8. 魔女と不死と再びの平笠

 鼻をぶつけたことも、荷車に乗ったことも、ダンダラココの腹の中でかわした言葉も、ユエさんは覚えていないと、先に申し上げました。

 ユエさんは下腹に魔女の魂を抱えていると、初めに申し上げました。


 ユエさんがモノの怪を喰わざるを得ないのは、この魔女の飢えを満たすためです。魔女が飢えると、ユエさんの魂を齧って思い出を奪います。

 ですのでユエさんはモノの怪を喰うために、まじない師として怪物退治に赴きます。ダンダラココのように危なげなく喰えれば良いですが、危険は多く、文字通り死ぬような目にも遭うのだそうです。

 刺された、斬られた、咬まれた、射られた。そういう時にね、魔女が出てくるんだそうですよ。そして危機を一掃し、体の傷をなくし、宿主を生かし、思い出を奪うのです。


 私がユエさんからそう明かされました時には、正直申し上げて「それでも命あっての物種だ」と呑気に構えていたところがありました。しかし結婚して三年がたったある日、大きな出来事がありましてね。


 私たちは、王太子殺しの下手人として濡れ衣を着せられました。

 私は行商の先で捕らえられ、牢に入れられました。

 理由なぞわかりません。のちにユエさんが言った事には、異人で、味方が少なく、化け猫と噂される得体のしれないまじない師とその夫だから、濡れ衣を着せやすかったのではないかと。

 ユエさんはモノの怪退治に出向いた先で役人や将兵に追われ、ついに追いつかれ、そして魔女が出たそうです。

 つまり、死ぬような傷を、負わされたのです。


 こうしてお話している今でも私は、この仕打ちを許しておりません。文字通り一生、私はあの国を許しませんでした。


 あの時。

 王族殺しの一味として処刑場に引き出され、柵越しに石と罵声を浴びながら私は、なぜ自分があんなところにいるのかが理解できませんでした。モノの怪退治に出ていったユエさんと右目殿は、馬宿に預けっぱなしのモンチャンは、無事でいるのか。つい数日前まで静かに暮らしていたはずなのに、なぜ、私は首をねられようとしているのか。


 まさに処刑されようというその瞬間に、甲高い猫の咆哮が聞こえました。正午の日差しを背負って空から落ちてきたユエさんの姿を、生涯忘れることはありませんでした。稲妻のように着地し、処刑人たちをなぎ倒し、嵐のように私をさらって行った最高の化け猫です。


 そして、私と、ユエさんと、右目殿と、モンチャン。全員で国を出ました。しかし、ユエさんは私の事を忘れてしまっていたのです。私との思い出をなくしてしまっていたのです。


 忘れてしまったまま、それでも助けに来てくれたのです。


「家のあちこちにね」とユエさんは言いました「幸せだったっていう気持ちが、残ってた。わたしの右目があなたの事を教えてくれた。それでね、あなたに会いたいと思ったんだ。タンスを見ても、水瓶を見ても、枕を見ても、何をしていたのかは全然思い出せないのに、幸せだったって気持ちは感じられたんだよ。昨日までのわたしにくれた幸せを、これからのあなたの命に返そうと思ったんだ」


 国境を越え、昼間の人目を避けて隠れた林の中でした。

 また生きてユエさんに会えた喜びとは別に、また無事に家族がそろった安心とは別に、私は言いようのない寂しさを覚えました。


 目の前にいるユエさんは、私がともに暮らしていたユエさんとは違うのだと知りました。夜明けの中でもじもじと指先を動かしたときの気持ちも、夕暮れの荷車の上からモンチャンを眺めていた時の気持ちも、私と初めて言葉を交わしたときの気持ちも、彼女は覚えていないというのです。

 私は言いました。涙ながらに言いました


「ユエさん、今までみたいに『きみ』と呼んでくれませんか。私は、私が、今までユエさんにしてきたことは、私がそうしたいからしたのです。少しでもあなたが喜んでくれたら嬉しいと、それだけのことだったのです。ただの一度も、何かの対価だったことはありませんでした」


 ユエさんは、私が見た中で一番くるしそうに顔をゆがめました。

「だけど、あなたの事は、やっぱり、思い出せないんだ」

 そして、そのまま泣きました。子供みたいな泣き方でした。私が見る初めての泣き顔でした。ごめんなさいとユエさんは言いました。なくしてしまってごめんなさいと泣きました。私はたまらず彼女を抱きしめて、私も泣きました。

 だって、ユエさんは何も悪くないじゃないですか。何も悪くないのに、私は何も取り返してやれないじゃないですか。



 泣き疲れました。日が暮れます。そろそろ出立です。ほとぼりが冷めるまで、なるべく国境から離れなければなりません。

 十何年かぶりに大泣きして薄っぺらく感じる肺に空気を吸い込み、私はユエさんに告げました。

「私の名前はクォンです」

 ユエさんは泣きはらした顔で首を傾げました。

「うん……知ってる」

「いいえ、私はまだあなたに名乗っていません。私はクォン。強い、という意味です。あなたの名前を教えてください」

 少しあり、ふわっ、と力の抜けた微笑みを見せて、ユエさんが名乗ります。

「わたしはユエ。意味は、磁白シーイーの言葉で、月」

「素敵です」

「うん。わたしもこの名前が好きだよ」

 そう言って、ユエさんが平笠を手に持ちました。

「クォン、わたしとくれば、また危険に巻き込まれるかもしれないし、わたしはまた何か大切なことをなくして」

「いいですよ。大丈夫です。私はクォンなので負けません」

「返事が早いよ……ありがとう」


 つぶやいて、ユエさんが平笠を真上に投げ上げます。少しの風があります。上弦の月が夕方の空高くに見えました。これから満ちる月、やはりユエさんの名前は素敵だ、などと感慨に浸る私に平笠が流れてまいりました。

 あ、これは、と。なりました。以前の事があるので私は動けず、笠はそのまま、きれいに私の頭にはまりました。


「あははははははは! ははははは!」


 ユエさんの笑い声がします。しゃがみこんでお腹を抱えて笑っています。

 ベェヘーヒエ! とモンチャンが声を上げます。まったく、人目を避けているはずなのにこの大騒ぎですよ。

 方角が狂いますからね、私は動きません。ユエさんが笑い収めて、笠に描かれた模様を読みます。模様を読むユエさんの表情が好きです。やがてユエさんは背伸びして私の頭から笠を取り、そのユエさんと目が合います。



「改めて、よろしくね。クォン」

「こちらこそですよ、ユエさん」と応じて、私は強気にも付け加えました。

「また、好きになってもらいます」

 彼女こたえてわく

「あなたは──急にそういうこと、言うんだね」

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