めしつかい
舞沢栄
プロローグ+第1話
めしつかい プロローグ
「ふ、ふっふっふっふっふ……ぐふふふふ……ふはははは、あーっはっはっは! わーっはっはっはっはっは! ぎゃーははははがふがふがふがふっ! げふんげふんげふん、ごふう、げばあっ、ごふっごふっごふっ、……げふん!」
ぜいぜいぜいぜいぜい。
…………。
し、死ぬかと思った。
慣れない高笑いなぞ、やるモンじゃないな。
「まったく、なにを朝っぱらから悪党の親玉みたいに大笑いしては死にそうなほどに咳き込んでるのよ?」
焼けそうになった胸を押さえ、ヒリヒリする喉に顔をゆがめ、俺は声のした方に目を向けた。
開け放たれた窓からは、初夏の緑のにおいが流れ込んできている。その微風に長い黒髪を揺らめかせ、女生徒が一人、あきれた顔で立っていた。
控えめに見ても、可愛い方だろう。ちょっと太めの眉は最近の流行にはそぐわないが、ほっそりとした顔立ちで、猫のような目をくりくりと興味深そうに向けている。他の生徒のようにジャージを着たりせず、学校指定の夏服をきちんと着ているあたり、まじめな性格が伺える。
この子は
一言返そうとしたが先ほどの喘息のせいで、口からはひゅーひゅー音がするだけだった。葉月はそんな俺を見て、軽く肩をすくめた。
「まあ、あんなことがあれば大笑いしたくなるのもわかるけどね。さっきのは尋常じゃなかったよ? またなんかやらかしたの?」
「人聞きの悪いことを言うな。まもなく我が野望が成就されるのだ」
ようやく声が戻ってきた。まだかなりしわがれた声なので、なんとか元の声に戻そうと、俺は小刻みに咳払いを続ける。
葉月は半眼で詰め寄ってきた。
「やっぱりなんか企んでるのね? 今度はなにをする気なのか、正直に言いなさい!」
これではなんだか俺が悪人みたいではないか。まあ自分が品行方正だとは思っちゃいないが、この前二村家の畑(葉月の家はかなり大きな農家なのだ)にミステリーサークルを作ったこと、まだ根に持ってるのか?
まあ葉月のにらみなど、可愛いモンだ。俺はまるで動ぜず、
「俺の野望がなんたるかは、今朝の新聞を見ればわかることだ」
葉月は貧血でも起こしたかのようにふらつき、一歩後ずさった。
「あ、あんた、悪いこと言わないから早く自首しなさい。警察まで付き添ってあげるからさ」
「ちゃうわい! なにを勘違いしておる! 俺が言っているのは、今朝の新聞に載せた求人広告だ」
「求人広告? そんなとこまで目を通さないって。ってゆうか、
「そうか。それでは読んでないのも仕方ないか。ならば親父が便所で踏ん張りながら読んでいるところをひったくってきたこいつを特別に読ませてやろう」
「うわー、なんかすごく読みたくない新聞だね」
机に引っかけたカバンから新聞を取り出そうと思ったが、その前に俺はもう一度咳払い。どうも俺はタンがひっかかりやすいのか、あまりの咳払いに、
と、またタンがからんできた。
「かぁーーっ、ごっくん」
「あーもう汚いなあ!」
あからさまに嫌な顔をして、葉月は自分の席のカバンから小瓶をひとつ取り出した。
「ほら、これでウガイしてきなよ。喉を痛めちゃ良くないよ?」
こいつは今日もお節介だ。
「ぐわらぐわらぐわら、ごっくん」
いけね。うがい薬まで飲んじまった。
次の授業まで、まだ数分ある。渡り廊下にある水道場で、俺は軽く口をゆすいだ。今度は飲み込まないように、きっちりと吐き出そう。
「よおっ」
ばんっ。
ごっくん。
…………。
くわぁーーっ! また飲んじまったじゃねえか!
ウガイ中に人の背中をはたくスットコドッコイはどこのどいつだ!
「お前がウガイとは、今日は槍でも降るか? まあ飲んじまったら意味無いけどな」
いきり立って振り返った俺にかかる声。そこには長身の男がいた。俺の身長はまあ平均的なところだが、こいつと目線を合わせるには上目遣いになってしまう。
夏服の白い半袖シャツなので、こいつの立派な体格が一目でわかる。
顔も体格に負けず、なかなか迫力のあるヤツだ。
こいつは
「よお、雅史。今日もゴツイな」
「お前も相変わらず変人そうでなによりだ」
「なにい!? いったい俺様のどこが変人なのか、八〇字以内で説明してみろ!」
「まずは無類の大食らい。シモネタとダジャレが大好きっつうオヤジくささ。元々右利きなのに無意味に左利きに矯正したりとか共産党支持者のくせに天皇家のファンなところとか」
ぬうう、見事に八〇字にまとめおった。我が悪友ながら律儀なヤツだ。
「しかし、俺は常々貴様に気にくわんところがあるのだが……」
不意に雅史はゴツイ顔をさらにゆがめ、俺をにらみつけてきた。
「なぜに変人のお前にあんな可愛い彼女がいる!?」
ビッグなお世話だコノヤロウ。
雅史がビシイッと指さしたその先から、葉月がこちらへ小走りに近づいてきていた。
「なんの話?」
「おう。雅史がお前さんの弁当を食いたいそうだ」
「うん、いいよ。少し多めに作ってきたし」
「うむ。そそくさと遠慮しておこう。龍利よ、彼女の手作り弁当を粗末にしてはいかんぞ」
ちっ、逃げられたか。
セリフ通りにそそくさと自分の教室へ帰っていく雅史を尻目に、葉月が言った。
「ウガイが終わったんなら、早くその新聞を見せてよ。求人広告って、誰か雇うつもりなの?」
「
葉月のセリフに敏感に反応し、さながらビデオの巻き戻しのように、雅史が後ろ向きで走ってきた。器用なヤツ。
「貴様、うっかり宝くじなんぞ当てやがって! 人なんぞ雇う余裕があったら、親友たる俺に六四ビットCPUの最新機種を買い与えてみろ!」
「お前ごときを親友にした覚えはねえっつーの」
こいつの言うとおり、先日俺はドリームジャンボを見事命中させた。そのせいで周囲からは羨望と嫉妬の視線とささやき声を頻繁に感じるようになったが、あまり気にしても仕方がない。
むしろ、この雅史のようにストレートに絡んでくるヤツの方が、俺としても扱いやすいし嫌いじゃない。
「それにしても、すごい強運だよねー」
ため息混じりに、葉月が言った。こいつも、俺が金持ちになったからといって変に態度を変えたりしない、デキた女だ。
「くそー、こーなったらお前のマンションで宴会を開くぞ!」
「別に構わんが、食い物は持参しろよ?」
俺は当選した金で早速、マンションを買った。しかしもちろん今は学生の身。親元で暮らしているので、別荘のような物だが。
なぜ買ったのか? 決まってるじゃないか。
これこそが男の野望その一。『自分の城を持つ』だ!
その一があるからにはその二があるわけだが……、
「その二が実現すれば、お前にもう少し楽をさせてやれるからな」
「だ、だからいったいなにを企んでるのよ!?」
ぽんと肩をたたく俺に、葉月が赤面して叫んだ。
「俺も気になるぞ。今度はどんな悪さをする気だ?」
雅史よ、ミステリーサークルの件は、お前も一枚絡んでるだろうが。俺一人を悪者にする気か?
まあそれはともかく、興味津々の雅史に、俺はにやりとした笑みを返して見せた。
「ふっ、ならば見せてやろう。我が次なる野望を!」
颯爽と背を向け、俺は教室に戻った。
カバンから新聞を取り出し、机に広げる。広告特集のページだ。
男の野望その二。『召使いを雇う』だ!
召使い。お手伝いさん。家政婦。メイド!
くぅぅぅ、これこそ男の究極の夢ではないか!
そこ! オヤジクサーとか言わないように! 男なら誰もが恋いこがれるものなのであるぞ。
そういうわけで、俺たち三人の視線は、ひとつの広告に注がれた。そこにはこう書かれていた。
『求む!飯使い 二五歳以下のやる気のある女性 委細面談』
このステキな誤字に、俺がクラス中の笑いものにされたことは言うまでもない。
だが俺はこのとき、気づいていなかった。この些細な誤字が、俺の人生を激しくゆがめてしまうことに。
めしつかい 第一話
ウララララー! タコトッタドー!
ウララララー! タコトッタドー!
ウララララー! タコトッタドー!
朝の自主トレを終え、マンションに戻ってくると、ケータイの着ボイスが鳴っていた。
「よおご主人様、おはよう。メシ使いとやらは見つかったかね? 俺はこれから朝練なのだが、終わり次第君の家にお邪魔させてもらおうと思っているんだ。そのときにステキなメイドさんをご紹介していただけると期待しているよ。まあアリエネーけどなー。わはははは……」
ぷつっ。
俺はケータイを切った。
まったく、雅史のドアホウは朝っぱらからつまらんモーニングコールを入れてくれる。朝じゃなかったらモーニングコールとは言わんが。
まあいい。雅史の減らず口は、まもなく開いたままふさがらなくなる予定だ。
本日土曜日午前一〇時より、初の面接試験が行われるのだ。
むろん、召使い希望者の、だ。
実際のところ、どの程度の反応があるのか不安だったのだが、とりあえず一件だけでも希望があったのは幸いだ。
事前の電話連絡で、若い女性だということもわかっている。この時点で内々定確定だ。
さて、時間までまだ結構あるな。
シャワーでも浴びてもう一眠りしよう。
朝寝、二度寝、惰眠こそ男のロマンでわないか。
*
広い広いお座敷で、宴会が開かれている。
たくさんの生姜焼き定食が並べられ、肉もご飯もまぜこぜにして、みんな自分の皿に分けている。
雅史はテーブルの上にかかとで立ち、浴衣を半脱ぎにしてヘソ踊りをしている。みんなすっかりデキあがっているようだ。
俺に、マイクが回ってきた。後ろで音楽がかかっているが、構わずに一言。
「サザエでございまぁす!」
うわああぁぁ!
おお、ウケた。
オープニングのあのセリフを、俺は完璧に真似できるのだ。
ぴんぽーん ぴんぽーん
よし、ならば次の芸だ。
「みなさぁんこぉんにちわ。ぼぉくドラ……」
ぴんぽーん ぴんぽーん ぴんぽーん
…………。
夢か。
我ながらわけのわからん夢だったな。
ぴんぽーん ぴんぽーん ぴんぽーん ぴんぽーん
だいたいなぜ、宴会で生姜焼き定食なのだ? それをまぜこぜにする意味は? テーブルの上に立つのはいいとして、なぜにかかと立ち?
そして俺は断言しよう。あの芸は絶対にシラケる!
ぴぽぴぽぴぽぴぽぴぽぴぽぴんぽーん
「だあぁ! やかましい!」
たまらず、俺はベッドから降りた。頭に来たので相手が諦めるまで居留守を決め込みたかったが、呼び鈴を壊されたらかなわん。
って、そうだ。そろそろ面接の時間じゃないか。寝ぼけてすっかり忘れてた。
出る前に洗面所へ行き、クイック洗顔。髪型を整え、鏡に向かって営業スマイル。
よし。
俺は玄関のドアを開けた。
「弥勒龍利殿のお宅はこちらであるか?」
「違います」
ばたん。
俺は玄関のドアを閉めた。
…………。
落ち着け俺。落ち着いて考えてみよう。
なんだったんだ今のバケモノは?
二メートル近い巨体だったな。顔は雅史をもしのぐコワモテ系。特にモミアゲとアゴヒゲが繋がっているのは圧巻だった。
背にはこれまた巨大なリュックを背負い、アルプスからようやく生還してきた遭難者のようでもあった。
あんな知り合いは俺にはいないし、なにかの間違いだろう。うん。
ぴぽぴぽぴぽぴぽぴぽぴぽぴんぽーん
「だああ! しつこい!」
相手がコワモテだからって、ひるむような俺様ではない。ドアを開け直し、叫んだ。
「表札には弥勒龍利と書いてあるが?」
「確かに俺は弥勒龍利だけど。なんの用ッスか?」
「
「ああ、その人ならもう帰られましたよ、向こうの方へ。なんか急いでるみたいだったんで、そろそろ北海道に着くんじゃないスかね」
「そうか。邪魔した」
俺からの嘘八百の情報に、巨漢はどすどす地響きを立てて北へ向かっていった。
さようなら、むさ苦しい人。北の大地へ行ってらっしゃい。
ああいう地球温暖化を加速しそうなムサイ面構えのヤツは、永久凍土に封印したいモノですな。
腕時計を見る。なんだ、まだ三〇分ほどあったか。仕方ない、ゲームでもやってるか。
ぴんぽーん
「今度は誰だ!?」
「きゃあっ!?」
っと、勢いよく開け放たれたドアの先にいたのは葉月だった。私服で、手にはスーパーの買い物袋をぶら下げている。
「なんだ、葉月か」
「なんだはないでしょう。せっかくご飯を作りに来てあげたのに」
俺んちは父子家庭で、親父もここ数年、頻繁に長期出張に出ている。それでお節介な幼なじみのこいつがよく俺の飯を作りに来てくれるのだ。
しかし葉月よ。いつかお前にきっちりと言い渡さねばなるまい。お前の作る飯はマズイと。
腹を空かせば食えないこともないので、おかげで俺は朝晩の自主トレが日課になってしまった。
「龍利は食いっぷりがいいから作りがいがあるんだよねー」
お邪魔しますも言わずに、葉月はうちの中へ上がり込んだ。
「それにしても、もともと一人暮らしも同然なのに、なんでマンションなんか買ってるんだか」
「君には男ゴコロというモノがわからないのかね?」
「わからないわからない。そもそもボク、女だし」
3LDKの、結構高級な部類に入るマンションだ。厨房部とテーブルが、カウンター越しに繋がったようなレイアウトになっている。
そのテーブルにビニール袋を置き、中身を広げる。
「いかんぞ、葉月。人工甘味料とか化学調味料は。もっと自然志向でないと」
「よく言うよ。人一倍ジャンクフードが好きなくせに」
面白くなさそうに葉月は腰に手を当て、太めの眉をひそめた。
「まあいいや。これからお昼の準備をするけど、何かリクエストある?」
「ふっ。それには及ばな……」
ぴんぽーん
よっしゃ今度こそキター!
「はやっ!?」
葉月の目には、俺の残像が見えたのかもしれない。彼女が次のモーションに入るときには、俺はすでに玄関にいた。
「飯使いの面談ということでお伺いしました。明保野ほのかです」
インターホン越しに響く落ち着いた感じの女性の声。
「はいどうも。俺が広告主の弥勒龍利です」
扉を開けて、その先に静かにたたずむは一人の女性。
ビンゴ!
十分美人の部類に入る。おかっぱ頭に切れ長な瞳と、理知的な美女。
しかも着ているのは裾の広い紺のスカートと長袖の上着。白いエプロンをつければ、そのまんまメイドさんになりそうなデザインの服だ。
初っぱなっから気合いが入っているではないか!
俺はもう、内心小躍りしていた。
「何を小躍りしているんですか?」
しまった本当に小躍りしていたか。
「誰、知り合い?」
葉月が物陰から顔だけ出して、俺にささやいた。
「言わなかったか? 今日は召使いの面接なのだ。そういうわけでお前さんは早く実家に帰るがいい」
はっきりと、葉月のトーンが低くなった。
「隣の部屋に行ってる。二人きりにさせたら、なにをするかわからないから」
いったい俺が彼女にナニをすると? そりゃまあメイドとして雇ったあかつきには、お風呂で背中を流してもらったり、添い寝してもらったりするつもりではありますが。
まあいい。葉月は適当にあしらおう。
俺はメイドさんもといほのかさんに営業スマイルを向け、
「それではこちらへどうぞ。履歴書預かります」
「んじゃあ早速ですが、あなたの召使いとしての腕前を見せてもらいます」
「はい」
掃除や洗濯でもいいが、俺は朝から何も食ってない。やはりここはご飯を作ってもらうべきだろう。
俺は彼女を台所へ案内した。材料はさっき葉月が買ってきた物もあるし、十分だろう。
ほのかさんは台所を一通り見渡して、一言。
「良い厨房ですね。これなら良いメシが作れます」
んまあ、女の子がメシなんて言葉を使っちゃいけませんよ! とか言おうかと思ったがやめた。
なんかこの人無口だし、美人だけどなんとなく近寄りがたいオーラを持っているというか。
「俺はこっちで履歴書に目を通してますんで」
言って俺はリビングの隅へ下がった。
ソファーに腰掛け、履歴書に視線を移そうとしたらなぜか天井が見えた。
「ちょっと。本当に召使いなんて雇うつもりなの?」
葉月が俺の襟首を引っ張ったのだ。
「俺が冗談を言うようなヤツだと思っているのか?」
「うん」
身も蓋もない。
「普段からしゃれと冗談で過ごしてるようなヤツじゃん。けどこれはしゃれになんないって。いくらお金があるからって、今時召使いを雇うなんて」
「なんだ。嫉妬か?」
「ち、違う!」
じゅわあっ!
葉月の大声をかき消すかのように、キッチンから炒め物の大きな音が響いた。
そして漂ってくる香ばしい香り。
これは、チャーハンか。
「くううぅぅ! 久しぶりにまともな食事ができる!」
「ちょっと! それじゃまるでボクの作るご飯がまともじゃないみたいな……」
「はいはいはいはい。奥方のお小言はあとで聞きますゆえ。今は面接中なのでとりあえずはあちらへ」
「誰が奥方だあっ!?」
ごねる葉月を俺の部屋へ押しやる。
見たところ、ほのかさんの料理はまもなく完成するだろうか。
俺はもう一度ソファーに腰掛け、彼女の後ろ姿を見やる。
うーむ、見事だ。やはり台所に立つ女性というのは絵になる。
よし、そろそろ次のテストをせねば。料理中のアクシデントにどれだけ対応できるかだ。
背後から忍び寄って……カンチョーはちょっとひどすぎるか。
スカートめくりは子供じみている。
よし、ここは背後から忍び寄って××××を×××××だな!
忍び足はお手の物だ。俺は音もなく彼女に近づき……む、何かを口ずさんでいる。
鼻歌とはノッてるな。
「竈の妖精ベスタ、火の精霊イフリート、穀物と農耕の神イナリよ、古より続きし命脈をここに繋ぎ、汝が力を示せ……」
…………。
呪文? いや、鼻歌だよな。鼻歌だと思いたい。鼻歌だといいな。
火が止められ、静まりかえるキッチン。部屋にはチャーハンの香ばしい香りが充満している。
うーん、いい香りだ。ますます腹が減ってきた。
彼女はチャーハンを皿に盛りつけ、テーブルの上へ差し出した。いつ作ったのか、中華スープも添えられている。
「それではどうぞ」
それではいっただっきまーす! 俺は食欲の赴くままに、スプーンをご飯へ差し込み、一気にがっついた。
あなたはアルミ箔を食べたことがあるか?
俺はある。
葉月が「うっかり」ハンバーグに混ぜ込んでしまったときだ。
食感は、まさにそれだ。歯から脳髄へ駆け抜ける、あの強烈な刺激。
そしてこの味。
普通、においである程度の味は予測がつくものである。なぜなら、嗅覚神経は味も感じ取るからだ。
しかしこの味は、においから予想される物を遙かに裏切っていた。詐欺と言ってもいいかもしれない。見た目も香りもすばらしいチャーハンから、なぜに青汁に生魚のすり下ろしを混ぜたようなすさまじい味が口の中いっぱいに広がるのだ?
「龍利!」
がんがん響く頭の片隅で、葉月の声が聞こえた。
俺はリビングを転げ回っていた。ぐるぐる回る視界の真ん中で、心配そうにこちらを見ている。もしかして、肩を揺さぶっているか?
視界の隅には、無表情にたたずむほのかさんがいた。何かを探るような瞳だ。
「ちょっとあなた! 龍利にいったい何を食べさせたの!? 人一倍大食らいで好き嫌い無く何でも食べる龍利がこんなになるなんて!」
葉月がほのかさんにくってかかっている。
すまん葉月。俺が浅はかだった。
お前の飯は最高だ。この人のに比べれば。
「やはり、かなりの臓腑を持っているのね」
少し感覚が戻ってきただろうか。ぼそりとした、彼女のつぶやき声が聞き取れた。
さらに。
どおんっ!
「きゃあっ!?」
マンションを揺るがす爆音が響いた。葉月がたまらずしりもちをつくが、ほのかさんは至って冷静に玄関に目を向ける。
「きたわね」
「明保野ほのかぁぁぁ! やはりここにおったかぁーー!」
くらくらする頭を左右に振り、俺は何とか起きあがった。
まだ口の中が麻痺している。言葉を出すのに一苦労しそうだ。
リビングに突入してきたのは、先ほどの巨漢。広めのこの部屋が狭く見える。
「我が輩こそは
「ここじゃ周りに迷惑がかかるわ。場所を変えるわよ」
「承知!」
なんだか俺をのけ者に、勝手に話が進んでいる。
ほのかさんは、その細腕で俺をバーベルのように頭上高く持ち上げた。
って、ちょっと待て!
「せいっ」
のひょおおぉぉ!?
リビングからベランダ、その外へ、俺は放り投げられた。
視界に映るは、青空。身体に感じるは、風と落下感。そしてここは三階!
さようならみなさん、いきなりですがさようなら!
「え?」
妙な感覚だった。身体が勝手にバランスを取るような感じ。空中で視界がぐるぐる回っているのに、周囲の状況がハッキリと把握できる。
俺は、マンション前の芝生の上へ四つんばいで着地していた。
はっ! まさか!?
野生の直感が首筋を駆け抜け、俺は反射的に上を見た。
ほのかさんが続いて飛び降りてきたのだ。
はためくスカート、細くしなやかな脚、そして白いパンツ!
どがめりぃ! 暗転する視界と顔面に響く衝撃。彼女に顔面を踏みつけられたのだ。
「余裕が出てきたわね。それじゃ、行くわよ」
彼女は素早く駐輪場へ向かい、スクーターに乗って戻ってきた。
「行くってどこへ? あんたらいったい何者なんだ!?」
三階の俺の部屋から、コワモテ男がこちらを見下ろしている。部屋の奥にいるであろう葉月も気になる。
だがそれ以上に、彼女のこのわけのわからない行動が気になった。
「履歴書に書いたでしょう? 私は明保野ほのか。飯使い明保野流師範代よ」
こーなったらもー、声を大にして叫ぶしかあるまい。
「なんですかそれわ!?」
*
ごうごうという風の音が、俺の耳を駆け抜けていく。
片側一車線の県道。
ほのかさんは、今時珍しい一八〇㏄のスクーターで走っている。メーターを見ると、七〇キロほど出ているようだ。
ガードレールを挟んで、歩道を歩いている人たちは、抜き去るたびにぎょっとしてこちらへ振り返る。
ほのかさんに、ではない。俺に向けての視線だ。
俺は、ほのかさんのスクーターにぴったりくっついて走っている。
自分の脚でだ。
自分で言うのもなんだが、俺はスポーツはかなり得意だ。一〇〇メートル走なら一二秒を切る。
だが、世界屈指のスプリンターでも、そのトップスピードは時速四〇キロ程度だ。七〇キロなんてスピード、人間に出せるものではない。
かき分けた風の一粒一粒を感じ取れるほどに鋭敏になった皮膚感覚。遙か遠くで渡ヶ瀬というコワモテ男が疾走している音も聞き取れる。五感が異様に高まっているとしか考えられない。
「なんなんだこの力は!? なんで俺はこんなに速く走れるんだ!?」
「飯使いのメシを食べたんだから、このくらい当然よ」
「だから飯使いってのはいったいなんなんだ!?」
視線を前に向けたまま(運転手の鑑である。ノーヘルだが)、彼女はあきれたように言った。
「あなた、そんなことも知らずに私を雇うつもりだったの?」
「俺が雇いたかったのは召使い! 家政婦! メイドさんだ!」
「……なるほど。一般人で飯使いを雇おうなんて珍しいなとは思ったけど、あれは誤字だったのね」
普通気づくでしょうが。
彼女はひとつため息をついた。
日本語に翻訳すると、「しょうがないわね。説明してあげるわ」といったところか。
「
食医? 食事をもって医療とするといった意味だろうか?
「いい線行ってるわね。食医とは、古代中国において、皇帝を不老不死にするために雇われた、専門の医師兼調理師よ」
医食同源という言葉がある。病を治すため、健康を保つためには、医療と食事は同じものだということだ。
彼女は説明を続ける。
食医は、皇帝を不老不死にするために、様々な研究と実践を重ねた。仙術・法術、果ては西洋魔術や錬金術までをも取り入れ、独自の体系を作り上げた。
「それが飯使いの始まりよ。まあ、不老不死の術は結局完成しなかったけど、代わりに
たった一文字の誤字で、とんでもない人が出てきたもんだ。俺はあきれるしかなかった。
「それよりも、いつまでもおいかけっこをしていても仕方がないわ。どこか戦いに向いた広い場所はない?」
「この辺じゃ俺の学校くらいかな」
「じゃあ、その学校まで案内してちょうだい」
彼女はバイクのスピードを上げた
って、あんたが先に行ってどーする!
「これくらいのスピード、ついてこれるでしょ?」
「あんたそれ、スピード違反じゃないのか?」
「大丈夫よ。私、免許持ってないから」
そおゆう問題か!?
彼女は相変わらずの涼しい顔で言った。
「飯使いには、法律は通用しないのよ。今も国家元首や首脳たちにメシの力を与え続けているのだから。例えば昭和天皇はメシの力で五年以上生きながらえたし、小渕元首相も今は山奥でひっそりと暮らしているはずよ」
なんだか長嶋監督を救ったのもメシの力とか言い出しそうな勢いだな。
「だから
よし。飯使いについてはだいたいわかった。
「んじゃあ、あんたがあの大男と戦う理由ってのは?」
彼女は少し考えてから答えた。
「私はフリーの飯使いを宣言したのよ」
「フリー?」
「飯使いは皆、師範の命令の下に動いているのだけど……最近、特に戦後は首脳の延命とかスポーツ選手のドーピングとかそういう仕事がほとんどなのよ。私はもっとみんなの役に立つことに、メシの力を使いたかったのよ」
ふむ。言いたいことはわかるが、あんたのメシを食う時点でみんな不幸なのでは? とか思ったが突っ込むのはやめた。
「それで師範とかなりの口論になってね。私は一方的にフリーを宣言して、里を降りた。けど、師範は私の祖母だし、私の言い分も少しは理解してくれていたみたいね。里を降りてフリーになるために、ひとつの条件を出したのよ」
「それが、あの男と戦って勝つということか」
彼女は黙ってうなずいた。
「なるほどそれでわがんばってくれたまえ」
「ちょ、ちょっと!」
手を振ってスピードを落とすと、ほのかさんは珍しく鉄面皮を焦燥に崩し、俺の速度まで合わせてきた。それでも時速四〇キロほどあるのだが。
「あなたが手伝わないでどうするのよ」
「どうするもこうするも、ここまでの話で俺が巻き込まれる理由は無いじゃないか。あんたが自分でメシを食って戦えばすむ話だろう」
「そうもいかないのよ。ある程度の効力はあるけど、ホルモンバランスの関係で女は男ほどメシの力を引き出せないの。だから、こういう場合は代役として
俺を担ぎ上げて窓の外へぶん投げることはできても、あのバケモノと戦えるだけの力はないということか。しかし俺は食い下がる。
「俺があんたを雇うなら、ギブアンドテイクで戦う理由にもなるだろうけど、残念ながら俺が雇いたかったのは召使いだ。誤情報で来てしまったというのなら違約金を払う。だからこの話はなかったことに……」
「わかったわ」
深いため息をつき、彼女は言った。
「あなたのお望み通り、召使いとしても働くわ。だから私のフリー宣言に、手を貸してちょうだい」
俺は一気にスピードを上げた。学校はもうすぐそこだ。
昨今の凶悪事件の影響を受けてか、校内に人はたくさんいるのだが、正門は閉ざされている。
俺は校門の直前で地面を蹴り、さながらハードルのように飛び越える!
ずざざあぁ! 土煙を上げ、校庭を勢いよく滑る。陸上部だろう、部活中の生徒がぎょっとして足を止めた。
続いて、ほのかさんも校内へやってきた。飛び越える瞬間、校門の鉄格子を横へスライドさせることを俺は忘れていない。
俺はゆっくりと彼女へ振り返る。あまりの気合いに、この顔は劇画調になっていたかもしれない。
「弥勒龍利一六歳。飯使い、明保野ほのかの
*
「なになに? なんかあるの?」
「なんでもこれから、弥勒とあそこの大男がケンカするそうだ」
「えー、そりゃまたなんで?」
「ほら、弥勒君が召使いを雇うって言ってたじゃない? どうもその候補が二人出たらしいのよね」
「けどそれだったら、その二人が戦うんじゃ?」
「いや、もう一人は女の人みたいだから。弥勒としては男の召使いなんてまっぴらだろうから、『雇ってほしければ、まずは俺を倒してからにしろ』とかいう展開だったんじゃねえの?」
「なるほどー。ケンカ好きで女好きな弥勒君なだけに、それはすごくあり得るわねー」
みんな俺をなんだと思ってるんだ。
まあ、完全に間違いとは言い切れないのが少し悲しいが。
しかし、渡ヶ瀬だったか? あいつ、どこをどう走ったらああなるんだ?
ヤツがここへ到着したとき、頭と肩にワカメ・口には鯉をくわえていた。この場にいた全員が硬直しましたよみなさん。
校庭にいた生徒たちは、危ないので下がってもらった。そのために、各人に食券一週間分を約束する羽目になってしまった。
この戦い、負けられない。何が何でもモトを取ってやる! 彼女を雇った暁には、あんなことやこんなことを……。
妄想に耽っていると、いつの間にか渡ヶ瀬もほのかさんも調理の準備を始めていた。
「飯使い同士で戦う場合、女の飯使いは守護士をおくことができる。おぬしの守護士はその少年で相違ないな?」
「ええ」
渡ヶ瀬は背負っていた巨大なリュックから、ほのかさんはスクーターから屋外用調理セットを取り出し、校庭の一角をそれぞれ陣取って調理を始めている。
戦いのルールその一。これは六〇分一本勝負である。この六〇分には、調理時間も含まれる。いかに速く仕上げるかがポイントのひとつだ。
俺はこの間に、柔軟運動をしている。戦いやすいよう、体操着に着替えた。
「龍利!」
と、葉月が学校までやってきた。あれから追いかけてきていたらしい。
「無事だったんだ良かったっていうかそこのあなた勝手に人の家に上がり込んでモノ壊したりして警察呼ぶかんね龍利が無事だったからまだ良いけど大男もメイドさんも普通じゃないしそういやなんでここに二人ともいて校庭で料理なんかしてるのわけがわからないよもう!」
いやもう、こっちの方が訳がわかりませぬが。
葉月があそこまで取り乱すのも珍しいが、まああれが飯使いに対する普通の反応なのだろう。
そういや俺のマンション、多少破壊されたはずだが、ほのかさんの言葉が本当なら、警察に届けるだけ無駄なんだろうな。
「殿、いかがいたしましょう?」
と、気の利く雅史が、きわめて厳かな老中口調で聞いた。扇子を広げるポーズで俺は答える。
「うむ。よきにはからえ」
「御意。ささ、殿の出陣でござる故、奥方様はこちらへ」
「だーかーらーだーれーがーおーくーがーたーだー!」
「悪いなあ、葉月。説明は後ですっから。とりあえずは、あのヒゲダルマをぶちのめしてからでないとなあ!」
「だから何がどうなったらそんな訳のわからない展開に……!」
葉月の声がフェードアウトしていった。雅史に強引に引き下げられたのだろう。野次馬どもも再開を待ってましたとばかりに歓声が大きくなった。
見ると、ほのかさんと渡ヶ瀬の双方とも、かなり調理が進んでいた。
戦いのルールその二。先に調理・食事を済ませた側には先制攻撃権が与えられる。なので、ほのかさんには急いでほしいところだ。
材料の下準備が終わり、鍋に火がかけられた。
どんな材料が使われているかは、ここでは割愛しよう。特にほのかさんの方は、ちと目眩のするモノまであるので。
ほどなく、料理のにおいが漂い始める。
う!? その瞬間、俺は野次馬へ向かって叫んだ。
「お前ら、もっと下がった方が良いぞ!」
しかし遅かった。生徒たちのうちの何人かが、炎天下の朝礼で校長の長話を聞いたかのように倒れていった。
半端じゃねえぞ、これ。
渡ヶ瀬の方からは(とりあえず)食い物のにおいがするだけに、うらめしい。
「なあ、明保野さん」
「ほのかでいいわ」
「んじゃあ、ほのかさん。その気になれば、普通の味でも作れるんじゃないか?」
「作れるわよ」
だったらなんでそういう風に作らんのじゃあ!? と突っ込む前に返答が来た。
「ただそれだと、十分な効力が引き出せないのよ。渡ヶ瀬相手に半端なメシだとたちまち肉の塊にされるわよ」
肉の塊ってあーた……。
「それに、食べるのは私じゃないし」
「そっちが本音かあ!?」
「こちら、完成いたした!」
俺のフルボリュームは、渡ヶ瀬の叫びとほぼ同じ音量だった。
くっ、予想以上に早いぞ。
渡ヶ瀬は純和風の膳と座布団を置き、校庭のど真ん中で巨大な身体をこぢんまりと正座させた。
膳の上に並べられたメシは、以下の内容だ。
・アジの塩焼き
・ジャガイモと鶏つくねの炊き合わせ
・キャベツ・ニンジン・キュウリのごまからし和え
・ごぼうと豆腐の味噌汁
・えんどう豆ご飯
一汁三菜とは、限られた条件の中でなかなか豪華な内容だ。
「それではいただきます!」
渡ヶ瀬は両手をパンと合わせ、顔に似合わず丁寧に食事を始めた。
「ほのかさん、こっちのメシはまだか!?」
「私のメシは、完成まであと三分ほどかかるわ。それまで逃げ延びてちょうだい」
あんさんずいぶん簡単に言うてくれはりますな。
「ごちそうさまでした!」
はやっ!?
悩む暇もないじゃないか!
「飯使い明保野流皆伝、渡ヶ瀬一良。まいる!」
「ほのかさん、相手が降参しました」
「その参るではない!」
「一・六キロメートルのことだな?」
「そのマイルでもない!」
「マイルマイルマイルマイル……マイル・ベッサッソン♪」
「それはマイムマイム!」
ふっ。得意の口先三寸で、相手の出足をくじいてやった。
「ごちゃごちゃ言っておらんで、尋常に勝負せい!」
「やなこった!」
メシを食っていない以上、三十六計逃げるが勝ちだ! 陸上部がうらやむ俊足を見せてやる!
「遅いな」
マジデスカ!?
相手に背を向け数十メートル走った先に渡ヶ瀬がいた。
まずいな。奴の動きはこっちの動体視力を超えているようだ。
後ろはサッカーのゴール。左右へは逃げられないよう、渡ヶ瀬が注意を払っている。万事休すか。
「こんにちわ少年。そしてさようなら!」
派手な金属音とともに、渡ヶ瀬の拳はゴールポストをへし曲げた。
「ぬう!?」
俺は拳撃を食らう寸前、スライディングで奴の股下をくぐり、かわしたのだ。
そして、膝裏に渾身のローキック! 通称ヒザカックン!
渡ヶ瀬が膝を崩す。ちょうどいいところに頭がきた。そこを狙い澄まし、立て続けのミドルキック!
ずしゃあっ! 見事、渡ヶ瀬はゴールネットに突き刺さった。
だが。敵は何事もなかったように起きあがり、前面に付いたほこりを払う。後ろから生徒たちのどよめきが聞こえる。
「ふむ、思ったよりもやるな」
あたぼうよ。こちとら中学時代に趣味で空手柔道剣道将棋にソロバン、各種初段を取ってるんだ。メシの力無しでもそう簡単にやられてたまるか!
どじゅあっ!
なんだ!? 何かが激しく蒸発するような、すごい音がした。
振り向くと、鍋から白い煙をもくもくと立ちのぼらせる、ほのかさんがいた。
「時と
チャーハンを作るときにもつぶやいていた、あの呪文。どうやら調理も佳境のようだ。
「捧げるは……
あの袋の中でうねうね動いていたのはそれですか!
これはもはや料理とは言えませんな。
「……そして、生娘の生き血」
彼女はためらうことなく包丁で手のひらを切った。すぐに真っ赤な鮮血がしたたり落ちてくる。思わず、俺は叫んだ。
「ほ、ほのかさん!」
「大丈夫よ。メシの力でこのくらいの傷はすぐにふさがるから」
「そうじゃなくて! あんたその歳で処女か!?」
俺は、履歴書にあった飯使いの文字は見逃したが、二三歳という部分はしっかり脳裏に焼き付けているぞ!
「よけいな口出しはしないでちょうだい」
「すみませんごめんなさいもうしません」
反射的に土下座してしまいました。
大声ではなかったが、殺傷力のあるひとにらみだった。その証拠に、後ろにいる生徒の一部がガクガクブルブルしている。
ふん、とここまで傍観していた渡ヶ瀬が口を開いた。
「ほのかよ。その若さで師範代に選ばれながら、なぜ今更フリーなどを目指す?」
「私には私のやりたいことがあるのよ。今の縛られた状態のままじゃ、それができない」
「だが、それも無意味に終わる。これで我が輩の勝ちだからな!」
渡ヶ瀬がこちらを向き、構えを取る。
くう、もう少し時間を稼ぎたかったのだが、もう厳しいか。
「こちら、完成しました!」
きた! ほのかさんの、完成を告げる声。渡ヶ瀬は振り上げたこぶしをおろした。
「ルールに助けられたな」
戦いのルールその三。後に調理が完成した側へは、食べ終わるまで攻撃をしてはいけない義務が生じる、だ。
渡ヶ瀬は自分の厨房場まで戻り、どっかと腰を下ろした。
ふう。ひとつ息をつき、俺もほのかさんの厨房場へ向かう。
淡々と、彼女は膳の上に料理を並べていた。
「さあ、召し上がれ」
彼女の差し出した料理は、
・えびの小判焼き
・生ゆばと根菜の煮物
・さつまいもと金柑の甘煮
・鮭の粕汁
・いり豆ごはん
以上、こちらも一汁三菜だ。
しかし、今回はまともなのは見た目だけ。においからして、これは危険だと訴えている。
てゆーか、さっきの怪しげな材料はどこに行きましたか!?
「早く食べないと効力が落ちるわ」
ええい、南無三! 俺は意を決してメシに手をつけた。
うっ!
口の中に入れた瞬間に襲う嘔吐感。しかしそれは彼女に手で口元をふさがれて止められた。
逆流した息は耳に抜け、ぱぁん!と鼓膜が破れそうな衝撃が響く。
「今度は残さず食べてもらうわよ。これを全部食べてもらわないと、効力を十分に発揮できないんだから」
天国にいるお母さん、もしかして俺って不幸ですか? いいえ龍利、それは違います。もしかしなくてもあなたは不幸なのです! あああああ、やっぱりぃぃぃ!
とまあこのように、俺は自覚できるほどに混乱していた。
無表情の彼女が微妙に笑っているように見えるのは気のせいだろうか? まさに、悪魔の微笑。さっきの処女疑惑をまだ根に持っているのだろうか。
焼けた鉄のかたまりが、胃の中へ直接流し込まれるような感覚。
朦朧とする意識の中、妙に冷静な自分がいた。その俺はこう考えていた。
味覚だけで人間は死ねるんだな、と。
いかん、目の前がぼやけてきた。今度こそお別れの時間のようです。それでは皆さん、さようなら──
「やはりほのかのメシを受け入れるだけの臓腑は持たぬようだな。この勝負、ここまでだ」
哀れみにも似た瞳でこちらを見下ろし、渡ヶ瀬が淡々と言う。
「そう思う?」
それに対し、ほのかの声には勝利を確信する不敵さがあった。
「聞こえない? 私のメシを、彼の臓腑が吸収していく音が。細胞のひとつひとつが脈動を打っているのを」
「ぬう……!」
渡ヶ瀬から、余裕の色が消えた。彼も、彼女の言う『何か』を感じ取っているようだ。
──妙だな。
ほのかさんのメシを食べて、俺は気を失っていたはずなのに、まるで俯瞰視点で自分を見下ろしているような感じがする。視覚も聴覚も麻痺しているはずが、ほのかさんや渡ヶ瀬の立ち位置や表情、周囲のどよめき、風のながれる様までもがはっきりと感じ取れる。
身体が、熱い。
「目を覚まされるとやっかいだ」
倒れたままの俺に、渡ヶ瀬が近づき、足を振り上げる。踏みつぶす気か!
だが、地上数十センチのところで彼の足は止まった。
「龍利!」
遠巻きから聞こえる葉月の歓声。
俺は仰向けのまま敵の足をつかみ取り、動きを止めたのだ。そしてそのまま横になぐ!
地響きとともに、見事渡ヶ瀬は横転した。
背筋だけで、俺は素早く跳ね起きた。
…………。
やっぱり変だ。周囲の動きが妙に遅く感じる。
「おのれっ!」
この遅い空間の中、渡ヶ瀬は素早く俺に突進してくる。だが、とらえられないほどじゃない。俺は横へ動いてこれをかわした。
そうか……。俺はこの妙な感覚を理解した。
どこかで聞いた覚えがある。人間の目は本来、秒間三〇〇コマの映像を感じ取っているのだと。
脳や神経がこれに追いつかず、その十分の一程度しか処理できていないのだ。
この『本来の視覚』をメシの力で引き出しているとしたら?
同様に、視覚以外の感覚も相当に鋭くなっているようだ。
そして、この間延びした世界の中でも普通に動けるだけの運動能力。
これがメシの力か!
「走馬燈の世界に突入したか。だがこれで同じ土俵に立ったにすぎぬ!」
渡ヶ瀬が再び構えをとった。
ぱたぱたと手を振りながら、遠慮がちに俺は答える。
「同じだなんてとんでもございません」
そして次の瞬間、俺は敵の背後に回り込んだ。
「てめえにこのスピードが出せるかよ!」
俺の放った正拳は、見事に渡ヶ瀬の背中に突き刺さった。たまらず敵が前へ跳ぶ。
「雅史! 木刀!」
「おうっ!」
俺の呼び声に威勢良く応じ、木刀が飛んできた。
確か、武器の使用は禁じられていなかったはずだ。俺は居合い抜きの構えをとる。
「神! 速! 斬!」
あまりの剣速に、木刀が竹刀のようにしなる。空気は引き裂かれ、衝撃波となって渡ヶ瀬を襲う!
ふっ、やはりな。確信していたとおり、メシの力をもってすれば素振りは音速を超える。
だが。
砂埃の中から現れた渡ヶ瀬は、腕をクロスさせた防御姿勢で今の攻撃を防ぎきったようだ。
「初実戦で、なかなかとんでもないことをしてくれる」
「気にすんな。飯使い自体がトンデモだ」
ここまでの競り合いから、タフさはヤツ、スピードは俺に分があるようだ。
長期戦になると、不利だな。
と、ふわあっとした香りが、風に乗って流れてきた。
このにおいは……肉じゃが!
ほのかさんは、次のメシの準備に取りかかっていた。
肉じゃが。葉月の作る料理の中でもこれが一番マシなので、俺の一番の好物となった肉じゃが!
ほのかさんも長期戦は不利と感じたか、二品目を作っていたようだ。
「二品目、完成しました」
深皿にこんもり盛られた肉じゃがを膳の上に置き、ほのかさんがこちらに向かって叫ぶ。
このにおい、食欲をそそられる。
いやしかし、あのほのかさんのメシだ。今度こそ死ぬ羽目になるやもしれず。
しかししかし、このにおいには重力があるかのように、身体が引き寄せられそうな……。
「まともな味でも作れるって言ったわよね? 今が互角ならプラスアルファで良いのだから、普通の味付けで作ったと思わない?」
悩んでいる俺に、ほのかさんが淡々と答える。
しかし先に動き出したのは渡ヶ瀬だった。
「その肉じゃが、我が輩がいただく!」
ちいいっ! 出し抜かれた! 後を追うが、後手となってしまった。
戦いのルールその四。メシの二品目からは、お互い調理・食事の邪魔をする権利が与えられる、だ。
仮に激マズだとしても、俺のメシを敵に食われるのは気にくわん! なんとしても阻止する! 俺は渡ヶ瀬の前へ回り込み、みぞおちめがけてタックルを──かわされた!?
今の動体視力をもってしても残像が残るほどの速度。こいつ、ほのかさんのメシになにか思い入れでもあるのか!?
「それではいただきます!」
くっ、やばいぞ。あれを食われたら形勢逆転される可能性が……。
がはあっ! 食いかけの肉じゃがに混じって血反吐を吐き、渡ヶ瀬は倒れた。
…………。
やはり、人類の限界を超えた味だったか。
かくして、決着は予想外の形でついたのだった。
「我が輩が食すことを見越しての、あの大胆な味付け。見事であった」
意識を取り戻すと、渡ヶ瀬はそう言った。
それに対しほのかさんは、さも当然のように答える。
「あの肉じゃがが完成した時点で、あなたは負けていたわ。弥勒君ならあれを取り入れるだけの臓腑があるから」
いや、日に三度もあの味を体験したら、俺はもう二度と現世に戻れなくなると思うぞ。そう思ったが、口に出すのはやめておいた。
渡ヶ瀬は力なく首を横へ振った。
「そうか。我が輩の臓腑はおぬしのめがねにかなわなかったか。おぬしの守護士になれればと思っていたのだが」
これって一種の告白だろうか? ほのかさんも、珍しく面食らったような顔をしている。
「ううん、あなたは十分私の守護士になれたわ」
照れくさそうに、彼女は言った。
「ただ、顔が好みじゃないから」
うわ、きっつう。
渡ヶ瀬は、今度こそ完膚無きまでに撃沈したのだった。
*
く、くそう。
せっかくの日曜日なのに、なぜに俺はベッドで寝込まねばならぬのだ。
翌日。
猛烈な筋肉痛と疲労感に襲われ、俺はベッドから身動きがとれずにいた。
「あの頑丈な龍利がこんなになるなんて、メシの力っていろいろとすごいんだねえ」
さほど心配する様子もなく、むしろ感心したように葉月はため息をついた。台所で何かの料理をしている様子だ。
例によって勝手に上がり込んできたのだが、誰かに連絡することさえできない状態だったからさすがにありがたい。
しかし、考えてみれば当然じゃないか。
飯使いのメシは、極端なドーピングも同然なのだ。このくらいの副作用は予想してしかるべきだった。くそう。
お盆を持って、葉月が部屋へ入ってきた。
「おかゆ、できたよ」
「うまい! おかわり!」
「はいはい。まだたくさんあるからね」
うきうきと、葉月は差し出された茶碗を受け取る。
俺のこの言葉、実のところは嘘だが、心からの本当の言葉である。
なに? わけがわからない? しかしこれが正直なところなのだ。
大多数の人は、葉月の料理をうまいとは評価しないだろう。しかし俺は食べ物の範疇から激しく外れるものを食ったのだ。アレに比べれば、葉月の料理は一流コックにだって匹敵するというものだ。
「あの飯使いさんは、里へ帰っちゃったんだって?」
「ああ。師範へ挨拶にいくそうだ」
会話の通り、ほのかさんは師範へ挨拶に、渡ヶ瀬とともにこの町から去っていった。後日、召使いとして正式に採用する予定ではあるが。
つかの間の平和が、俺の元にもたらされていた。
「まあこれでもう懲りたでしょ。召使いを雇おうなんて」
「何を言う。俺はまだあきらめたわけではないぞ。なんといっても男の野望だからな!」
葉月はあきれ半分あきらめ半分の様子で、首を横に振っていた。
と、電話が鳴った。ケータイとは別に引いてある有線の電話の音。先日求人広告に載せた側の電話番号がこれだ。
噂をすれば、だ。わくわくしながらベッドを降り、俺は受話器を取った。
「もしもし弥勒ですけど。あ、はい。召使い希望の方ですね。お名前よろしいですか? ……はい……飯使い明保野流印可……明保野、あやか……さん……ですね……?」
俺は天を仰いで神を恨んだ。
かんべんしてくれー!
めしつかい 舞沢栄 @sakaemysawa
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます