ伍長とはあまり組になりませんね」
「……だが、俺はただの人間でな。うっかり部下を贔屓することもある」
何だそれ、と言いたげな表情をするヴェルザに見下ろされ、セルスホフジは態とらしく咳払いをして、羞恥心を誤魔化す。その様子を見て、ヴェルザはふっと表情を和らげた。
「……選択肢が一つでも増えると、安堵するものですね。了解致しました、明日、司令部に向かいます」
「是非ともそうしてくれ。辞令を拒否なんてされたら、俺の首が危うい」
一番上の子供が漸く成人したが、まだまだ育ち盛りの子供が数人いる。無職になるわけにはいかないとぼやくセルスホフジに申し訳なさを感じたヴェルザが牧場で貰ってきたチーズを全て彼に差し出すと、彼は「有難う」と言って、がっしりとチーズを抱きしめた。
翌日は、ヴェルザの心情とは裏腹に快晴。
大小様々な湖に囲まれた地方都市ヴァトナボルグにやって来た彼女は、警邏隊本部がある南方司令部を旅の相棒の黒馬と目指す。整備された石畳は、荷馬車道士が擦れ違っても冷や冷やすることがないほど広い。隙間無く立ち並んでいる石壁の住居の群れ、盛況している市場、噴水のある公園。何処に目を向けても、沢山の人間の姿が視界に映りこんでくる。
(う~ん、都会だなぁ……)
風が吹けば家畜の匂いが鼻腔を擽るロスガルジとの違いを実感するヴェルザだが、王都に比べるとやはり規模が違うとも実感する。王都は人間と建物のみっちり具合が全然違うのだ。日常生活の閉塞感から解放された今、彼女は何につけても密度が高い王都での生活に再び順応できるのだろうかと不安になる。密度は低すぎても高すぎてもいけない、ほどほどが良い。なんてことを考えているうちに、司令部の建物の前に辿り着いた。
門番をしている兵士に馬を預け、建物内に入ったヴェルザは受付にいる若い女性に用件を告げる。受付の前に設置されている待機場所で待っていると、警邏隊総隊長の秘書だという若い男性が現れ、執務室まで案内してもらう。
「ロスガルジ小隊所属のステルキ准尉をお連れしました」
「……ど、どうぞ、お入りください」
警邏隊総隊長とは何度か面識があるが、こんなに弱々しい話し方をするような人だっただろうか?もっとこう、格下の人間には強気に出て、格上の人間には胡麻を擂るという印象の人物で、近衛師団から左遷されたヴェルザには非常に高圧的な態度で接してきていたはすだ。頭の上にはてなを浮かべつつ、ヴェルザは執務室に足を踏み入れる。
「失礼致します、スヴェルズレイズ・ステルキ准尉です。辞令の件について、ビトラ師団長にお話を伺いに参りました……」
――そして、師団長の横に見知った人物の姿を見つけてしまい、真冬の雪山で冬眠に失敗した熊に出会ってしまった兎の気持ちを理解したような気になった。
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