第3話 おわりはじまる

 父親として夫として妻と娘をあの世へ送る、それが今残された僕のただ一つの生きている理由。


 酔いを覚ましてから飴屋に自分の携帯番号を渡し会社を辞めて連絡すると伝え、店を後にした。

 きっと飴屋に会っていなかったとしても僕は会社を早晩辞めていたと思う、それがほんの少し早まっただけだ。


 そうしてタクシーに乗り僕は誰も待っていない家に帰った。

 平凡で幸せな家族だった、このまま生きて死んで行くのだと何一つ疑う事なく暮らして来た、その日々はもう二度と戻らない、この世で僕の中にしか存在しない思い出になってしまった。


 エレベーターで5階に着く、家の鍵を開け玄関の明かりを付けて鍵を閉めた。

 いつも二人が迎えてくれたリビングは広く言葉に出来ない程、寒い。


 朝出かける前に供えた線香の残り香がまだ残っていた。


 四人がけのテーブルの椅子に深く座り、長い間吸っていなかった煙草に火をつける。

 天井を見上げると大きく息を吸い込み、ゆっくりと煙を吐き出す。


 ━まるで自分の無い魂が所在しょざい無げに彷徨っているように見えた。


 少しの間中空をウロウロした後諦めたように紫煙はゆっくりと消えていった。


 今日の事を目を閉じて反芻はんすうする。

 飴屋に出会い飴を舐め絶望が身体に燃え移り生きたまま悪霊になった僕は彼岸の手前で途方に暮れている洋子と綾に会った。

 二人を助けると約束をしてこちら側に戻り飴屋の仕事を手伝う事にした。


 夢や幻の類や何らかのトリックで飴屋に騙されていたとしても、僕はあの時飴屋を信じたいと思い、手伝いたいと思ってしまった。彼には何か惹きつけられる物を感じている。


 この決断がどういう結末を迎えたとしても後悔はしないだろう。何があろうと二人を旅立たせてやりたい。


 …しかし僕に出来るのだろうか、社会に出てからサラリーマンしかやった事のない自分に出来る事なのだろうか?

 これからの不安が頭の中から溢れ出そうとする、両頬をピシャリと叩くと僕はウィスキーをあおり眠る事にした、その夜不思議と夢は見なかった。


 ***


 次の日僕は12年勤めた会社に辞表を提出した。

 上司も同僚も部下達も僕の事情を知っていて何も言わず暖かく送り出してくれた。

 全ての引き継ぎを終わらせた最後の日、仲の良かった同僚がささやかな送別会を開いてくれた。何かあった時にはいつも来ていた古びた居酒屋で同僚としての最後の酒を飲む。


 同じ時期を戦った戦友、山口と渋谷は辛い事があればすぐに連絡しろと言ってくれた、固く握手を交わし、そして別れた。


 駅へと向かう二人の背中を見送る時もうこちら側には戻って来れない気がした。そして僕はあのバーへと行こうと思った。


 飴屋が居なかったとしても一人で今日は飲もうと思っていたのだ。


 背を向け歩き出した僕のスマートフォンが鳴る。

 ディスプレイを見ると見知らぬ番号が通知されていた。不意に取らなければいけない様な気がして電話を取ると飴屋の声が聞こえた。


「お久しぶりですね、お仕事をお辞めになられた様で大変長い間おつかれさまでした。

 早速なのですが"退治"の依頼が入っていましてユーレイさんのお力をお借りしたいと思うのですが今からバーへ来られますか?」


「何故今日辞めた事を知っているんだ…まあいいや、ちょうど今から行こうと思っていたからすぐ顔をだすよ、それで俺のあだ名はユーレイになったんだな、どんな依頼なんだい?」


 軽口を叩いていても心臓の鼓動が早くなるのを感じる。



「人形屋敷に巣食い、入って来た人間を襲う霊を退治します。」


 鈴の鳴る様な声で飴屋は言った。

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