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ジムには月水金で行くことにした。筋肉痛のままトレーニングをしても効果が得られないらしく、負荷をかけた筋肉は十分に休息を与える必要があるらしい。仕事はよっぽどの事がない限り残業にはならないので、退勤後体を動かして大きなお風呂に入り家に帰るという私のゴールデン新習慣が始まった。
入会から1週間が経ったが心なしか体つきが変わってきたように感じる。こういう前向きな思い込みが筋トレには良いらしい。何よりモチベーションが上がる。
今日は脚トレの日だ。腿の前側や裏側など種目を変えながら部分的にトレーニングを行うので、普段使っていない筋肉が悲鳴をあげる。黙々と取り組んでいるように見えて内心、ひえぇとかうひょおおとか言葉にならない叫びを上げている。体を鍛えている人達が声を漏らしながら行う理由がわかった気がする。重い物を持ち上げる時や引きつける時に自然と声が漏れるのだ。瞬発的にしっかりと息を吐き出すことで自分で思っている以上の力が出ているような気がする。
トレーニングが終わった後には必ず柔軟を取り入れるようにした。これをするかしないかで翌日会社の階段の昇り降りが楽になるかどうかが決まる。足を前後に開き前足に重心をかけながらアキレス腱、ふくらはぎ腿と順番に伸ばしていく。学生の頃は柔軟などしなくても寝れば朝には治ったし筋肉痛もその日に来たのだが…歳を感じる…。
このストレッチコーナーはダンススタジオに面している。ダンススタジオはガラス張りなので中の様子がよく見えた。どんな活動をしているか外に見えるようにすることで、新しい客が入りやすいようにしている理由もあるとは思うのだが、私はこの中でダンスをするのは絶対に嫌だ。醜態を不特定多数に晒すなど拷問に近い。
それにしても活動の内容は相当ハードだ。ステップを踏みながら両腕を上げ下げしたり、跳ねたり腿を引き上げたりとそもそも私がついていける内容では無さそうだ。
参加者は2.30人位でほとんどが女性だが、ちらほらと中年の男性の姿も見られた。
エアロビクスダンスを見学しながら足回りを重点的に伸ばしていると、トイレでかちあった金髪女を見つけた。ショートカットで小柄だ。小柄というかだいぶ背が低そうだ。150cmもないかもしれない。どうりで私の胸にしか目がいかない訳だ。あの時は距離も近かったし。私と並んだら20cm以上の身長差になるかもしれない。講師の動きに必死についていこうとするその後ろ姿はTシャツが踊っているように見えた。蛍光で水色のTシャツと目立つ色だからよりそう見える。パンツは7分丈の黒いサルエルのものを履いている。顔はよく見なかったからはっきりとした歳は分からないが私よりは上であろう。人間観察を兼ねてぼんやり眺めていると女が突然こちらに振り返った。慌てて目を逸らす。どうやら終わりの時間がきたらしい。中から漏れていたアップテンポの昭和歌謡も止まっている。恐る恐る視線を上げると、タオルや水筒を置く棚がこちら側にあるようで、頬を赤くした女がこちらに近づいてくるのが見えた。見ていたのがバレたのだろうか。それともたまたま私がいる近くの棚に荷物があるのだろうか。どちらにせよ気まずいので更衣室に逃げ込む。
更衣室内は人がおらず静まり返っていた。この時間は今トレーニングに行った人と女が参加するエアロビに行っている人で丁度更衣室内に人が少ない時間であるらしい。ほっと胸を撫で下ろす。いやいや、撫で下ろしている場合では無いのだけど。あの女もここを使うのだろうし。今日はお風呂どうしようか。今すぐにお風呂場に行けば遭遇しないで済むだろうか。しかしもし入浴までがコースだとしたら…裸のお付き合いをするのはそれこそごめんだ。いやいやそもそもこんなに否定的な気持ちを抱くことこそおかしいか。ろくに関わりもない女のことで頭を悩ませる必要はない。私は私のゴールデン新習慣を貫くのみだ。ふと顔を上げた時だった。
「あ!王子ちゃん!やっと会えたね!」
突然視界が黄色になる。驚いて後ろに下がると目の前にはあの金髪女がいた。
「ねえ!いつ会えるかずっと探してたんだよ!」
「え…?」
「この間トイレで会ったでしょ!あの時びっくりして変なこと言っちゃったから謝りたかったの!」
「あ…はぁ…」
驚いて呆気にとられる私をよそに女はどんどん喋り進める。
「はぁー!やっと会えたあ!最近ジム始めたの??そうだよね!こんなにカッコイイ人今まで見た事なかったもん!時間はいつもこのくらい?何曜日とか決まってる?」
「あ、えっと…」
何から答えたら良いのか分からず口ごもると女はくりくりの目をさらに丸くさせた。
「ごめんなさい!会えたのが嬉しくて!つい!本当にあの日からずっと探してたの!…」
「そう…ですか…」
「ねぇ!名前聞いていい??あ!LINE交換しよ!」
「えっ…」
一体全体何だというのだこの女。人のペースを乱す天才か。会話はキャッチボールというが今のところほぼドッヂボールなのを何とかしてほしい。
「お願い…!」
女が勢いよく体を曲げてお願いをしてくる。展開が早くてついていけない。困って周りを見渡すとエアロビが終わったからか更衣室の利用者がどっと増えていた。今の私たちは周りの目にどう映るのだろう。大きい私が小さい人を虐めているように見えるのではないだろうか。今後も穏やかにジムライフを続けていきたいので変に目立つのは大変困る。
「ちょっと待ってください…」
「交換してくれるの!?」
さっきまでのすがるような表情から一転して一気に顔が明るくなる。今にも花でも咲きそうな雰囲気だ。私は小さくため息を吐いてロッカーを開けた。黒のリュックサックからスマホを取り出す。女が私の一挙手一投足を固唾を飲んで見守っているのが伝わってくる。LINEを起動させ私のアカウントのQRコードを表示させた。
「ええ!ほんとに!夢みたい!ありがとう!!」
待ち構えていた女がすぐさま私のQRコードを読み取る。女のスマホの方に私のアカウントが表示されるはずだ。
「きたきた!このTっていうのがおうじちゃん?」
「へ?…え、あ、はい…あの、王子っていうのは…」
「アイドルの應治
「そ、そうですか…」
家にテレビは無いので誰のことなのか全く分からない。應治を王子と勘違いしていたのも物凄く恥ずかしいし、ロッカーでもいいので今すぐ潜り込みたい。即刻そのよく分からないあだ名をやめて頂かなければならない。
「あの…ちょっとその呼び方」
異議申し立てをしようとした時、ライムグリーンのウェアを着た女性が左足を引き摺るようにしながらこちらに近づいてきた。
「
「あ!
「うん。軽い捻挫だって。え?應治ちゃんと仲良くなったの?」
「うん!今さっき!」
「ええー!なんか邪魔しちゃったね!」
私の姿は彼女たちに見えているのだろうか。私はもしかしたら居心地の悪さに昇天してしまったのかもしれない。完全に蚊帳の外だ。
「そんなことないよー!あ!一緒にジムに来てる理恵だよ!レッスン中にちょっと足捻ったみたいでアイシングもらってたの。」
突然の紹介に条件反射で背筋が伸びる。紹介をされたからにはこちらも頭を下げないわけにはいかない。
「あっ、えっと、
「やぁん!名前までかっこいい!ほんとイケメン!背高いし!何cm!?」
「陽もう時間やばくない?」
「え?あ、ほんとだ!やばい!旦那に怒られる!今日はほんとにありがと!またLINEするね!じゃあね!應治ちゃん!じゃなかった!一輝ちゃん!」
深々と下げた頭を上げた時に見えたのは2人の女性の後ろ姿だった。
「まじか…」
キャッチボールどころか嵐のような一連の出来事に思わずため息が漏れる。結局金髪女は金髪女ということしか分からず、代わりに隣にいたポニーテールの女性は理恵さんということが分かった。あとは王子は應治だったこと。無知は罪である。なぜなら赤恥によって絶命の危機に瀕するからだ。
やっとの思いで自宅にたどり着いた。あれから入浴などを済ませて今に至る訳だが、出来事を反芻することで脳ミソを使い果たし何にも身が入らなかった。体を洗った記憶が無い。リュックから黒い革製のキーケースを取り出し鍵を開ける。玄関から廊下が続き右手にトイレと風呂場があり、左手は小さな台所になってる。廊下の突き当たりの扉を隔てた向こう側が10畳の居間になっている。正面奥がベランダになっており、ベランダ向きに合皮のソファが置いてある。荷物を下ろしてソファに腰かけた。スマホを取り出してメッセージを確認する。通知はどれもお店の宣伝やクーポン発行などだった。あの女も家に着いているとは思うがメッセージはきていないようだった。まぁ、女なんてそんなもんだ。囃し立てるだけ囃し立てて飽きたら次の対象を探しに行く。一時の話題があれば何だっていいのだ。興味本位で近づいてきた女と付き合うこともしてきたが、最後は決まって空中分解。いつからか恋愛というもの自体がよく分からなくなってしまっていた。
ガラステーブルの上に設置してあるベタの水槽に視線を移す。巨大な牛乳瓶の様な形をした水槽で中には白いオスのベタが一匹いる。今は部屋が暗かったので水槽内に設置した人口水草の下で休んでいたようだ。起こさないように部屋着に着替え左手にあるベットに移動し私も眠りについた。
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