思い出の香り

逢雲千生

思い出の香り


 夏になると思い出すのは、少年だった頃の淡い気持ちと強烈な記憶だ。

 大好きだったおばあちゃんに会いに、夏は必ず母の実家へと行っていた頃の、懐かしいあの頃。

 今とは比べ物にならないほど、毎日が輝いていた遠い自分。

 そこで体験したことを、少し話してみたい。

 

 私のことはノリユキと呼んでほしい。

 本名ではないが、好きな名前なので、そう呼んでもらえると嬉しいんだ。

 

 さて、話を始めるが、私がこの体験をしたのは小学三年生の夏だった。

 勉強が苦手で、宿題にうんざりしていたこの時は、口うるさい母親から逃げるように、おばあちゃんの家に遊びに行っていたんだ。

 おばあちゃんの家はすごい田舎で、今はもう誰も住んでいないが、あの頃は数軒だけ人が残っていた。

 全員がおじいちゃんとおばあちゃんで、同じ年頃の子供はもちろん、三十代以下の人は誰もいなかったから、すでに限界集落だったんだろう。

 当時の私は静かな環境だと喜んだが、住んでいた人たちはもう、これ以上は無理だと思っていたに違いない。

 集落と呼ばれる狭い場所で、昔は百人以上の人が住んでいたから「なんとか村」と呼ばれていたらしいけれど、残念ながら村名は覚えていない。

 調べても出てこなかったので、あの辺りの人達が勝手に呼んでいただけなのかもしれない。

 それほど田舎だったんだ。

 村にはおじいちゃんとおばあちゃんばかりだったけれど、一軒だけ五十代の夫婦が住んでいた。

 正月にきた時にはいなかったのにと、私が不思議に思っていると、おばあちゃんが冷たいスイカを切りながら教えてくれたんだ。

「あの人たちはね、今年の四月くらいに、あの家と土地を買ったそうなんだよ。東京の人らしくて、私らとは話さないけど、たまに帰ってくる若い人達には声をかけていてね。じいさんが心配してるんだ」

 食べやすいよう薄く切られたスイカ越しに、おばあちゃんは僕をじっと見る。

 よそ者と呼ばれる人がコミュニティにいれば、狭い地域では格好の的になるのだが、この村では好奇の目に晒されるより先に、疑いの目で見られることが多かった。

 年寄りばかりだと、窃盗や暴力目的で家に押しかけては、力で人を傷つけようとする人がけっこういて、警察の目が届きにくいこの村は特に警戒心が強かった。

 そのため、村に知らない人がいるとなれば、みんなで情報を共有し、何かあったらすぐに助けられるようにと、常に見張るのだ。

 村人の家族や親戚であれば平気なのだが、なんの関係もない人が来たら大騒ぎになるほど、この村はよそ者に対して厳しかったんだ。

 僕がここに来る時は、いつもお母さんが連れてきてくれるんだけど、仕事が忙しいお父さんを一人にしておけないからと、いつも僕をおいて帰っていた。だからここには、おばあちゃんとおじいちゃんと僕の三人しかいない。

 おじいちゃんは畑仕事を続けていたから、昼は家にいないし、夜はすぐに寝てしまう。おばあちゃんはずっと家にいるけれど、腰が悪くてあまり動けない。

 反対に元気いっぱいだった僕は、いつも一人で遊んでいたので、三人とも一人でいる時間があったから、おじいちゃんは心配だったんだろうね。

 そういえば、僕、僕、なんて、いつの間にか変わってしまったけれど、この頃の私は、自分のことを僕と言っていたんだ。

 周りの友人は俺と言っていたから、ちょっと違う自分になりたくて、僕は自分を僕と呼ぶことにしたんだ。

 それがけっこうしっくりきていたから、高校に進学するまで使っていたと思う。

 おじいちゃんは「似合わんな」と渋い顔だったけれど、おばあちゃんは「可愛いわねえ」と言っていたからいいんだ。……まあ、可愛いと言われるのは、ちょっと複雑だったけれどね。

 そんなこんなで、いつもより少し違う、夏のひと時が始まったんだ。

 

 僕が村に来てやっていたのは、昆虫採集でも川遊びでもない。探検だった。

 ほとんど人が入らなくなった山や、放置された田畑などに入っては、ちょっとした探検家になった気分になっていたんだけれど、今考えるとすごく危険だった。

 一応は草刈りがされていたり、動物避けの鈴や柵が設けられていたけれど、捕獲用の罠なんかもあったから、よく無事だったなと思うよ。

 子供ゆえに怖いもの知らずなところがあった僕は、あの日も探検家気分で田畑に足を踏み入れたんだ。

 入ったのは、おばあちゃんちの隣にある空き家の畑だった。

 その空き家は、もう何十年も人が住んでいなくて、家はとっくに取り壊されていたけれど、田んぼや畑はずっと残っていた。

 定期的に誰かが草刈りはしていたらしくて、いつ来ても綺麗なところだったけれど、なぜか怖いと思う時があったんだ。

 おじいちゃんが作っている田んぼからだいぶ離れていたその畑は、他よりも高い場所にあった。

 昔は山や川へ行くために使っていた道らしいけれど、すでに草だらけになっていて、僕が遊び始めた頃には原型を留めていなかったと思う。

 それでもまだ歩けていたから、誰かが草刈りくらいはしていたと思うんだ。

 出かけてしまったおじいちゃんは、お昼まで帰ってこない。おばあちゃんは縁側で庭を見ながら、枝豆を茎から外している。

 おばあちゃんの手伝いをする気にはなれず、かといって怒ると怖いおじいちゃんのそばで遊ぶ気にもなれなかった僕は、こっそり家を抜け出すと、あの畑へと走った。

 子供の足だと遠かったけれど、それでも遊ぶにはもってこいの広い場所を目指して走った。

 途中で例の夫婦とすれ違ったので、軽く挨拶をしてまた走ると、僕はお目当ての場所で思い切り遊び始めた。

 畑だったからか、土はまだ柔らかくて、持ってきた小さなスコップでも土を掘りやすいし、草がほとんどないから走り回っても平気だった。

 一人で役になりきっては、冒険の真似事をしていたけれど、誰もここにはこないことを知っていたので、恥ずかしさはなかった。

 太陽が上の方にくるまで遊び、喉の渇きに気づいた僕は、近くの川まで水を飲みに行くことにしたんだ。

 畑の近くには川が流れていて、川遊びに持ってこいの深さだったと思う。

 僕はおじいちゃんに怒られるから遊んだことはないけれど、綺麗な水が飲めると知ってからは、こっそりと来るようになっていたんだ。

 水の冷たさが溶けたような、爽やかな空気が肌を包む。

 木々に囲まれていて、太陽が強く差し込まないこの場所は、僕のお気に入りの一つだけれど、あの畑を通らないと来れないのが残念だった。

 村の人達は誰も、行かない行きたくないと言っていたから、もし見つかったらどれだけ怒られることか。

 想像するだけで背中が寒くなったけれど、見つからなければいいやという、安易な発想と軽い気持ちで行っていたのだから、子供というのは恐ろしい。

 水を手で汲んで飲み、喉の渇きがなくなったところで畑へと戻ったのだけれど、そこには見慣れない女の子が立っていたんだ。

 腰までの長い髪を風に揺らしながら、僕を見つめるその子は、僕より年上だとわかった。

 身長も僕より高いし、直感的にそうだと思ったからだ。

 今思えばなんの根拠もないけれど、あの時は本当に、心から年上の女の子がいると思ったんだ。

 その子は日に焼けたような肌をしていて、白っぽいワンピースと麦わら帽子をかぶっていた。

 健康的な普通の女の子みたいだったけれど、その顔に表情はない。

 能面みたいに、じっと僕を見つめるその子と目が合った瞬間、僕は悲鳴をあげて横へと走った。

 すぐ横に道があったからだ。

 川から戻ると一度畑に出るんだけれど、そのすぐ横に下へと降りる道がある。

 女の子は道と反対側にいたから、僕が逃げてもすぐに追いつかれることはないと考えて、ひたすらに走ったんだ。

 なんとか家まで戻ると、おじいちゃんが驚いた顔で僕を迎えた。

 ちょうど帰ってきたばかりだというおじいちゃんは、土の匂いがする手ぬぐいで僕の顔を拭くと、「べそなんかかいてどうした」と聞いてきたんだ。

 いつの間にか僕は泣いていて、鼻水まで出ていた。汗だくだったこともあって、ひどい顔をしていたんだと思う。

 奥から出てきたおばあちゃんが、僕の顔を見るなり慌てていたから、けっこうひどかったんだろうな。

 落ち着いてから、何があったかと聞かれたけれど、僕は素直に話せなかった。

 絶対怒られるとわかっていたからだ。

 けれど、おばあちゃんの泣きそうな顔を見たら、黙っていることの方が悪いように思えたので、話すことにしたんだ。

 当然おじいちゃんは驚いたけれど、不思議そうに「そんな子は知らねえな」と首をかしげた。おばあちゃんも心当たりがないらしく、同じように首をかしげて不思議がっている。

 僕だって驚いたくらいだ。子供がいないはずの村に、いきなり子供が現れたんだから。

 その日はおじいちゃんの怒りもあって、外出を禁止されてしまったけれど、次の日にはいつも通り外へ出ることができた。

 あの畑には近づきたくなかったけれど、他に遊べるところはなくて、家でゴロゴロしているよりはいいと、遊びたい気持ちに負けてしまったんだ。

 やっぱりあの子はいた。

 昨日と同じ格好で、同じ場所に立っていた。

 離れているけれど、表情のない顔で僕を見ているのがわかる。

 怖くて逃げようかと思った。でも、やっぱり僕は馬鹿だ。

 好奇心に負けて、あの子に近づいてみることにしたんだ。

 女の子は動かないまま僕を見ていて、僕が近づいていっても何も言ってこない。

 そのまま、あと一歩で女の子に手が届くというところまで近づくと、そこで初めて違和感の正体がわかったんだ。

 女の子は仮面をつけていた。いや、仮面みたいな何かを顔に貼り付けていた、とでも言えばいいのだろうか。

 人の皮膚みたいな、白い何かが張り付いたようなその顔は、目と鼻と口の部分だけが開いていて、縁日のお面みたいに大きかったんだ。

「それ……お面なの?」

 思わず聞いてしまった。女の子は小さくうなずいた。

 怒ったり泣いたりしないとわかったからか、僕は少しだけホッとして女の子に近づくと、彼女は何も言わずその場に腰を下ろしたんだ。

 釣られて僕も腰を下ろすと、暑い中で子供が二人、畑だった場所のど真ん中に座っているという、なんとも不思議な状況が出来上がってしまった。

 それでも僕は気にならなくて、女の子へ質問していったんだ。

「どこに住んでるの? いつ来たの? 年は? どこの小学校? 何年生?」

 けれど彼女は答えてくれなかった。

 うなずくことも、何かしらの反応を返してくれることもなくて、僕はただ、お昼までその子に質問するだけだった。

 でもそれがなぜか、とても楽しかったことを覚えている。

 そして、その子からたまに香った、夏らしい瑞々しい香りも。

 お昼近くになったので僕が家に帰ろうとしても、女の子は何も言わない。

 少し残念だったけれど、午後に会おうねと言うと、僕は畑を出た。

 するとまた、あの夫婦に会ったんだ。

 彼らは下りてきた僕を見て驚いた顔をしていて、急に冷たい目をしてきた。

 いったいなんなんだと思いながらすれ違うと、こっそり振り向いた途端に目があった。

 その時に見た彼らの目が怖くて、僕は駆け足で家へと帰ったんだ。

 お昼を食べてもう一度畑へ行くと、女の子は変わらずそこに座っていて、僕を見つめていた。

 暑いから日陰に行こうと誘ったけれど、女の子は何も言わない。連れて行ってあげようと腕を掴もうとすると、じっと僕を見てくるので、嫌なのかと思いやめた。

 仕方ないので僕が川と畑を往復しながら、休み休み女の子に話しかけていたけれど、気がつけば日が暮れかかっていた。

「もうそんな時間になったんだ」

 慌てて帰ろうとしたが、女の子が心配になって声をかけてみた。帰らないのかと聞いてみても、彼女は何も言わない。

「お父さんとお母さんが心配するよ?」

 そう言うと、彼女は初めて僕へ感情を向けたんだ。

 その目はとても冷たかった。

 何も言われなかったけれど、彼女の目を見て怖くなり、先に帰るねとだけ言って坂を下りた。

 下りながら、怖いだけじゃなくて、どこか寂しいというか切ないというか、そんな気持ちを抱いていたと思う。

 そのまま家に帰ると夕食を食べ、いつもより早く布団に入ったんだ。


 夜中だった。

 何かの音で目を覚ました僕は、息を潜めて音の出どころに耳を澄ました。

 玄関と庭の方から音が聞こえてきたので、泥棒かと思ったけれど、それにしてはかなり雑な気がした。

 横を見ると、目が覚めたらしいおじいちゃんが僕に「しっ」と言ったので、僕は口をつぐんだ。

 まだ寝ているおばあちゃんを起こさないよう立ち上がったおじいちゃんは、護身用に置いていた木刀を手に、音のする方へと行ってしまった。

 僕は怖くて震えていたけれど、おばあちゃんの寝顔を見たら怖くなくなったんだ。

 大好きなおばあちゃん。もし、泥棒だったら、おばあちゃんが危険だ。

 そう思った僕は、おじいちゃんの後に続いて玄関の方へ向かった。

 玄関は鍵ではなくつっかえ棒をしていたので、外にいる人はかなり大きな音を立てて開けようとしている。おじいちゃんに気づかれた僕は怒られそうになったけれど、さすがにそれどころじゃないと思ったのか、軽く頭をはたかれただけですんだ。

 庭にいた人も合流したのか、玄関の向こうで会話が始まっている。

 小声だったので内容はわからないけれど、男女だということだけはわかった。

 するとおじいちゃんはため息を吐き出し、つっかえ棒をはずしたのだ。

 何をしているのかわからず、黙っておじいちゃんの行動を見ていると、開けられた玄関の先で、あの夫婦が目を丸くしていた。

「こんな時間に何の用だ。言い訳は聞かねえからな」

 ドスのきいた声に怯え出した奥さんは、旦那さんの腕を掴んで震え出す。

 旦那さんは気まずそうに視線をそらし、軽く舌打ちするのが聞こえた。

 その態度に、おじいちゃんは眉をつり上げ、拳を強く握るのが見えた。

「ノリユキ、ばあさんを起こして、警察呼んでもらえ」

「う、うん……」

 言われるがままおばあちゃんを起こすと、事情を話して警察を呼んでもらった。

 警察はすぐに駆けつけてくれて、不安がるおばあちゃんの背中をさすっていた僕と、不機嫌そうに玄関であぐらをかくおじいちゃんを見て、苦笑いを浮かべていたっけ。

 来てくれた二人はおじいちゃんを知っていたみたいだから、何かを察したのかもしれない。

 おじいちゃんが何を言ったのか、何をしたのかはわからないが、夫婦は玄関先で大人しく警察の到着を待っていて、そのまま連れて行かれてしまった。

 残された僕達は、真夜中だということで事情聴取は明日になったけれど、実況見分のために一晩中起きていることにはなってしまった。あの日は本当に散々だったよ。

 次の日は事情聴取があるからと、一時間かけて警察署まで行って、詳しいことを根掘り葉掘り言わされたし、休憩もなかった。

 三人でクタクタになって帰った次の日、この話を聞いてもらいたいと畑に行ったけれど、あの子はいなかったんだ。

 そして、それ以来会うことはなかった。

 あの女の子が誰だったのか知ったのは、おじいちゃんの葬式の後だった。

 おばあちゃんと一緒に、しばらくあの家で遺品整理などを行うために泊まった時、おばあちゃんから聞かされたのだ。

 僕が見たあの子は、家に入ろうとした夫婦の実の娘だった。

 夫婦が若かった頃、二人の間に女の子が生まれた。可愛い子で、二人とも可愛がっていたそうだけれど、成長していくにつれて、奥さんが娘に嫉妬するようになったのだという。

 きっかけはママ友の集まりで、娘が可愛いのに、どうして母親は普通なんだと言われたことらしい。

 俺には理解できないが、女同士、ママ友同士の嫌な感情からの話だったのだろう。

 無視すればいいものを、その言葉を真に受けた奥さんは、それから娘を敵視するようになってしまったのだ。

 旦那さんは奥さんの変化に気づいていたけれど、今だけだろうと真に受けず、放っておいた。それが駄目だった。

 ある日帰宅した旦那さんが見たのは、顔に大火傷を負って倒れる娘と、壊れたように笑う奥さんだったのだ。

 娘に嫉妬した奥さんは、ヤカンか何かの熱湯を実の娘の顔にかけ、これでもう大丈夫と笑っていたらしい。

 さすがにこれはまずいと思った旦那さんは、あろうことか救急車や警察を呼ばず、自力で治療を始めたのだ。

 世間体を気にしてのことだったらしいが、ほとんど顔の原型を留めていない娘の火傷は深刻で、ガーゼや包帯で治療しただけでは防げない感染症にかかってしまい、そのまま亡くなってしまった。

 奥さんは正気に戻ったが、娘の話を極端に嫌がり、いないもののように扱っていたらしい。

 娘の死を悲しまないどころか、物のように処分しようと言い出したそうなのだ。

 最初は怒った旦那さんだが、娘の怪我と妻のしでかした事を故意に隠してしまった手前強くは出られず、奥さんの言うままに、庭へ遺体を埋めたそうだ。

 あとは逃げるように引っ越し、娘のことについては、引っ越しと転校という言葉で強引に誤魔化したらしい。

 今なら無理でも、当時はそれで済んでしまったというのだから恐ろしい。

 そうして逃げていた夫婦だが、娘の遺体が埋まった庭が掘り返されると知り、場所を変えようとこの村へ来た。

 遺体は工事が入る前に夫婦が掘り返し、あの畑へと埋め直したのだという。

 これで安心だと思ったが、私が畑へ出入りしていることを知り、少し脅して行かないように仕向けようとしたことが、例の不法侵入未遂事件へと発展したというわけなのだ。

 私が真相を聞いて絶句したのは言うまでもない。

 あの畑から子供の骨が見つかった後は、村の人達だけでなく、その家族や親戚まで集まって、捕まった夫婦に変わって葬式をしたそうだ。

 遺体発見に立ち会ったおじいちゃんが、このままではあの世に行けないからと、先頭に立ってとりおこなったらしい。

 女の子は今も、村の墓でみんなと眠っていることだろう。

 

 おばあちゃんが亡くなった今、取り壊された母の実家の跡地を見ながら思い出す。

 井戸で冷やされたスイカの味や、草刈り直後の青くさい香り。

 土くさくて、でもどこか安心できたおじいちゃんの香り。

 おばあちゃんの優しい笑顔と、おいしかった食事の味と香り。

 どれもこれも、僕にとって大事な思い出だ。

 人間は香りからも思い出すと言うけれど、確かにそうだ。

 すっかり草だらけになった道を歩き、あの畑へ行ってみると、そこはもう草だらけで面影はなかった。

 坂の上から見る村の全体も草に覆われていて、記憶の中のあの頃と違う、むせ返るほどの緑の匂いが息苦しい。

 人がいなくなったため、村にあった墓は別の場所に移動されたので、この場所にはもう誰も来ないだろう。

 風の中に感じる微かな香りは、あの頃の残り香なのだろうか。

 最後まで何も言わなかった彼女が残した、この場所の香り。

 誰も訪れない場所で一人、土の中にいた彼女がくれた思い出。

 村の先祖達と共に、別の場所で眠る彼女は今、笑ってくれているのだろうか。

 そんな事を考えながら坂を下りきる。

 もう二度と来ないであろう、もう一つの故郷に別れを告げて車へ乗り込むと、寂しさを振り払うようにキーを回す。

 エンジン音が響き、私はアクセルを踏んだ。

 通り過ぎていく景色は、どこもかしこも私が走り回った場所だ。

 あれほど広くて大きかった村なのに、記憶の中よりも狭かった。

 それに気づいた今、もう僕には戻れないのだと笑ってしまう。

 村を抜ける山道に入り、一度だけ振り返る。

 「僕」がかけた気がした。

 

 

 

 

 

  

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

思い出の香り 逢雲千生 @houn_itsuki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ