第62話 大事なことは変わることではなく進むことです

「エドガー! ちんたらしてんじゃねぇ!」



 親方の怒鳴り声にテキトーに返答しつつ、俺はまだ靴をみがいていた。


 しばらく店を休んでいたから、もうさすがにクビになるかと思っていたが、親方は謝ったら許してくれた。


 本当はやめてやろうと思っていたのだ。カラスから金ももらえたし。一生食っていけるほどではないけれど、当面は食っていける。これで何か事業を起こしてもいい。


 けれども、靴職人になりたかった。そう気づいた。


 親方はくそ野郎ではあるが、靴職人としての腕前は一流だ。この人から靴づくりを学べるまでは働いてみようと思った。


 金があると心に余裕ができるものである。いつやめてもいいと思うと、親方にも堂々と話ができる。ぎゃあぎゃあとうるさかったが、じっくりと交渉したところ、靴づくりを教えてもらえる手筈てはずとなった。少しずつではあるけれど。


 相変わらず、中古の靴の修理の仕事はあるけれども、少しずつ変わってきている。いや、変えていこう。



「それに、忙しい方が気がまぎれるし」



 まだ傷心中しょうしんちゅうである。


 失恋して、胸が痛い。もう、はっきりと胸がずきずきと痛む。そして後悔。何でもっとはやく告白していなかったのかと。でも、早くてもだめだったのではないかとまた落ち込む。


 立ち止まっているとあれやこれやと考えてしまうので、仕事に没頭ぼっとうしていた方がいい。


 靴を磨くと心も磨かれる。そう思えば、靴を磨くのも楽しくなるものだ。いや、ならないな。


 俺が、現実逃避しようとして、しきれないでいたところに、女の悲鳴が跳び込んできた。



「助けて!」



 何事かと俺が驚いていると、女が俺の服にしがみついてきた。誰かと思って、視界に入ったのは猫ピアス。小柄こがら体躯たいくった髪、派手な化粧の女。


 

「おまえ、どうしたんだ?」


「追われているの!」



 誰に、と聞こうとして、その相手が誰かを俺は知っていた。猫ピアスの女は、リゾナの町で男に借金を押し付けられて逃げてきた。だとすれば、彼女を追っているのは当然彼である。



「やぁ、お兄さん。お久しぶりです」



 続けてやってきたのは、スーツの男、カーターとその一味。彼は、ニッと人当ひとあたりのいい笑みを浮かべてから、猫ピアスの女に目を向けた。



「そちらの娘さんとお知り合いでしたか?」


「いや、その」


「以前は知らないと言ってませんでしたか?」


「あー、そうだったかな」


「まぁ、いいです。その娘、こちらに渡してもらえますかね?」



 カーターは、有無を言わせぬように言う。声の調子といい、さまになっている。慣れているのだろう。こんな奴に歯向はむかっちゃいけないと、俺の本能がずっと警鐘けいしょうを鳴らしている。


 身体の震えまで始まったかと思ったが、それは俺ではなく、しがみついている猫ピアスの女であった。そりゃそうだ。俺は関係ないのだから怖がる必要などないが、この女は当事者だ。怖くて仕方がないだろう。


 俺は猫ピアスの女の肩を叩いてやった。少しでも安心させてあげたいと思ったからだ。すると、カーターの方が、面倒そうに口を開いた。



「あー、勘違いしないでくださいね。私達、その娘に危害を加えようなんて考えていませんから。ただ、貸したものを返してほしいだけなんですよ」


「この前は、家出娘と言ってませんでしたっけ?」


「そうでしたっけ? まぁ、それはそれとして、わるいのはそちらの娘さんなわけですよ。おとなしく渡してくれませんかね」


「見たらわかると思うけど、こいつ金もってないですよ、たぶん」


「金がなければ働いてもらうだけですよ。前に言いませんでしたっけ。私、女の子の働けるお店もってますので」


「嫌だと言ったら?」


「手荒な真似は好きじゃないんですよ。お兄さんも怪我したくないでしょ」



 後ろのスーツ男が、一歩前に出る。おどしも慣れたものらしく、きちんと連携がとれている。普通に怖い。


 ここはおとなしく引き渡した方がいいかな、と思うくらいに俺はびびっていた。だけど、しがみつく彼女を見て、俺はため息交じりで、カーターの目を見返した。



「いくらですか?」


「はい?」


「こいつの借金ですよ」


「お兄さんが払ってくれるんですか? それならば問題ないですが、失礼ながら、お兄さんに払えるような額じゃないと思いますが」



 そう言って告げられた金額は確かに大きかった。猫ピアスの女の元カレもどうやって、そんな借金をこしらえたのやら。


 あきれつつも、俺は、ふところから金を取り出す。こんな大金、どこに保管すればいいかわからず持ち歩いていたのがさいわいしたのか、わざわいしたのか。


 ぽんと出てきた大金にカーターは、初めて笑みをくずした。



「お兄さん、このお金は?」


「あぶく銭だよ。ちょっといい仕事があって」


「まさか、誰か殺しました?」


「何でそうなるの?」



 いや、こんなしがない靴屋の店員が大金を急に出して来たら、そんな発想にもなるか。とは言いつつも金はあるのだ。カーターは半信半疑ながらも金を受け取った。しばらく偽札でないかと疑ってから、本物だとわかると胸元にしまった。



「気前がいいですね。その娘にたぶらかされました?」


「どうだろう」



 俺は、猫ピアスの女の方をちらりと見てから、眉をぴくりと寄せた。



「恩を返したってところかな」


「そうですか。まぁ、こちらとしては金が返ってくれば問題ありません。末永くお幸せに」



 カーターはにこりと笑って、淡白に別れを告げて、きびすを返した。怖い人だけれど、悪い人というより、仕事人といったかんじだったらしい。


 借金取りのいなくなったことに気づいた猫ピアスの女は、そろそろと顔をあげ、信じられないといった表情を俺の方に向けた。



「え? 何? 何で?」


「落ち着け。言ったとおりだ。降って湧いた金がちょっと入ったんだよ。もらう予定がなかった金だからな。払う予定のないところに払っただけ」


「何で私のために? はっ!? やっぱり身体目当からだめあて!?」


「違うから。ていうか、やっぱりって何?」


「じゃ、何で?」


「友達なんだろ」



 そう言うと、猫ピアスの女は泣きそうになってから、鼻をすすった。泣いたらメイクが崩れるから必死にえたのだろう。


 実際のところ、助けた理由はよくわからない。恩を返したかったからというのもある。彼女のおかげで、人魚の泉に挑戦しようという心持ちになれた。だから、このお金は彼女のものとも言える。


 それから、おびえている彼女を見たくなかったから。



「ありがとう」


「礼なんていいよ。本当に使い道のない金だったんだ」



 ちょっと惜しいけど。



「これで借金もなくなったんだ。リゾナに帰るか?」


「うーうん。こっちで仕事をみつけたの。エビのおいしい飲み屋さん、知っている? かどのとこの。あそこでやとってもらった。歌も歌っていいって」


「そうか。じゃ、この町にいるんだな」


「ふふ、うれしい?」


「まぁ、どちらかというと」


「何よ。照れちゃって」


「別に」


「ねぇ、口説くどくなら今だけど?」


「そんなんじゃないって」


「あー、そっか。あの美人さんが好きなんだっけ」


「……」


「ん? 何? まさかフラれちゃった!?」


「もー、うるさい」


「そっかそっか、フラれちゃったか。でも、えらい。ちゃんと告白したんだ。それでこそ男だよ。じゃ、次ね」


「そんなに簡単に切り替えられないよ」


「うわっ、女々めめしい。すぱっと忘れなさいよ」


「おまえはどうなんだよ。元カレのことは?」


「いつの話をしているの? もう忘れちゃったわ」



 女の子、たくましいね。


 

「ソラよ」


「ん?」


「私の名前。そういえば教えてなかったなって思って。あなたは?」


「靴屋のエドガーだ」


「エドガーね。いい名前じゃない」


「行きずりの男には名乗らないんじゃなかったのか?」


「友達には教えるわ。気になっている男になら当然ね」



 ふふ、と笑って、ソラはぐっと背伸びをする。き物が落ちたようで肩がかるそうだ。木漏こもれ日をびた彼女の姿は、天使が降りてきたかのように思えた。


 だから、じゃない。ソラには、ずっとこう言いたかった。一つの挑戦。できないかもしれないじゃなくて、やるんだという思いのもとで。



「なぁ、ソラ。俺が靴作ったら履いてくれるか?」


「え? 作ってくれるの?」


「まだだけど。必ず作るから、そのときは履いてほしい」


「うん! 履く!」



 挑戦には成功も失敗もある。失敗の方が多いかもしれない。いや、多いだろう。けれども、数少ない成功を勝ち取るために俺は何度でも挑戦しなければならない。


 ソラは、くるりとまわって、ほおを桃色に染めてから言った。



「靴は待つけど、私は待たないからね」


「はは、厳しいな。オッケー。できるだけ急ぐよ」


「よろしい」



 どうやら、近々、また大きな挑戦をしなければならないようだ。


 挑戦は怖い。だけど、この、太陽のような笑顔を見るためになら、俺は何度でも挑戦したい。


 そう思えてしまったのだから、これはきっと。

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