嘘つき令嬢の婚約者は愚か者の王太子

灰色テッポ

第1話 嘘つき令嬢

「ミランダ、君と俺との婚約の破棄を承諾してもらいたい」


 この国の王太子であるホーレス・シルベインは苦し気な表情で、ミランダと呼んだその令嬢に言葉を投げつけた。


「ホーレス様……」


「君がいつか心を入れ替えてくれるものと信じてずっと待っていたが……結局変わることが無かったのは残念だ、だがもうが仕方ない」


「あの……わたくしが変わるって、一体何の事を言っておいでですのかしら?」


 透き通る様な白い肌が大きな黒い瞳を際立たせ、豊かな白銀色の髪をかき上げたミランダは紛れもなく美しい。

 不思議そうに小首を傾げた彼女は蠱惑的こわくてきでさえあったが、ホーレスはそれを無視して少し怒った様にした。


「もちろん、君が嘘つきだと言う事たよ!」



 ミランダ・アステア侯爵令嬢。彼女はホーレス王太子の婚約者であり、貴族社会では噂に名高い嘘つき令嬢であった。


 しかしミランダ本人は自分を嘘つきだなどとは思っていないし、噂になる事も全く気にもしていない。


 彼女はいつだって事実を話していたのだが、その事実に不都合を感じる者たちが故意にミランダを嘘つきにと仕立て上げていた事を知っていた。

 やがてミランダに嘘つきのレッテルが貼られる様になると、今度はそれを面白がった者たちによる根も葉もない嘘まで噂として広まっていく。


 そんな嘘のなすり付けをされても気にしないと言うのだから、豪胆なのか無神経なのか、ちょっと判別するのは難しい変わった性格をした令嬢なのである。


「またその話ですの?」


 そう微かに溜め息をついたミランダにホーレスは詰め寄り、「またとはなんだ!」と荒い鼻息を吹きかけた。


「いや、もういい……とにかく婚約の破棄を──」


「あ、その件でございますけれど」と、ミランダはホーレスの言葉に声を被せ、貴族令嬢にあるまじきとんでもない告白をする。


「わたくし、ホーレス王太子殿下の御子様を身籠りましたの」


「えっ?…………ええっーー!」


「ホーレス様、声が大きゅうございます」


「あ、いやでも、うん、すまない」


「そういう訳ですので、婚約破棄には応じられそうもありません」


「む、無論だとも! そ、そうか……俺に子供が…………」


 この時のホーレスは大層な驚愕ぶりで、しばらくの間は子供がどうの、父親になるのがこうのと、呆然とした感じで独り言をブツブツと呟いていたそうである。

 それが二日前の出来事であった────



「ミランダ! どういう事だ!」


 ひとり王宮の庭でお茶を楽みながら魔術書を眺めていたミランダは、まるでズカズカという音が聞こえてきそうな勢いで現れたホーレス王太子に向けて、露骨にうるさそうな顔をした。


「こんなところで暢気に茶など飲みおって……」


「まあ! 暢気にお茶を飲めるって素晴らしいことですわよ?」


「ちがう! 俺が言いたいのはそんな事じゃない!」


「あら、ではこの魔術書にご興味でも? これはお肌の保湿に関する美容の──」


「そんな事に興味があるわけないだろ!」


 もちろんそうだろうと、ミランダにはホーレスが今日会いに来た理由の見当はついている。

 ただ、それに付き合うのは少し憂鬱だったから、無駄に話をはぐらかしてみたに過ぎない。


「また嘘をついたなミランダ、君が俺の子供を身籠るわけが無いそうじゃないか!」


「それはそうでしょう、わたくし達はそういう行為はまだ致しておりませんですもの」


「そうとも、俺は昨日初めてそういう行為がある事を知ったんだぞ」


「ホーレス様、それは威張って言うことではございませんわよ?」


「なに? そうなのか……」


 これはもう純真とか無垢とかいう話ではなかろう。じきに十九歳になるという青年が、昨日まで男女の交合について知らなかったというのは異常な事なのだ。


 ミランダはその異常さを承知していたのだけれど、改めてホーレスの様子を目の当たりにして、絶望にも似た気持ちを覚える。

 その精悍な美しさのある面立ちが、かえって哀れに思うほどに……


「じゃあ君はいつ知ったのだ?」


「そうですわね五年前にはもう……」


 五年前と言えばミランダが十二歳の時ではないかと、ホーレスはその時すでに婚約者であったミランダを恨みがましい目で睨む。


「酷いぞ……知っていたなら教えてくれよ」


「おまちください!」


 その野太い男声の主は当然ミランダではない。


「高貴なる王太子殿下におかれましては、その様な行為を通常の男女の交合と同一にお考え召されませぬよう進言致します」


「やあ、遅かったな」


 ホーレスが親しみを込めた顔で振り向いた先にいたその男は、他に男と女の二名を連れていて、皆同年代の貴族令息令嬢といった出で立ちである。


 ミランダにとってもその者たちは知らない者たちではない。彼らは貴族社会の政治的意図で選ばれた王太子のご学友で、いわゆる取り巻き連中という奴らだ。


 奴らなどと侮蔑を含んだ言葉を使ったのは、ミランダがこの者たちを嫌っていたからに他ならない。


「あら、どうせやる事は一緒でしょ」


 彼らを一瞥いちべつしただけでお茶を口にしたミランダは、そっぽを向いて独り言の様に吐き捨てる。


 その態度が気にさわった野太い声の学友は、ひとつ舌打ちをしてミランダに鋭い視線を向けた。


「無礼な! 嘘つき令嬢が何を言うかっ」


「あっ、その事だ!」ホーレスはいま思い出したという感じで目を見開く。


「ミランダ、やはり君は知っていて懐妊したと嘘をついたのだな?」


「ホーレス様……」


 手に持ったカップをゆっくりとソーサに置いて、ミランダは優しい眼差しでホーレスの瞳を見つめた。


「よいですか? ホーレス様のお歳にもなれば、あのような話は常識として冗談と判るべきことなのです。それを真面目な顔して嘘よばわりしては、かえって嘲弄ちょうろうされかねませんわ」


「…………」


 眉間に皺を寄せながらも何か考える風に黙ったホーレスが、「確かにそうかもしれん」とぽつりと言った言葉を取り巻き連中は聞き逃さない。


「なりません、嘘つき令嬢の言葉など聞いては毒になるだけです」


「そうですよ王太子殿下、あの嘘つき女が今日こうして王宮にいる理由はご存知でしょう?」


 取り巻きの令嬢が憎々しげに言ったその理由というのを、ホーレスはもちろん知っていた。

 今日は王妃、つまりホーレスの母が、お気に入りの貴族令嬢たちを招待した夜会が催される。その夜会に王妃が特別お気に入りにしているミランダも出席する事を知らされていたからだ。

 それゆえこうして会いに来てもいる。


「それがどうした?」


「はい、本当は今日の夜会には私も招待されるはずだったのです。もちろん当然ながら我が伯爵家にはその資格がございます……それなのに!」


 取り巻きの令嬢は歯軋はぎしりをしながらミランダを指差して、悲鳴にも似た声で言い募った。


「それなのに、この嘘つき女が私に関する嘘の醜聞を王妃様に告げ口したのです! そのせいで私への招待は取消されました」


「なに!? それはまことか? どうなのだミランダ」


(はぁ……)もし誰も見ていなければ、盛大に溜め息をつくという無作法をやってのけられるのに。

 ミランダはそれを許さない自分の慎ましさを恨めしく思いながら、ちょつとばかしの溜め息で我慢した。

 それにしても……


(どうしてこうもホーレス様は素直に過ぎるのかしら──)


 素直は美徳であると言うけれど……もう一つ溜め息を出しそうになるのを飲み込んで、ミランダはホーレスの問いに答えることにする。


「嘘、ということ以外はその通りでございます。王妃様がわたくしに夜会へ招待するのに相応しくないと思われる令嬢はいないか? と訊ねられましたものですから、わたくしは自分の知るところをお話し申しあげただけですわ」


「う、嘘よ! 全部あなたの作り話じゃない!」


「二人とも待て! 嘘が嘘で嘘? うーん、一体何が本当なんだ?」


 ホーレスが真面目に困った顔をするものだから、ミランダもいよいよガッカリしてしまう。

 だけど……


 そんなホーレスだからこそ愛おしいのだと、ミランダは思ったりもするのであった。

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